第一七二話 民衆の声
ときはすこしさかのぼり、模擬戦の取り決めを交わした翌朝のことである。
鏃の代わりに布を巻きつけた矢をつがえ、麒麟団の若者が弓を引きしぼった。
次の瞬間、放たれた矢はゆがんだ放物線を描いて、三十歩ほど先の地面に落下した。
彼は思わず情けない声で、
「うへぇ、へろへろだぁ」
「おいおい、そんな調子で大丈夫かよ」
別の若者が嘲笑を浮かべながら、弓をかまえた。
「まあ、見てなって」
自信満々に矢を放つ。
だが、その矢は空中で暴れまわり、二十歩ほどしか飛ばなかった。
「ありゃ」
「ぎゃっはっは! おまえのほうがひでーじゃねえか!」
「うっせえ! 四日後までに形になりゃいいんだよ。……おっと、あれは尹賞さんか?」
冀県につづく道を、馬に乗った人物が近づいてくる。
顔なじみの尹賞のようだ。彼は世話焼きで、農作業や土木作業、治安維持といったさまざまな業務を、麒麟団に割り振ってくれる。
「おはようございます、尹賞さん」
「朝っぱらから騒々しいようだが、なにをしているんだ?」
尹賞は怪訝な顔をしながら、馬から下りた。
若者たちは顔を見合わせて、
「なんか、孔明先生のご一行と模擬戦をすることになったみたいでして……」
「なに? なんだそれは? 姜維はどこにいる?」
事態についていけない、といった顔で尹賞は訊ねた。
「自分の部屋だと思いますよ」
そのとき、姜維は自室で経書をひもといていた。
麒麟団の団長をしていることで、母には心配をかけている。
学問をおろそかにするわけにはいかなかった。
「姜維! 事情を説明してもらおうか」
そこへ尹賞がやってきて、姜維は顔をあげた。
どの件について事情を問われているかは、あらためて言葉にするまでもない。
姜維自身、昨日の出来事は消化不良のままである。
一から説明すると、尹賞は眉を動かし、嘆息した。
「なるほど、困ったことになったな」
「はい。いきなり模擬戦といわれても……」
「その話ではない」
尹賞は呆れたように首を振った。
「孔明先生に弟子入りする話だ。なぜ断った? 君にとって願ってもない話だと思うが」
「それは……孔明先生にお話ししたとおりです。私はこの地をはなれるわけにはいきません」
毅然とした、というよりは、かたくなな言葉であるように感じられ、姜維は自分の年齢を意識させられた。
仲間たちの前では立派であろうとしているが、その衣を脱げば、彼は十四歳の少年にすぎないのである。
「馬超か……。だがな、曹操軍が長安まで来ているそうだ。彼らが漢中を占領すれば、この漢陽郡はいままでより安全になる。ここで待っていたところで、馬超と再戦する機会が訪れるかわからん。馬超を討ちたければ、それこそ孔明先生のおっしゃったように、馬超討伐軍に参加するほうが確実だろう」
「…………」
姜維は反論できなかった。
郷里が安全になるのはよろこばしい。
では、そのあと、どうする?
孔明と尹賞の見解は、その答えであるようにも思われる。
だが、姜維はうなずくことができなかった。
「それでも、この地にとどまろうとは……。さては、麒麟団が心配か」
少年の胸中を、尹賞はいいあてた。
「……私は麒麟団の団長です。彼らを見捨てるようなことはできません」
「そうか……まいったな。正直、こんな状況になるとは想像もしていなかった」
尹賞が頭をかいてぼやいた。
「こんな状況とは?」
「麒麟団の存在が、君の足かせとなることだ」
「足かせとは……! 尹賞さんの言葉であろうと、受け入れられません!」
姜維は腰を浮かせた。
ともに麒麟団を立ちあげた尹賞に、なぜ仲間を侮辱されなければならないのか!
「足かせだよ」
尹賞は断定すると、さとすような声で、
「なあ、姜維。麒麟団を結成した目的はなんだ?」
「役人の力だけでは救えぬ未成年に、救済の手を差し伸べるためです」
落ち着きを取りもどして、姜維は答えた。
「そうだ。先の戦で父親を失った少年たちは、君に一目置いている。その心情を利用すれば、同じ境遇の仲間が集まった集団であれば、役人には心をひらかない少年も救えるのではないか。そう考えて、私は君を利用しているのだ」
「承知のうえです。私は、私の責任を放棄するつもりはありません」
姜維はみずからの意思で麒麟団を立ちあげたのだ。
尹賞に強制されたわけでは、けっしてない。
「責任か……。馬超も責任を果たそうとしていたのだろうな」
「馬超が……?」
意外な人物の名が出てきて、姜維は戸惑った。
「私は忘れていない。忘れられるわけがない。馬超が曹操と戦うと知れわたったとき、その決断を、周囲の人々がこぞって称賛していたことを」
「…………」
「考えてもみろ、この地の人々が、いつ漢朝に従順だった? 反抗したのは馬超だけではあるまい。この地域の民衆は馬超を支持していたのだ。馬超は民衆の希望だったのだ。潼関の戦いで敗れるまでは」
尹賞は吐き捨てた。
彼は、あきらかに馬超のために激していた。
困惑しながらも、姜維は反駁する。
「……しかし、馬超は民衆に刃をむけました」
「先に裏切ったのは民衆のほうだ」
尹賞は、言葉の刃で民衆を切り捨てた。
「馬超にすべての罪をかぶせた。いや、馬超に権限があったのだから、責任があるのは当然のことだ。だが、反乱のしわよせをさけるために、民衆は被害者ぶった。馬超を糾弾して、悪者に仕立てあげたのだ。そんなことさえしなければ、冀県と歴城の惨禍は回避できただろうに!」
怒りをおさめて、尹賞は太い息を吐いた。
「麒麟団の団員が君に心を寄せているように、この地域の人々は君に期待している。君が成長して立派になるにつれ、自分たちも戦災から復興し、豊かになっていくのだと夢を見たがっているのだ。かつて馬超に夢見ていたように」
痛烈な皮肉をいい、尹賞は少年の目を見つめた。
「姜維。君の人生は、そんなつまらないものを受けとめるためにあるのか?」
否、と答えなければならないのだろう。
だがそれは、麒麟団をつまらないものとして認めてしまうことになるのではないか。
姜維は答えるすべを持たなかった。
さりとて、自失していられる身でもない。
麒麟団の団長として、模擬戦にむけた準備を進めなければならなかった。
「……尹賞さん、お願いがあるのですが」
模擬戦の裁定人となってくれるよう頼みこむと、尹賞は快諾して立ち去った。




