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宝仙伝  作者: 神無月拓楼(旧HN現武壱)
8/23

幻影遊戯之章

それは良く晴れた日の事。


数日前に出会った僧侶の二人と共に、俺は旅をしていた。


正直めんどくさいと言う気持ちはあったが、成り行き上仕方なく、半ば諦めていた。


「止水、ちょっと良い?」


そう言って、俺の方に静菜が近寄ってくる。


「・・・?俺の事か?」


いきなり聞き慣れない名前を聞いて、俺の反応は少し遅れた。


「うん!えへへ・・・いつまでも『キミ』とか『あなた』じゃ変でしょ?」


そう言って、静菜は笑いながら説明してくる。


そこで初めて、『止水』が俺の事なのだと理解した。


「明鏡止水から取って『止水』・・・良い名前でしょ?」


「・・・余計な事だな・・・名前なんて無くても、俺は別に困らん。」


そう言って静菜から顔を背け、刀を研ぐ準備をする。


「もぉ~・・・なんでそんな事言うのよ!名前は、その人を表す大事な物なのよ?」


俺の言動に対し静菜は、素直に怒ってくる。


今まで俺の周りには、俺の事を怒る人物は居なかった。


大抵は俺の事を忌み嫌い、疎ましく思っていた奴等がほとんどだった。


なので、出会って間もない上、見た目では年下にしか見えない女に、こうも怒られると、どう反応して良いのか全く解らなかった。


「・・・そんな事、俺には関係無いし、名前なんぞ無くても生きてはいける。」


そう言って、俺は鞘から刀を抜いて、研ぎ石に添える。


「・・・キミ、根暗だって言われた事無い?」


静菜は、呆れた雰囲気を言葉に込めて言ってくる。


だが俺は、それには応えず、刀を研ぎ始めた。


「止水・・・言い名前ですね静菜。」


どこからか俺達のやり取りを見ていたのか、海淵が姿を現すとそう切り出した。


「宝仙様。」


「それでは、これからはあなたの事は、『止水』と呼ぶ事にしましょう。」


笑顔で俺の顔を覗き込み、そう言ってくる海淵を、俺は一瞥して、また刀を研ぎ出す。


「・・・勝手にすれば良いだろう。あんた達とは、鬼を返したらそこで終わりの関係だ・・・その間、俺の事を好きに呼ぶのは、あんた達の勝手だ。」


「それでは、そうさせて頂きますよ止水・・・ですが今度は、私達の事もちゃんと名前で呼んでくださいね。」


「・・・あんた達の事を・・・どう呼ぶかも、俺の勝手だ。」


そう呟いて、俺は刀を研ぐ事に専念する。


彼等の事を、名前で呼ぶ様になる日が来る事を、この時の俺は想像もしていなかった。


・・・・・・・・・


・・・・・・


・・・


それは朝から雨が降っていた日の事。


一年程前に出会った僧侶達と共に、俺は旅をしていた。


出会って旅をし始めた頃は、正直めんどくさいと言う気持ちだったが、この頃はそう思う事も少なくなっていた。


だが、こういう雨の日は、そうでもなかった。


俺は雨が嫌いだ。


俺が経験した戦の中でも、地獄としか言い様のない合戦の事を、嫌でも思い出すからだ。


黒く分厚い雲に覆われ、冷たい雨が体温を容赦なく奪う。


昼にも関わらず、夜と変わらない視界の悪さ。


激しくぶつかり合う雨音と、叫び声だけが支配する世界。


一面血の混じった雨水が大地に広がり、人間の贓物がそこかしこに散乱する中。


寒さより来る眠気を必死に抑えながら、あまり良いとは言えない視界の為、敵か味方かの区別すら付かない。


全く気の休らない状況の中、合戦は二日に渡って続いた。


血の混じった泥水を飲んで、飢えを凌いだ時のあの味は、今でも忘れられない。


今でも雨の日は、あの時の味と、体の芯から凍える様な寒気が蘇る。


「・・・雨は嫌いだ・・・」


俺達の泊まる宿屋の一室の天井を見上げながら、寒さに震え出した体をさすりながら呟いた。


雨が降る日はいつもこうだ。


そんな事を考えながら、思い出した泥水の味に吐き気を覚える。


「・・・止水・・・震えてるの?」


その声に驚き、声のした方に顔を向ける。


「静菜・・・海淵と買い物に行ったんじゃなかったのか?」


俺は努めて平静を装って、さすっていた手を止めた。


どんなに気を許した相手であろうと、自分の弱みを見せるな。


それが俺を拾い上げて、武術を叩き込んだジジィの口癖だった。


昨日まで友だと思っていた者が、明日には敵に変わるかも知れない世界を生きてきた。


その為俺は、目の前にいるこの女にも、自分の弱みを見せる様な事はしなかった。


「先に帰ってきたの・・・それより体・・・大丈夫?」


そう言って、心配そうに俺の体を気遣ってくる。


「・・・あぁ。」


顔を背けながら、自嘲気味に苦笑して答える。


「・・・嘘。」


「うん?」


静菜の呟きに、俺はまた顔を静菜に向けた。


「止水・・・無理してる。」


そう言って、静菜は俺の方に近づいてくる。


「・・・無理なんかしてないさ。」


静菜の顔を見上げながら、俺はそう呟いた。


不意に、静菜が倒れ込む様に、座っていた俺の体に抱きついてくる。


「無理・・・してる。辛いんだね・・・悲しいんだね・・・」


俺の耳元で、静菜がそう囁いてくる。


「俺が・・・悲しい?」


静菜の息を耳に感じながら、呟きを漏らした。


悲しい・・・この俺が?・・・解らない・・・


別に涙を堪えてる訳でも無いのに、静菜はそう言ってくる。


静菜が何故そう思うのか、俺には理解出来なかった。


「あんまり・・・無理しないで・・・一人で抱え込まないで、私たちに言って・・・ね?」


そう言って静菜は、回した腕に更に力を込めてくる。


静菜の言葉に戸惑いを感じながら、俺は成されるがまま身を委ねていた。


静菜の言葉に戸惑いを感じながらも、何故か安らいだ気分に為っている俺がそこに居た。


「・・・夢か。」


そう呟いて、俺は右手を額に乗せた。


随分昔の夢を見たな・・・


そんな事を考えながら、俺は深いため息を一つ吐いた。


「・・・うん?」


次第に覚醒する意識の中、左腕に違和感を感じて、そちらに顔を向けた。


そこには聖が、俺の左腕にしがみ付いて眠っていた。


「ぅ・・・」


眉間に皺を寄せて、瞑られた瞳からは、うっすらと涙が湛えられている。


「・・・母上・・・」


寝言を呟いて、俺の腕にしがみ付く力に、更に力を込めてくる。


母親・・・か。こいつも夢を見ているのか・・・


今でこそ表には出さないが、出会った当初はふさぎ込む日々が多かった聖。


今までにもこういう事は何度か有った。


その度に、こいつもまだ子供なのだと思い知らされる。


そんな事を思いながら、俺は右手で掛け布団の中に聖を収めた。


いつもならば、気付かれない様にして腕を解くのだが、何故か今日は、そのままにしておこうと思った。


・・・これも夢の所為か・・・な。


そんな事を考えて、自嘲気味に苦笑する。


不意に視線を感じて、そちらを見ると、クロが俺達の事を見ていた。


「・・・羨ましいのか?」


自分でもおかしな事を言っていると思いながら、クロに向かってそう呟いた。


だがクロは、俺の問いには答えないで目を瞑った。


・・・俺ももう少し寝るか。


夜明けまでにはまだ時間がある。


それに、今日は山へ入る事になるだろう。


出来る事なら、夕方までには、海淵の墓の有る村に着きたい所だ。


「・・・雨・・・か。」


不意に、夢の中の事を思い出し、そう呟いた。


今でも俺は雨が嫌いだ。


その為、旅の途中で雨に見舞われた時は、必ずと言っていい程、雨がしのげる場所で、止むまで動こうとしない。


全くもって情けない話しだ。


それでもあの夢の出来事以来は、雨の所為で震える様な事はなくなったので、大分マシにはなっただろう。


「・・・うう~ん。」


そんな事を考えていたら、眠っている聖が、俺の腕に顔をすり寄せてきた。


そんな聖に、俺は思わず苦笑してしまう。


聖の目に掛かっていた前髪を、指でどかしながら、余計な事を考えるのを止めて目を瞑った。


朝方、沙希さんにお別れの挨拶をしてから、村を出て数刻経った。


「晴れて良かったですね~」


冬も終わりに近づき、春の暖かさを感じながら、良く晴れた快晴の天気に心が躍る。


「そうだな。山の天気は変わりやすいが・・・この分なら大丈夫だろう。」


師匠は良く晴れた快晴の空に、顔を向けて答えてくる。


その横顔を見上げながら、今朝の事を思い出し、少し顔が熱くなるのが解った。


「・・・うん?どうした。」


空に向けられていた顔を、急にこっちに向けて、不思議そうに師匠が聞いてくる。


「あ!い、いえ!何でもないです。アハハ・・・」


私は、しどろもどろになりながら、笑って誤魔化した。


うぅ~・・・どうしよう・・・まともに顔見られないよ。


今朝起きた時、私は自分の布団の中では無く、何故か師匠の布団の中で寝ていた。


しかもそれだけじゃなく、師匠の腕を抱きしめて眠っていた。


先に起きたのが私だった事が唯一の救いで、師匠が起きない様に布団から出抜け出した。


そのせいか、朝から妙に師匠の事を意識してしまっていた。


「・・・?変な奴だな。」


私の気も知らず、師匠はそう言って首を傾げてくる。


ここまで意識されないと、ちょっとだけムッと来る。


「・・・さっきから何なんだよ・・・」


師匠は不機嫌そうに、半眼になって言ってくる。


どうやら、考えていた事が顔に出ていたらしい。


「え?あ・・・アハハハハ・・・」


とりあえず今の私には、笑って誤魔化すしか手段が無かった。


そんな私を見て、師匠はため息を吐いてから、視線を前へと向けた。


私も、それにならって、視線を前へと向ける。


・・・これ以上見てたら、余計に意識しちゃうしね。


そう自分に言い聞かせて、師匠と並んで歩き、私の後ろにクロが着いてくる。


私たちの手にしたお揃いの錫杖から、歩くたびに鈴に似た音が奏でられる。


それに併せる様に、私の左耳に付けられた耳飾りが踊っていた。


暫く歩くと、山へと入る登山道が見えてくる。


そこから山へと入って、何度も訪れた事のある村へと向かう。


登山道へと近づくにつれて、入り口の所に誰かが居るのが解った。


「・・・クロ。」


それに気が付いた私は、後ろに居るクロに声を掛けようとした。


けどクロは、その人影にすでに気が付いていたのか、もう姿を隠していた。


それに安堵しながら、私たちはその人影へと近づいて行く。


近づいて行くにつれ、その人影はおじいさんである事が確認できた。


「・・・おぬし等・・・この山に入るつもりか?」


神妙な顔をして、おじいさんは私たちにそう尋ねてきた。


「そうだ。」


師匠がそう答えて、おじいさんの前で立ち止まった。


「・・・止めておきなされ・・・」


「・・・何故だ?」


師匠がおじいさんに理由を聞くと、おじいさんは後ろを振り返って、登山道に顔を向けた。


「・・・神隠し・・・」


「神隠し・・・ですか?」


私は確認する様に、おじいさんの呟きに答えた。


「・・・そうじゃ・・・昨年の秋頃から・・・この山に入った者が、相次いで行方を眩ませた・・・何故か・・・若い男や女を中心に・・・な。」


「・・・それは、妖怪の仕業なのか?」


師匠の問いに対して、おじいさんは首を横に振って否定した。


「解らぬよ・・・獣かも知れぬし・・・妖怪かも知れぬ・・・ただの事故かも知れぬし・・・な。」


そう言って、おじいさんは私たちに顔を戻した。


「・・・旅の途中の御坊様と見受けますが・・・止めておきなされ。」


その口振りから、私たち以外の御坊様が、山に入って帰ってこなかったのだと悟った。


「・・・忠告・・・感謝する。」


そう言って、師匠は登山道へと向かって歩き出した。


「あ、師匠!待ってください!」


それに続いて、私も師匠の後を追う。


「事故なら俺達の出る幕じゃねぇが・・・妖怪や獣が襲ってきたら・・・蹴散らすだけだ。」


「おぬし等・・・」


おじいさんの呟きに、師匠はその場で立ち止まって、振り返った。


「俺は・・・回り道するのが嫌いな性質でね・・・障害が在れば、蹴散らしたいのさ。」


そう言って、師匠は戯けた笑みを浮かべていた。


「・・・年寄りの言う事は、聞いておくものじゃぞ・・・」


「あぁ・・・感謝はしている・・・」


そう言って、師匠は顔を前に戻した。


「・・・感謝は・・・な。」


最後に師匠はそう言って、私たちはまた歩き出した。

登山道で出会った老人と別れて、すでに一刻程経っていた。


登山道と言う割には、獣道と言った方が良い様な狭い山道を登っていく。


道が狭い為、横に並んで歩く訳にも行かず、俺の後ろを聖、その後ろにはクロが着いてくる。


「さっきのおじいさん・・・」


不意に聖が、沈黙を破って話を切り出してくる。


「あぁ・・・大方獣だろう。この道・・・登山道としても使われているみたいだが、ほとんど獣道と変わらん。他の獣道とも交わっている様だしな・・・」


そう話しながら、鬱蒼と生い茂る森を見渡す。


特に妖気といったものは全く感じず、嫌な気配もこれといって感じなかった。


「後は事故か何かだろ。」


「う~ん・・・」


何故かうなり声を上げている聖に、俺は顔を後ろに振り向けた。


「どうかしたのか?」


「あのおじいさん・・・なんだか悲しそうな顔をしてたのが、ちょっと気になって・・・」


聖は、首を捻りながら、神妙な表情で言ってくる。


「悲しそう?」


「はい・・・」


聖の言葉を聞いて、俺は先程出会った老人の事を思い出す。


「・・・そういう風には、見えなかったがな。」


「そうですか?」


「まぁ何にしろ・・・うん?」


不意に、辺りに霧が立ち込めて来た事に訝しがり、辺りを見回す。


「あれ・・・?なんで霧が・・・」


聖も俺と同じように、辺りを見回していた。


おかしい・・・朝方ならともかく、もうすぐ昼だと言うのに・・・ッ!!


不意に感じた僅かな妖気に、俺は前方に顔を向けた。


「主!!」


クロもまた、この微かな妖気を感じ取ったのか、聖に声を掛ける。


「嫌な感じだな・・・聖・・・?」


俺もまた、聖に声を掛けて、後ろを振り返った。


だが其処には、聖の姿はおろか、クロの姿も無くなっていた。


「・・・どういう事だ?」


更に霧は、密度を増して立ち込めてくる。


視界が完全に白に覆われ、前後左右上下の感覚が薄れていく。


・・・これが神隠しの正体か。


努めて冷静に、現在自分が置かれている状況を、把握しようと試みる。


目を瞑り、意識を集中して、聖とクロの気配を探る。


だが、それでも二人の気配は全く感じなくなっていた。


感じるのは、ただ微量の妖気のみ。


試しに、目を瞑った状態で、先程まで聖が居た場所に、手を伸ばしてみる。


だが、その手に触れる者は無く、虚しく空振りするだけだった。


チッ!!俺が付いていながら、みすみすこれか・・・


自分に対して、心の中で苦々しく吐き捨てる。


・・・ッ!!


不意に現れた気配に、俺はそちらに顔を向けて、目を開いた。


「・・・なんだ・・・ここは・・・」


目を開いた俺が見た物は、先程まで居た筈の森の中では無く、花が咲き乱れる丘の上だった。


そして、俺の視線の先に居る僧服を纏った女の後ろ姿。


外に大きく跳ね上がった黒髪が印象的な少女。


「・・・静・・・菜。」


俺の記憶の中に確かに存在する、その女の名前を俺は呟いた。


「うん?どうしたの止水、驚いた様な顔して。」


俺の呟きに、振り返ったその少女は、不思議そうな顔をしながら、俺の方に近寄ってくる。


何故か頭の中が白くなり、思考が働かなくなっていくのが解る。


・・・これは・・・幻術か・・・


思考が働かなくなっていく頭を振って、必死に幻術の効力から逃れようとする。


「止水・・・大丈夫?顔色が優れないみたいだけど・・・」


そう言って、静菜は心配そうな顔をして、俺の顔に手を当ててくる。


俺の記憶の中にいる彼女と同じ顔、同じ声、同じ仕草。


違う・・・静菜じゃない・・・これは幻術だ・・・


そう必死に抗うも、俺の頭の中は白く塗り染められていく。


「止水?」


「あ?・・・あ、あぁ・・・」


俺は・・・何をしていた・・・?何か・・・大事な事が・・・


何か大事な事を忘れた様な喪失感を感じながらも、俺は俺の顔に添えられた静菜の手を掴んだ。、


「・・・どうしたんだ?静菜・・・海淵は?」


「何言ってるのよ止水・・・宝仙様なら、本山に用があるって言ってたじゃない。」


「え?・・・あ、あぁ・・・そう・・・だったな。」


「変な止水。」


そう言って、静菜は俺に対して笑顔を見せる。


半妖である静菜は、本山に入る事は許されない。


その為、本山の長老達も、静菜の事は知らない。


海淵の話しでは、信用のおける者にしか、静菜の事は話していないと言う事だった。


その為、俺がこいつ等に出会うまでは、海淵が本山に用がある時は、静菜はいつも一人だったらしい。


だが俺と出会ってからは、そう言う時は俺と一緒に海淵の帰りを待つ様になっていた。


最初の頃は、めんどくさいと思っていたが、今ではそう思う事も無かった。


「・・・何してたんだ?」


そう聞くと、静菜は後ろを振りかえった。


「お花積んでたんだ。ねぇ、綺麗でしょ?」


そう言って、手にしていた花の束を俺に見せてくる。


「あぁ・・・そうだな・・・」


それを見て、素直な感想を述べる。


昔の俺だったら、花が綺麗だ等とは思いもしなかっただろう。


それが今では・・・な。


そんな事を考えて、自嘲気味に苦笑する。


「でも・・・」


「うん?」


不意に、静菜の顔が愁いを帯びるのが解った。


「この光景が・・・永遠に消え失せ無ければ・・・どんなに素晴らしいだろう・・・」


静菜はそう言って、広がる花畑に顔を向けた。


・・・うん?


その瞬間、俺はこの景色に違和感を感じた。


そして滲む様に、静菜の姿が二つに分かれた。


「冬が訪れれば、この景色は消えてしまう・・・そんなのは・・・嫌・・・」


『季節が移り変われば、また咲き乱れるの・・・それだけじゃなくって、四季折々の花が見られる・・・それって、すごく素敵な事だと思わない?』


静菜が二人に見えたかと思った瞬間、それぞれの口から同時に、違う言葉が発せられる。


なんだ・・・これは・・・


それを見た俺の中で、一層違和感が膨れあがった。


「私は・・・こんな晴れた日が一番好き・・・止水が居て、宝仙様が居て、私が居る・・・そんな穏やかな日々が、永遠に続けばいいのに・・・」


『私は、青空が大好き!どこまでも続く・・・青い空・・・』


そう言って、滲んだ静菜が俺に振り返ってくる。


『止水が、どうして雨が嫌いなのか解らないけど・・・雨雲の向こうには、こんな青空が続いてるんだよ。』


「だから私は・・・」


そう言って、もう片方の静菜も振り返ってくる。


『どんなに長い雨でも、いつかは青空に変わる・・・移り変わる季節の様に・・・きっと人の心もそうだと思う・・・』


そう言って、滲んだ方の静菜は、ゆっくりと目を瞑り深呼吸をする。


そしてまたゆっくりと目を開いて、俺を真っ直ぐ見つめてくる。


いつしか俺は、滲んだ方の静菜に、目を奪われていた。


「永遠を望むの・・・」


そう言って、静菜は悲しげな表情で俺を見つめてくる。


『いつかきっと、止水の心の雨も止むと思うよ。』


かたや、滲んだ方の静菜は、優しい笑顔で微笑んでいた。


『この世に・・・永遠に続く事なんて無いもの。』


それを最後に、笑顔を向けていた方の静菜の姿が、霞の如く消えていった。


その光景を黙って見ていた俺は、悲しげな表情を浮かべている静菜に、近寄っていった。


「止水・・・私と行きましょう?」


「・・・行く?何処へだ。」


そう尋ねると、静菜は俺の顔に手を添えてくる。


「永遠に続く・・・楽園・・・」


そう呟いて静菜は、俺の顔に自分の顔を近づけてくる。


「行きましょう・・・止水・・・ッ!!」


俺の唇に、静菜の唇が重なる瞬間、俺は静菜の後頭部を、左手で無造作に掴んで引きはがした。


「離れろ・・・偽物。」


「ど、どうして・・・ッ!!」


ズブリ・・・


空いていた右手を、素早く懐に忍ばせ、収められた短刀を手に持ち、偽物の腹に深々と突き刺した。


「ば、馬鹿な・・・妾の幻術が破られるとは・・・」


「・・・月下美人の花言葉を知っているか・・・『儚い美』貴様が今化けている女の好きだった花だ。あいつは・・・俺なんかよりも、よく解ってたのさ・・・この世に、永遠なんて無いっていう事をな。」


「たったそれだけで・・・妾の幻術が・・・」


俺の言葉を聞いて、偽物の顔が歪み始める。


「・・・どうせその姿も、実体じゃ無ぇんだろ・・・次は・・・実体にこの妖刀を突き立ててやるぜ。」


「フ・・・フフフ・・・ホホホホホ・・・・面白い事を言う男じゃ・・・人間風情が、この妾に挑むと申すか・・・良かろう。」


妖しく笑い出した偽物は、そう言いながら徐々に姿が薄れていく。


「俺の記憶に入り込んだ罪・・・たっぷりと後悔させてやるぜ。」


「フフフ・・・待って居るぞ・・・」


そう言って、偽物の姿は完全に消え失せた。


・・・嘘・・・どうして・・・


「御母・・・様・・・?」


突然現れた御母様に驚きながら、呆然と呟いた。


「聖・・・」


優しく微笑みながら、私の名前を呼んでくる。


その姿は、私の知っている御母様そのものだった。


「御母様・・・」


私は、呟きながら一歩、また一歩と御母様に近づいて行く。


そこに居るのは、御母様じゃない。


そう思っても、私の足が止まる事は無かった。


近づくにつれて、御母様の輪郭がはっきりと見えてくる。


それに伴って、目頭が熱くなっていくのが、自分でも解った。


「御母様・・・御母様!」


遂に私は走り出して、御母様の胸の中へと飛び込んでいった。


「私・・・私・・・ずっと・・・ずっと御母様に謝りたかった・・・」


「あらあら・・・何を泣いているのですか?」


そう言って、御母様は私の頭を優しく撫でてくれる。


「あの時・・・私だけ逃げて・・・」


「・・・何を言っているの?」


「え・・・?」


予想外の反応に、私は顔を上げて御母様の顔を見上げる。


すると御母様は、不思議そうな顔をして、私の事を見つめていた。


・・・あれ?なんで私・・・謝りたかったんだろう・・・


何か大事な事を忘れてしまった様な、そんな喪失感を感じた。


けど、それが何なのか、一向に思い出せなかった。


「・・・どうしたの聖?」


私があれこれ考えていると、心配そうに御母様が尋ねてきた。


「え?!あ・・・アハハ・・・な、なんでもないです。」


そう言って私は、笑って誤魔化した。


そう言えば・・・こんなやり取りを誰かとした様な・・・


不意に、頭に浮かんだ人影。


その人影は、私にとって大事な人だった様な気がする。


誰・・・だっけ・・・


喉に出かかっていても、思い出せないもどかしさを感じながら、必死に思い出そうと試みる。


「・・・聖。」


「は、はい。」


私が考え込んでいたら、突然御母様が、私の事を呼んできた。


「・・・御爺様がお待ちよ。」


「御爺様が?・・・今日って、何かありましたか?」


そう聞くと、御母様は面白そうに笑っていた。


「フフ・・・もぉこの子ったら・・・自分の誕生日を忘れてしまったのですか?今日はあなたの、十二の誕生日じゃありませんか。」


「十二・・・の?」


何かがおかしい、そう思うけれども、それが何なのかが解らない。


『なん・・・眼を・・・せ・・・』


突然、頭の中に直接聞こえてくる声。


あれ・・・この声・・・確か・・・


確かに聞いた事のある声。


でも、それが何なのか、思い出せない。


「さぁ・・・聖・・・やり直しに行くわよ・・・」


そう言って、御母様が優しく微笑んでくる。


「やり・・・直し・・・?」


「そうよ・・・さぁ・・・」


優しい微笑みを讃えながら、手を差し伸べてくる母上。


その手と、御母様の目を交互に見る。


「・・・どうしたの?」


「ぁ・・・」


眼と眼があった瞬間、深く吸い込まれそうな御母様の瞳に魅入られる。


そう・・・だ・・・私が・・・御母様を・・・護るんだ・・・


そう思って、私は差し伸べられた手を掴んだ。


「・・・はい・・・御母様・・・」


『な・・じ・・・眼を・・・』


途切れ途切れに聞こえてくる幻聴。


それを無視して、私は御母様に連れられて歩き出した。


視界が晴れると其処は、元の森の中だった。


聖とクロは・・・?


辺りを見渡し、二人の姿を探す。


ここは・・・さっきまでの場所とは違うな。


自分が先程まで居た、獣道の様な山道では無い事は確認できたが、聖とクロの姿は確認出来なかった。


ザザッ・・・


ッ!!


草むらが蠢く音を聞き、何かがこちらに向かっている事を察した俺は、錫杖を構え何かが出てくるのを待った。


・・・気配は全く感じない・・・これは・・・


「・・・クロか?」


ガサガサ・・・


草むらを掻き分けて、姿を現したのは、聖に付き従う黒い狼だった。


クロの姿を確認した俺は、戦闘態勢を解いて、クロに近づいて行く。


「・・・貴様・・・今まで何処に居た?」


珍しく、クロの方から喋ってくるが、その随分な言い様に苦笑する。


「おまえは何ともなかったのか?」


「・・・霧が立ち込めて、晴れたかと思えば、おまえと主の姿は無くなっていた。」


成る程・・・どうやら俺と聖だけを狙ったと言う事か・・・


「主の姿を探しても、全く匂いが漂ってこなかった・・・途方に暮れていた所に、いきなりおまえの匂いが漂ってきたのだ。」


「成る程・・・な。つまり俺はついでか。」


「・・・当たり前だ。」


戯けながらに俺が言うと、キッパリと言い切られてしまった。


・・・冗談のつもりだったんだがな。


この馬鹿犬とは、一度本気で決着を着けた方が良い様な気がしてきた。


「それで・・・今まで何をしていた?」


聖が居なくなった為だろうが、今日のクロはいつになくおしゃべりだな。


そんな事を考えて、おもわず口に出そうになるのを堪える。


「幻を見せられていた。」


「幻・・・幻術か・・・」


「あぁ・・・あの霧を媒介に、幻術を見せられていたんだろう。しかもえげつない事に、そいつの記憶から、悩みや悔いなどを見せて、引きずり込もうとする・・・ま、これに関しちゃ俺の勘だがな。」


「つまり主は・・・」


「引きずり込まれた・・・可能性は高いな。」


俺が体験し、感じた事を手短に話す。


「・・・それでよく、おまえは戻って来られたな。」


「うん?・・・あぁ・・・危なかったさ。」


「?」


正直な所、俺もかなり危なかった。


あの幻術の光景は・・・今朝の夢の続きだったからな・・・


それが、俺が正気に戻れた理由だった。


「・・・まぁ、夢を見て損は無いって事さ。」


そう言って、クロに苦笑してみせる。


「・・・何が言いたいのか、よく解らんが・・・これからどうするのだ?」


「決まってんだろ?おまえはおまえのお姫様を助けに、俺は手間の掛かる馬鹿弟子に、一発喰らわせる為に・・・第二回奪還作戦と行こうや。」


そう言って、クロに笑いかける。


「我の鼻では、主の居場所は解らぬぞ?」


「フッ・・・その心配は要らねぇよ。」


そう言い終わると同時に、微量の妖気を感じて、顔をそちらに向けた。


「・・・やっこさんの方の準備が整った様だしな。」


「成る程・・・では、我が主に手を出した事・・・存分に後悔して貰わねば為らぬな。」


「フッ・・・おまえらしいよ。」


そう言って、どちらからともなく歩き出した。


水晶が光り輝き、漏れた淡い光が、暗い部屋を照らす。


その水晶には、森の中を歩く人間と獣の姿が、映し出されていた。


「フフフ・・・」


そして、その光景を覗き込む様に、一人の女が立っていた。


部屋は暗い為、水晶から漏れた光が、彼女の口元を妖しく照らしていた。


「いくら幻の中とは言え・・・この美しい妾に刃を向けた罪・・・存分に後悔して貰わねば為りませぬ・・・」


そう言って、彼女は冷笑を浮かべていた。


不意に彼女は、暗い部屋の中の一点に、顔を向けた。


「・・・あなたも、そう思うでしょう?」


顔を向けた方向に向かって、彼女は問い掛けた。


「・・・はい・・・」


暫くして、その問い掛けに答える女の声。


その声を聞いて、彼女は満足そうに笑う。


「フフフ・・・では行きましょうか。」


バタン!


彼女がそう言い終わると、戸がいきなり開いた。


そして、開かれた戸から差し込んだ光が、部屋の中を照らし出す。


「ねぇ?聖・・・」


「・・・はい・・・御母様・・・」


彼女の問い掛けに答えたのは、まだ幼さの残る少女だった。


妖気の発生源を辿り、鬱蒼と生い茂る草を掻き分けて進む。


「・・・ここか。」


目的の場所はすぐに見つかった。


傾斜のきつい山の中、その家は建っていた。


随分と豪華な作りの、西洋風の屋敷。


そして、その屋敷を囲む様にして、発生している霧。


森の中と言う事も在ってか、なんとも不釣り合いな光景が広がっていた。


俺は、身を隠せそうな木の陰に潜んで、クロから荷物を受け取った。


「・・・何をしている・・・行くぞ。」


「あぁ・・・ちょっと待て。」


受け取った荷物を開き、中を探っている俺を見て、クロが急かしてくるのをなだめる。


「・・・準備位させろ。」


言いながら、今着ている羽織を脱いで、荷物から違う羽織を取り出す。


裏に仏具を括り付けられる特製の羽織に、仏具を付けていく。


「・・・先に行くぞ。」


「あぁ・・・構わねぇよ。」


クロの呟きに、俺は顔を上げずに答えた。


聖が心配なのは解るが・・・そんなに急ぐと、足下掬われるぜ。


洋館へと向かって行くクロに、心の中でそう忠告した。


「・・・さて。」


仏具を括り付け終わった俺は、それを着込むと辺りを見回す。


クロには悪いが・・・囮になって貰うか。


・・・ガゴン!


黒炎が扉に近づくと、扉は左右に大きく開いた。


突然開いた扉に警戒しながらも、黒炎は慎重に中へと入っていった。


中へ入るとそこは、石造りの大広間になっていた。


『よく来ましたねぇ・・・』


不意に、辺りに女の声が響き渡る。


そして、何もない空間から、女が霞の如く現れた。


長い黒髪に、吊り上がり、人を見下したかの様な瞳。


紅を引いた口元が、妖艶な笑みを浮かべている。


その女は、見た事のない西洋風の服を着込み、羽衣を纏っていた。


風も無いというのに、その女の黒髪と羽衣が、ゆらゆらと揺らめいていた。


「・・・あの男は、まだ来られないようですわねぇ・・・」


「・・・貴様など、我一人で十分だ。」


そう言って黒炎は、身を屈めて戦闘態勢を取る。


「フフフ・・・果たして、そううまく行きますでしょうか・・・?」


黒炎を嘲る様に笑いながら、女がそう言った瞬間、辺りに霧が立ち込めてくる。


「妾は狭霧乃姫・・・妾の幻術・・・特とご堪能下さいませ・・・神獣様。」


「・・・下らぬ。」


黒炎が呟くと同時に、黒炎の炎を思わせる毛並みが、黒く燃えさかる焔へと変わる。


それに併せ、黒炎を中心に、辺りの温度が上がり始める。


「貴様の幻術の媒介が霧であるならば・・・我に幻術は効かぬ。」


「フフフ・・・成る程、炎の生み出す気流の流れによって、空気の層を作り出した・・・と言う訳ですね・・・では・・・」


そう言って、狭霧乃姫と名乗った女は、右手を優雅に動かす。


それと同時に、辺りに立ち込めていた霧が薄れ、狭霧の後方にあった扉が開いていく。


そして、そこから現れたのは、一人の少女だった。


「・・・主・・・」


黒炎が、現れた少女、聖に呼びかけるも、聖は全く反応を示さなかった。


「クス・・・こんな余興はどうでしょうか?」


黒炎の反応を見て、満足そうに笑いながら、狭霧が声を掛けてくる。


「・・・貴様・・・」


「フフフ・・・さぁ、聖・・・」


黒炎の殺気の籠もった睨みを、涼しい顔で受け流しながら、狭霧は聖に声を掛けた。


「・・・はい・・・御母様・・・」


狭霧の呼びかけに答えた聖は、一歩前へと踏み出した。


「・・・悪趣味な余興だな・・・」


突然発せられた声に、その場に居た一同の視線が、黒炎の入ってきた扉へと注がれる。


「・・・遅かったな。」


開かれた扉から入ってきた男、宝仙に向かって、黒炎が声を掛ける。


「フッ・・・準備に手間取ってな。」


肩をすくめながら、宝仙は苦笑して答えた。


「フフフ・・・ようやく御出下さいましたわね・・・」


狭霧もまた、宝仙に向かって、妖しく笑いながら声を掛ける。


それに対して宝仙は、真剣な表情で狭霧を見る。


「よぉ偽物・・・約束通り来てやったぜ・・・」


「フフフ・・・嬉しい事ですわね・・・」


「一つ・・・答えろ。神隠し・・・いや、行方不明になった人間は、もう死んでいるのか?」


真剣な表情のまま、宝仙は静かに、しかし響く声でそう問い掛けた。


「・・・いいえ・・・妾は、人間などを食す程、落ちぶれてはおりません。」


宝仙の問いに、そう答えた狭霧は、大仰に両手を広げた。


「今も尚、夢の中で生きておりますよ・・・飢えも苦しみも哀しみも無い・・・楽園の様な世界で・・・」


「・・・くだらんな。」


狭霧の答えを聞いて、宝仙は吐き捨てる様に、そう答えた。


「飢えも苦しみも哀しみもない楽園・・・か。単なる現実逃避の口説き文句としちゃ、三流以下だな。」


「・・・口を慎んだ方が、宜しいですよ。」


狭霧は静かにそう言うも、その表情からは怒気が感じられた。


「フン!いくら楽園の様な夢とはいえ、それが夢である事には変わりない。覚めればそこで終わりだ。逆に言えば、覚めない夢は、楽園なんかじゃ無い・・・単なる悪夢だ。」


怒気を発している狭霧に構わず、宝仙はそう言うと歩き出した。


「飢え・・・苦しみ・・・哀しみ・・・それを現実で乗り越えてこそ、人間は強くなる。逆に・・・それを消し去る事など出来ない。表裏一体の物を・・・どうやって消し去ると言うのか・・・俺が教えて欲しいくらいだ。」


そこまで言って、宝仙は狭霧に向かって、笑ってみせる。


「・・・現実主義者なんですね。」


「フッ・・・現実逃避を、したくないだけさ。」


そう答えて、宝仙は部屋の中央で立ち止まった。


黒炎もまた、宝仙の側まで近づいて行く。


「ですが・・・夢を観ている方々が・・・必ずしもあなたと同じ考え・・・と言う訳でもありません。現に、この館で眠っている方達の中には・・・夢から覚めた直後に、不幸が待っている方も居るのですよ?無理矢理起こして・・・あなたはどう責任を取るおつもりなのですか?」


「クッ・・・クックック・・・」


狭霧の言葉を聞いて、宝仙は突然笑い出した。


「・・・何が可笑しいのですか?」


突然笑い出した宝仙に、狭霧は不満げに睨んでいる。


「責任?笑わせるな。そんなもん、取れるはずもないし、取るつもりなど毛頭無い。現実から目を背けたいのなら、目を瞑り、耳を塞ぎ、口を噤んで生きれば良い。それが嫌なら、勝手に死ねば良いのさ。」


「・・・あなた・・・本当に御仏に仕えられる僧侶なのですか?」


宝仙の答えが、予想外のものだったのか、狭霧は驚いた様な表情で、呆然と呟いた。


「フン!その台詞は、耳にタコだな。俺は、好きで坊主なんてやってる訳じゃねぇんだ。だが・・・これだけは言える。」


そこまで言って宝仙は、視線を聖へと向けて、一拍置いた。


「夢を・・・ましてや、他人に見せられているだけの、かりそめの夢に、自分を投影し、魅入られて、飢えも苦しみも哀しみも無い場所で、延々と孤独に生きるのは、死んだも同じだ・・・ならせめて、現実の世界で死んだ方が、まだマシだ。そう思わないか?聖。」


そう言って、聖に問い掛けるも、全く反応は無かった。


「無駄ですよ・・・この子もまた、過去に大きな傷痕が在るのです・・・」


不意に、宝仙が呟いたかと思うと、狭霧の表情が強張った。


「確か・・・『夢魔』とか言ったか・・・人に甘美な夢を見せて、生気を吸う・・・西洋の妖怪らしいな。」


「どうして我が一族の事を・・・何故解ったのですか?」


「昔、長崎で牧師と知り合ってな・・・向こうの妖怪の事を少し教えて貰ったのさ。何故解ったか・・・か。それも簡単な事さ、この国の妖怪は、自然と共に生き、自然と共に死ぬ・・・つまり、居を構えないのさ。最初は、どこぞの西洋かぶれの馬鹿かとも思ったが、どうも違う雰囲気だしな。」


そう言うと宝仙は、天井を見上げ、石作りの大広間を見渡している。


「成る程・・・いかにも妾は、美しく気高き魔物・・・夢魔が一族の末裔・・・」


宝仙の言葉に納得した狭霧は、自分の言った言葉に酔いしれる様に、胸に手を当てて、目を瞑った。


「フッ・・・美しい・・・か。確かに、あんたは美しいと言えるな・・・だが、それはあくまでも、外見だけだ・・・」


「・・・何が言いたいのですか?」


「・・・人の心の傷に触れて、偽りの夢を見せておいて、楽園だの、何だのと言う・・・そんなおまえを、俺は美しいなどとは思わないぜ。」


「・・・今、なんと仰ったのですか?」


「耳が遠いのか?おまえの心は、醜いと言ったんだよ。」


宝仙の言葉を聞いて、狭霧は体を戦慄かせる。


「この・・・美しい妾が・・・醜いだと・・・?」


「フッ・・・今度は聞こえたかな?」


そう言って、耳を指で叩きながら、宝仙は鼻で笑った。


「人間・・・後悔する事になりますよ・・・?」


「やれるもんなら・・・」


そこまで言って宝仙は、自分の着ていた羽織を脱いで、右手で襟を掴んで持つ。


「やってみろやっ!!」


そう叫んで、右手に持った羽織を、狭霧に向かって投げつける様に振る。


そして、一気に引く事によって、羽織に括り付けられていた仏具が、反動によって狭霧に向かって飛んでいく。


「ヴァジュラヤクシャッ!!」


宝仙は間髪入れずに、空いていた左手で、金剛夜叉明王の凡字を描き、梵名を叫んだ。


その瞬間、数十本もの仏具が、一斉に淡い光を放ちながら、狭霧へと迫っていく。


「・・・こんなもの。」


そう呟いて、狭霧が踊ったかと思うと、身につけていた羽衣で、全ての仏具をたたき落とした。


たたき落とされた仏具は、床に突き刺さると、覆っていた光が消えた。


「後悔なさい・・・聖。」


「はい・・・御母様。」


狭霧の呼びかけに答えた聖は、宝仙達に向かって走り出した。


「御母様は・・・私が護る・・・今度こそ・・・護る・・・」


ベキベキッ・・・ビリリリリ・・・


突然、走り出した聖に変化が起こる。


聖の華奢な体が、突如として、異形の姿へと変わり始める。


その体が、異様に膨れあがり、着ていた着物がただの布きれと変わる。


「ワァァァ・・・」


聖の体が、倍近くまで膨れあがったかと思えば、黒い髪が金色へと変化する。


細く華奢な体が、岩を連想させる筋肉の鎧と化す。


体の至る所には、石のような物で出来た鎧のような物が、急所を守るかのように生えてくる。


手と足には、鋭く長い爪。


紅くぎらぎらと血走った瞳、口には、不揃いながらも、研ぎ澄まされた牙。


その額には、人間では決して存在する筈のない、長く鋭い角。


「グオオオォォォーッ!!」


人々はソレを、畏怖と暴力の化身『鬼』と呼んだ。


「チッ・・・操られた状態で、鬼神を呼ぶか。」


苦々しく吐き捨てた宝仙は、一直線に向かってくる鬼と化した聖の攻撃を、避けようと重心をずらす。


だがその瞬間、聖を中心に霧が発生し、一瞬にして聖の姿を隠してしまい、見誤った宝仙は動きを止めた。


そしてその霧は、一瞬にして部屋全体を覆い隠し、全てを白へと染め上げた。


「霧に乗じて・・・か。」


そう呟いて宝仙は、意識を集中し感覚を尖らせ、攻撃の瞬間を見極めようとする。


錫杖は置いてきてしまったのか、宝仙は懐に手を忍ばせて、短刀を逆手で構える。


炎を纏った黒炎が側にいる事で、宝仙の周りには霧は無かったが、辺り一面を覆い尽くした霧の強力な妖気で、聖の鬼気が掴めずにいた。


先程までとは比べ物になら程の妖気。


おそらくこれが、狭霧の実力なのだろうと、宝仙と黒炎は理解していた。


辺りを警戒し、いつ鬼と化した聖が襲ってきてもいい様に集中する。


「・・・何?!」


不意に、頭上に気配が現れ、宝仙と黒炎は天を仰いだ。


ズン!!


自由落下してきた聖が、轟音と共に宝仙の目の前に現れた。


そして、振りかぶられる太い鬼の腕。


「クッ!!」


全く意識していなかった頭上から現れられ、虚をつかれた宝仙だったが、手にした短刀で応戦しようと振りかぶった。


ズブリ・・・ポヤ・・・ポタポタ・・・


宝仙の短刀と、鬼の太い腕が交錯した瞬間、勝負は着いた。


カキーン・・・


易々と砕け散った短刀の破片が、乾いた音と共に石作りの床に落ちる。


「・・・ゴプ・・・」


そして、宝仙の腹部を貫いた鬼の腕は、背中を貫通した所でようやく止まった。


苦痛に顔を歪めた宝仙の口からは、胃から逆流した血が勢いよく吹き出て、鬼と化した聖の体を染め上げる。


「宝仙!」


全く反応出来なかった黒炎の叫びと同時に、辺りを包んでいた霧が薄れ始め、次第に狭霧の姿も確認できるようになってくる。


「ホホホホホ・・・たわいないですわねぇ。」


「クッ・・・グゥ・・・」


苦しそうに呻きながらも、宝仙は聖の腕をしっかりと掴んだ。


「クロ・・・叫べ!!いつかの咆吼を・・・聖に向けて放て!!」


「?!」


「早くしろッ!!」


「ッ!!」


『ワオオォォォーン!!』


宝仙のただならぬ雰囲気に、黒炎は言われた通り、耳をつんざく咆吼を、鬼と化した聖にぶつけた。


「・・・いい加減・・・眼を・・・覚ませ・・・クッ!!!」


息も絶え絶えながらも、宝仙は最期の力を振り絞って、掴んだ腕に更に力を込める。


「聖ーっ!!」


「聖!ここから早く逃げなさい!」


そう言って、御母様は裏口を指差して、私に促す。


「御母様は・・・?」


不安と恐怖を感じながら、私は御母様の顔を見上げた。


「母は、ここであなたを守りましょう・・・」


「そんな!嫌です、御祖父様もお残りになって、戦っていらっしゃるのに・・・私だけ逃げ出すなんて。」


私が幼い頃に、御父様は亡くなられたと聞いていた。


だから私にとっては、私を可愛がってくれた御祖父様と、優しくしてくれたお手伝いさん達を残して、私だけ逃げ出すなんて我慢出来なかった。


「聖・・・あなたの優しさを母は誇りに思います。その優しさを、母は失いさせたくありません・・・」


御母様は、私の肩に優しく両手をかけて、諭す様に、優しい口調で語りかけてくる。


「キャ?!」


御母様はいきなり、私を裏口の門の外へと突き飛ばした。


ガコン・・・


立て続けに、音を立てて締まる門と、閂を指して門を固定する音が聞こえた。


「御母様?!開けて・・・開けてください!」


閉ざされた門を力一杯叩き、中に居る御母様に向かって叫ぶ。


「お行きなさい!早く遠くへ!そして・・・必ず、必ず生き延びてください・・・」


「御母様・・・」


私は・・・どうしたら良いの?


あの時私は、逃げたくなかった・・・御母様を・・・みんなと離れたくなかったのに・・・


『・・・さぁ・・・やり直しなさい・・・』


不意に聞こえてくる御母様の声。


『あなたには・・・やり直すだけの力が有るでしょう・・・?』


ちから・・・?


そうだ・・・私には力がある・・・みんなを護るだけの力が・・・あの人に貰った力が・・・


・・・あの人って・・・誰だっけ?


「・・・そこを通して貰おうか。」


突然聞こえてきた、男の人の声で我に返った。


知ってる・・・この声・・・


「・・・ここは通しません。」


そして、静かに響く御母様の声。


『さぁ・・・使いなさい・・・眠っている力を・・・』


護らなきゃ・・・私が御母様を護らなきゃ・・・ッ!!


「・・・舞い降りよ・・・金色なりし煌めく龍・・・」


何かに導かれる様に、頭に浮かぶ言葉を口に出す。


「金剛鬼神・・・金華龍!!」


そう叫んで、私は大地を蹴った。


変化は一瞬で終わり、高くそびえる裏口の門を、軽々と飛び越えた。


「なっ!!ば、化け物!!」


変化した私の姿を見て、口を布で覆い隠した男の人が叫んだ。


ハアアアァァァー!!


「グオオオォォォー!!」


着地すると同時に、私は腕を後ろに引き絞って、一気に男の人の腹を狙って放つ。


ズグリ・・・ポタッ・・・ポタポタ・・・


「・・・ゴプッ!・・・グッ・・・」


「フフフ・・・それで良いのですよ・・・聖。」


次の瞬間男の人は、腹部を貫いた私の腕を掴んだ。


『ワオオォォォーンッ!!』


そして、頭を揺さぶる様な獣の咆吼。


あれ・・・?この声・・・知ってる・・・


突然頭に過ぎった大きな狼の姿。


「・・・いい加減・・・眼を・・・覚ませ・・・クッ!!!」


いきなり、男の人が私に語りかけてくる。


その声は、さっきまでの男の人の声とは別人だった。


知ってる・・・この声も・・・


どこか耳に馴染んだ声で・・・とても低く、それでいて響く声で・・・私のよく知った人の声・・・


「聖ーっ!!」


師匠!!


「師匠・・・私・・・私!」


倒れ込んでくる師匠の体を抱き留めて、私は嗚咽混じりに呟いた。


「・・・馬鹿弟子が・・・ようやく・・・起きたか・・・」


息も絶え絶えの師匠は、そう言って笑ってくる。


「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」


師匠の血で赤く染まった右腕、そして、その右腕で貫いた師匠の腹部。


そこから止めどなく流れ出してくる鮮血。


「ったく・・・世話・・・焼かせるなよ・・・な・・・」


次第に小さくなっていく師匠の声。


そして、師匠は眠る様に目を瞑った。


「師匠・・・ッ!!」


眠った様に動かなくなった師匠の体を、私は強く抱きしめた。


「・・・よもや・・・一日で、二度も妾の幻術が破られるとは・・・」


そう言って女の人が、何の感情も籠もらない声音で言ってくる。


その言葉を聞いて、クロが一歩踏み出す。


「・・・主。」


それを手で制して、私は立ち上がった。


「・・・許さない・・・」


そう呟いて、怒りで震える体を、女の人へと向ける。


「あなた・・・絶対に・・・許さないんだからっ!!」


「ほぉ・・・許さない・・・ホホホ・・・その方は、あなたが殺したのですよ?」


私の言葉を聞いて、女の人は、可笑しそうに笑っている。


「・・・あなたを・・・殺す!!」


そう叫んで、もう服としての機能を果たしていない僧服の切れ端を、破り捨てた。


「舞い降りよ!!金色なりし、煌めく龍!!」


『随分物騒な事を、言う様になったな・・・おまえは俺とは違うだろ?』


「ッ?!」


「師匠?!」


突然辺りに響き渡る師匠の声。


その声に、その場に居た一同の視線が、眠っている師匠へと注がれる。


『ったく・・・おまえは俺とは違って、闇に生きるべき人間じゃない・・・俺はそう言ったはずだ。』


「ッ?!ギャアアアァァァーッ!!」


突然女の人が、悲鳴の叫びを上げた。


それに驚き、女の人へと視線を向けると、苦悶の表情を浮かべている女の人。


そして、その背中に居るのは・・・


「師匠!!」


「よぉ。」


そこには、不敵に笑う師匠の姿があった。


「師匠!!」


「よぉ。」


右腕を朱に染め上げて、裸のまま呆然と俺の事を呼んでくる聖に、俺は軽く声を掛けた。


「ば、馬鹿な・・・」


そう言って、狭霧は振り返ってくる。


俺が背中に、妖刀を突き刺しているので、狭霧は苦悶の表情を浮かべていた。


「案外・・・自分の十八番を使われたら、気付かないもんだろ?」


そう言って、俺は苦笑してみせる。


「五大明王陣・・・幻影投射陣。さすがに・・・この屋敷全体を包み込む結界を張るのは骨だったぜ。」


「ど、どこから・・・幻だったのですか・・・?」


「フッ・・・鈷杵を投げた時さ・・・」


そう告白して、俺は結界を解く。


すると同時に、聖の右腕を朱に染め上げていた血と、横たわって動かない俺の幻影が、霞の如く消えていった。


「あ・・・」


声を漏らした聖は、消えた俺の幻影の場所を凝視する。


そこには、五鈷杵が突き立てられていた。


その五鈷杵を中心に、屋敷の外に四本予め仕掛けて置いた。


「目には目を・・・歯には歯を・・・幻影には幻影を・・・どうだ、楽しかったろう?」


「フ・・・フフフ・・・嫌味な殿方ですね・・・全て、解った上で・・・それを逆に利用して・・・」


「フッ・・・そう言う事さ。」


苦笑気味にそう答えて、俺は突き立てた妖刀を引き抜いた。


「・・・何のつもりですか?」


「あんたの言う通り・・・望んで夢の世界に居るのなら、俺の知ったこっちゃ無ぇさ・・・、」


そう言って、俺は聖達の元へと向かって歩き出した。


「し、師匠?」


聖は、驚いた声を上げているが、それは敢えて無視した。


「それに、女を殺すのは、性に合わないんでな・・・もう俺達に手出しをしないと言うのなら、見逃してやるさ。」


「・・・見逃してくださるのですか?」


「あぁ・・・その程度の傷なら、死ぬ事もないだろう。」


片手を上げて手を振りながら、俺は妖刀を懐へと仕舞った。


「・・・そうですか・・・ありがとうございます・・・では・・・」


不意に膨れあがる殺気。


「妾を醜いと言った罪を償いなさい!!」


そう叫んで、狭霧が躍りかかってくるのが、気配で解った。


「師匠!!」


その光景を見てか、聖が血相を変えて駆け寄ってくる。


「・・・愚かだな・・・」


振り向くことなくそう呟く。


カッ!!ジャラジャラジャラ・・・


「な、何?!」


狭霧の驚愕の声を聞いた所で、俺は振り返った。


狭霧と俺の周りの床には、先程俺が投げた鈷杵が、数十本床に刺さっている。


その中の一つが淡く光り輝き、そこから光の鎖が飛び出して、狭霧の首に巻き付いていた。


「こ、これは・・・」


「明王呪、戒めの鎖・・・一式『捕獲』」


「お、おのれ・・・妾を謀りおって・・・」


「フン・・・敵の裏の裏のそのまた更に裏をかく・・・俺は今までそうやって生き延びてきたのさ・・・二式『拘束』」


カッ!!ジャラジャラジャラ・・・


そう呟くと同時に、更に数個の鈷杵が光り輝き、そこからまた光の鎖が飛び出てくる。


そしてそれらは、狭霧の両手両足、胴体に至までを拘束していく。


「お・・・おのれ・・・」


「だから言ったろう、見逃してやると・・・おまえはもう、俺の張った罠の中にずっと居たのさ・・・三式『連牙』」


そう告げると、残りの鈷杵全てが光り輝き、幾重にも狭霧の体に巻き付いていく。


「俺は・・・俺の前に立ち塞がる者には・・・容赦しない・・・自分の愚かさを呪え・・・四式『光繭』」


「おのれ!おの・・・ッ!!」


光り輝く鎖によって、狭霧の口は塞がれ、次第に狭霧の体も見えなくなっていく。


「夢から醒めたら、不幸が待っている・・・か。確かに、それなら夢を観ていたいのも解るさ・・・その不幸に耐えられず、本当に死んでしまう者すら居るかもしれん・・・だが。」


そう言い終わる頃には、狭霧を覆う鎖は、光り輝く繭へと変貌していた。


「それほど、人間は弱くは無い・・・俺はそう思っている・・・この眼で、観てきたからな・・・」


そう言って、光の繭へと変わった狭霧に背を向け、聖に向き直る。


「だから俺は、こんな姿をしているのかもな・・・五式『終焉』」


言いながら、俺は聖に向かって歩いていく。


狭霧を覆った光の繭が、目映い光を放ちながら、次第に消えていくのが気配だけで解った。


狭霧は、悲鳴すら上げる事も出来ないまま、無へと還っていった。


「・・・あばよ。」


目を瞑り片手を振って、そう呟いた。


「師匠!!」


聖に呼ばれて、目を開くと、聖が俺に飛び掛かってきていた。


「おわっ?!」


聖の体を受け止めようとしたが、体に力が入らず、そのまま後ろに倒れ込んでしまった。


立て続けに、霊力を消費しすぎた為、虚脱感が俺の体を支配していた。


「私・・・私!!」


「・・・泣くなよ馬鹿が。」


涙を流しながら、裸のまま俺の胸で泣いている聖の頭を撫でる。


「ごめんなさ・・・ごめんなさい!!」


「ったく・・・いつまでもそんな恰好してたら、また風邪引くぞ。」


そう言って、着直していた羽織を、聖の体に掛けてやる。


「こうなる事は、予測していた事だ。おまえの眼を覚ますには、奴を油断させなければ成らなかったしな。」


狭霧を油断させ、聖の動きを止めさせる為の俺の死の映像と、操られていた聖の眼を覚まさせる為のクロの咆吼。


「でも・・・でも私・・・」


聖がそう呟くと同時に、屋敷が消えて、周りが森になる。


どうやらこの洋館も、奴が作り出した幻影だった様だ。


そして、俺達から少し離れた場所に、十数人程倒れているのを発見した。


狭霧が消えた事により、彼等もまた眼を覚ます事だろう。


「さっさと服を着ろ・・・その恰好で人前に出るつもりか?」


「あ・・・はい・・・」


俺の言葉に聖は、項垂れる様に答えて立ち上がった。


「主・・・」


いつのまにかクロは、茂みに置いてきた俺達の荷物を持って、聖の側に立っていた。


そして俺も立ち上がり、倒れている集団の方へと足を向ける。


「師匠・・・」


「うん?」


不意に呼び止められた俺は、肩越しに聖へと顔を向けた。


「お願いが・・・あります。」


いつになく真剣な聖の表情に、俺もまた顔を引き締めた。


その老人は、日長一日を山道の入り口で過ごしていた。


何かをする訳でもなく、ただジッと岩に腰掛けているだけだった。


いつからそうしているのか、気の遠くなる様な時間を、彼はそこで過ごしていた。


近くの村に住むこの老人には、息子が一人居た。


その息子も嫁を貰い、娘が一人生まれて幸せに暮らしていたのが十年も前の話しだった。


もう十年も前に、幼い娘を残し、息子夫婦は病で帰らぬ人となってしまった。


それからは、この老人には孫娘だけが家族となってしまった。


老人にとっては、孫娘が生きる希望と言っても過言ではなかった。


「今日も・・・帰っては来ぬのか・・・」


辺りが夕陽に染まる頃、老人は眼を細めてそう呟いた。


老人が待ちこがれている者、それは他でもない孫娘だった。


去年の秋頃、老人と孫娘は、この山へと入り、山菜取りをしていた。


持っていった籠一杯に山菜が集まった頃、孫娘の姿が見えなくなっている事に気が付いた。


先に家へと帰ったのか、そう思った老人は、あまり気にせず帰路へと着いた。


だが家に帰っても、孫娘の姿は無かった。


心配になった老人は、消えた孫娘の姿を探し、村の者の手を借りて、一晩中探し回った。


だがそれでも見つからなかった。


それだけに留まらず、探していた者達の中にも、行方不明者が出てしまった事に、朝方気が付いた。


老人は、自分の浅はかさを呪うと同時に、深い絶望へと堕ちていった。


以来老人は、山道の入り口の横で、孫娘の帰りを待つと同時に、山へ入ろうとする者へ注意を促していたのだった。


初めの頃は、何人もの村人が、同じように待ち人を待っていたが、一人また一人と減っていき、今では老人のみとなってしまった。


「・・・あの娘は、無事じゃろうか・・・」


夕陽に向かいそう呟いて、昼頃山道に入っていった二人の僧を思い返す。


目つきが鋭く、お世辞にも坊主とは言えない風体の男と、まだあどけなさが残る、可愛らしい尼の二人組。


名前も知らない二人だったが、尼の方は、年格好が孫娘によく似ていた。


「やはり・・・無理にでも止めるべきじゃったかな・・・」


今更そんな事を言っても仕方のない事だったが、今になって後悔の念が押し寄せていた。


そんな事を思っていると、辺りはすっかり夜の蚊帳に包み込まれていた。


「・・・帰るか・・・」


そう呟いて、老人は腰掛けていた岩から立ち上がった。


今日はもう無理だとしても、また明日待てばいい。


ここ数ヶ月間そうやって過ごしてきた。


いつか必ず、孫娘は帰ってくる・・・そう信じて過ごしてきた。


明日は必ず帰ってくる、そう思いこんで老人は帰路へと着こうとしていた。


「・・・おじいちゃん?」


帰路へと着こうとした老人の耳に、か細い女の声が聞こえてきた。


その声を聞いた老人は、足を止めてため息を吐いた。


ついに孫娘の幻聴まで聞こえてきたか、そう思いながらも、ゆっくりと後ろを振り返った。


「・・・おぉ・・・」


そこには、昼間通った尼と同い年くらいの少女が立っていた。


夢にまで現れ、老人が待ちわびた孫娘本人だった。


「ごめんね・・・心配かけちゃったね・・・」


孫娘の声を聞いて、老人の瞳からは、止めどなく涙が溢れ出す。


「よい・・・よい・・・お主が戻ってきてくれただけで・・・儂は満足じゃて・・・」


涙声になりながらも、老人はゆっくりと孫娘へと近づいて行く。


そして、その存在を確かめる様に、強くしっかりと抱きしめた。


「よくぞ・・・よくぞ戻ってきた・・・」


「うん・・・長い夢を観てたの・・・お父さんと、お母さんと・・・おじいちゃんの夢・・・」


「そうか・・・そうか・・・」


久しぶりに再会した二人を余所に、山道からは、今まで行方が解らなかった者が、次々現れてくる。


そんな事お構いなしに、老人は更に強く、孫娘を抱きしめた。


今日この日、老人は、孤独と戒めより、解放されたのだった。


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