第一七四話 胡孔明がチャリ(オット)で来た
そして迎えた模擬戦の日。
孔明一行に先んじて、麒麟団の拠点を訪れた尹賞はひとりではなく、三人の役人をひきつれていた。裁定人を務めるにしても、ひとりではとうてい目が足りないからである。
「模擬戦に出るのは、この八名だな」
尹賞は立ちならんだ八人の顔ぶれを確認してから、選考に漏れた梁緒を見やった。
「梁緒は残念だったようだな」
「武芸は不得手なので」
梁緒は小さく肩をすくめた。
「まあ、私が麒麟団の団員だったとしても、選ばれなかっただろうよ」
尹賞は軽く笑いながらいうと、八人のなかにいる姜維に視線をもどして、
「それでは武器を調べさせてもらうぞ」
その言葉を聞くや、彼がつれてきた三人の役人が動きだし、姜維たちが手にする棒や矢の安全性を確かめていく。
されるがままに調べられていた姜維は、ふと思い出した。
考えることが多すぎて失念していたが、尹賞から了承を得なければならないことがあった。
「尹賞さん、あずかっている馬を使わせていただきますが」
「いまさらだ。かまわんよ。軍事演習に使うのと大差あるまい」
そうこうしているうちに、役人たちは手際よく安全確認をすませた。
彼らの報告に、
「よし、問題はないようだな」
尹賞はうなずき、姜維に問いかける。
「それで、模擬戦をおこなう場所は? たしか、罠を設けないという条件で、麒麟団側が決めてよいという話になっていたと思うが。どこでやるつもりだ?」
「亭の北側の土地を使用します。あそこなら、亭舎の上階から戦場の全容が見える」
「なるほど、いい案だ」
この亭の周囲には、平地が広がっている。
その大部分は耕作地となっているが、地盤が固い北側の土地は手つかずのままだった。
騎兵が動きまわるのに、これほど適した場所はない。
「孔明先生がお着きにならないうちに、戦場の見分をしておきたいのだが」
と、尹賞は申し出た。
彼にとっても、孔明は丁重に対応しなければならない人物である。
できるかぎり孔明を待たせることなく、円滑にことを進めたいと考えているのであろう。
「案内します」
姜維としても断る理由はない。
公平な戦場を用意したつもりだ。
しっかり確認してもらったほうがよい。
「私たちも、先に所定の位置についておこう」
姜維は仲間にむきなおり、声をかけた。
選ばれた七人の勇士が顔に決意をみなぎらせ、その背中に、選ばれなかった仲間たちが声援を送る。
いまの彼らの姿を見て、誰が無力な孤児たちと思うだろうか。
無力であるはずがない。
麒麟団の団員は、仲間とともに力強く生きている。
姜維が確かな絆を感じていると、梁緒が歩み寄ってきた。
「姜維」
「どうした梁緒」
「これが本物の戦なら、一昨日の私の発言は利敵行為となりかねない。自分のうかつさにうんざりする」
申し訳なさそうにしている副団長に、姜維は笑顔を見せて、
「それなら、本物の戦ではなかったことに感謝しよう」
「ああ……。勝利を望んでいるのは私も同じだ。麒麟団の団員に、勝利を望まぬ者などひとりもいない」
梁緒の顔には、選ばれた勇士たちと同種の決意があった。
姜維は満腔の同意をこめてうなずき、戦場にむかった。
どこまでも青い空を、鷹の群れが旋回している。
しばらく雨が降っていないため、足元もぬかるんでいない。
戦日和というものがあるのなら、今日はまさに絶好の戦日和なのだろう、と姜維は思う。
彼が、横に立たせた馬のたてがみをかき撫でていると、同じようにしている梁虔が口をひらいた。
「すこし風があるな」
「どうやら風が舞っているようだ」
応じる姜維。
梁虔は、戦場となるであろう場所を、漫然と眺めながら、
「追い風でも向かい風でもないか。まあ、それなら気にする必要はなさそうだ」
彼らの前方では、尹賞たちが、戦場に不審な点がないことを確認してまわっている。
その作業を眺めている姜維たちは、うしろめたいことはなにもないのだが、なんとなく無言になった。
「なあ、姜維」
ふいに、梁虔が沈黙を破った。
彼に視線をむけた姜維は、意外に思った。
梁虔の顔に浮かんでいたのは決意の表情ではなかった。迷い、あるいはためらいの色がある。
「……いや、なんでもない。いまは勝負に集中しよう」
そういって、梁虔は口を閉ざした。
彼はなにをいおうとしたのだろうか?
そういえば、梁緒の様子もすこしおかしかったような気がする……。
ひっかかるものを感じて、姜維は小首をかしげた。
それからしばらくして、ついに孔明一行が姿を見せたが、その様相に姜維たちは意表をつかれた。
てっきり騎馬四騎でやってくるのだと思いこんでいたが、孔明たち三人は戦車に乗っていたのだ。三頭立ての戦車である。騎馬は鄧艾一騎のみであった。
「戦車ぁ?」
「おいおい、戦車に乗ってきたぞ」
「いまどき戦車で騎兵と戦おうっていうのか?」
姜維の周囲から、呆れの声が巻きおこった。よろこびの声でもあった。
戦車はとうの昔に廃れた、旧時代の遺物である。
いまの戦の主役となりつつある騎兵に、敵うはずがない。
だが、仲間たちのような楽観的な気分に、姜維はなれなかった。
騎兵の価値を高めたのは誰か?
強力な騎兵を駆使して天下に手をかけている曹操と、あぶみを発明した孔明自身である。
その孔明が、わざわざ時代遅れの戦車に乗ってきたのだ。
なにか策があってのことにちがいなかった。
尹賞たちは、孔明のもとに急いで駆け寄ると、所定の位置――姜維たちから八十歩はなれた位置へと先導する。
そこにつくと、孔明たちの武器の安全確認がはじまった。
「約定の刻限どおりに来たつもりだが、待たせてしまったか!」
孔明が、姜維たちにむけて声を張りあげた。
「いえ! こちらも配置についたばかりです!」
姜維も大声で返した。
このとき、孔明が弩を手にしているのを見て、姜維は孔明の狙いを察した。察したと思った。
「姜維。この勝負、勝てるぞ」
そう語りかけてくる梁虔の声もはずんでいたが、浮かれている仲間たちに、姜維は同調できなかった。
「これは孔明先生の罠だ。よく見ろ、孔明先生が持っている武器を」
「弩か……」
姜維のいわんとするところを理解したのか、梁虔は顔をしかめた。
なにが罠かといえば、安全な矢を使用するという取り決めである。
騎兵の姜維たちは弓を使うしかない。
それに対して、孔明は最初から弩を使うつもりだったのだ。
精強な騎馬民族である匈奴との戦いにおいて、漢朝を勝利に導いたのが弩兵である。
騎兵にとって、弩兵は天敵といっても過言ではなかった。
安全な矢を使用するという取り決めは、矢戦をおこなえるようにして、実践に近づけるためであった。
だが、その名目の裏に、騎兵に対して最も効果的な弩を使用する、という狙いが隠されていたのである。
自分のうかつさを呪いながら、姜維は説明する。
「弩は射程距離でも弓にまさるが、この場合、より大きな問題となるのは射角の差だ。私たちは矢を上空にむけて放ち、落下地点に標的をとらえなければならない。だが、むこうは水平に近い角度で、こちらを狙い射つことができる」
どちらが命中させやすいかは自明の理である。
同じ遠射兵器であっても、弓と弩のあいだには歴然とした性能差があるのだ。
姜維は唇を噛んだ。
「同じ弓が相手であれば、人数差を活かして、矢数で優位に立とうと考えていた。しかし……」
「矢戦は不利ってことか。……ちっ、せっかく苦労して矢をつくったってのに」
梁虔が舌打ちした。
せっかくつくった矢が、いままでの苦労が、水の泡になってしまったのだ。
弓矢に執着する気持ちは姜維にもあった。
それとも孔明は、執着は身を滅ぼす、と姜維に教えようとしているのだろうか。
馬超に対する執着を捨てろ。そう伝えようとしているのだろうか。
孔明がどこまで考えているのか、もはや姜維には皆目見当がつかなかった。
その孔明はと様子をうかがえば、武器の安全確認を終えた尹賞たちがはなれていくのが見えた。
梁虔が焦りの声で、
「どうする? 迷っている暇はなさそうだぞ」
裁定人の四人が、戦況を見やすい場所に散らばろうとしている。
彼らが配置につけば、いつ模擬戦がはじまってもおかしくない。
思考の袋小路で、立ち尽くしていられる状況ではなかった。
「弩兵は接近されると弱い。騎兵の機動力を活かして、迅速に距離をつめる。騎兵の天敵が弩兵なら、弩兵の天敵も騎兵だ」
姜維が腹をくくると、梁虔がうなずいた。
「わかった。どうやって距離をつめる?」
「直進しようとすれば、弩に狙い射たれるだろう」
「なら、左右からまわりこむように接近するしかねえ」
梁虔の提案に、今度は姜維がうなずいて、
「ああ、二手にわかれよう。梁虔は四人で右手から接近してくれ。私は左手から行く」
「了解。俺は右手の先頭を走る。姜維、おまえは左手の最後尾だ」
「私も先頭を――」
「だめだ。おまえは大将だ。最後尾につけ」
梁虔は語気を強めた。
「しかし、この模擬戦は、どちらかが全員戦闘不能になるまでつづけられる。大将が落ちたら負けというわけではないし、誰が大将と決まっているわけでもない」
反論する姜維だが、梁虔は一歩も引かずに、
「しかしも、けどもねえ。姜維、おまえが大将だ。まっさきに落ちそうなまねが許されると思うな」
「……わかった」
口論している時間はない、姜維はしぶしぶ受け入れた。
裁定人たちが足をとめた。
適切な場所についたらしい。
尹賞が、孔明と姜維を交互に見やり、声を張りあげる。
「両陣営とも、準備はよろしいか!」
どちらからも、待ったの声はかからなかった。
尹賞は右手を掲げると、怒鳴るような大声で宣言した。
「はじめッ!!」




