第9話 弟の時間
「弟さんのことを、聞かせてくれませんか」
ミレイアはしばらく黙っていた。
「弟は、疫病にかかったんです。それまでは、普通に暮らしていました。村の人たちとも、特に問題はなかった」
疫病が村に広がり始めた頃、弟も熱を出した。
最初は誰もが心配してくれた。近所の者が食料を届け、医者も様子を見に来た。
だが、弟の病状が悪化すると、少しずつ人が離れていった。
家の前に食料を置いていく者も、いつしかいなくなった。
道で会えば、露骨に避けられるようになった。
「近づくな。病気がうつる」
そんな言葉を投げつけられることもあった。
やがて、家の壁に石が投げつけられ、窓が割られた。戸口には汚物を撒かれた。弟の病気が治らないのは、家に置いているからだと責められた。
「私たちは、ただ家にいただけなのに」
ミレイアは淡々と話した。
「弟の看病は私一人でした。薬を探して、食事を作って、夜も眠らずに看病して……いつまで続くのか分からなかった」
彼女は一度、目を伏せた。
「ある日、弟と喧嘩をしました。弟は私に、もう放っておいてくれと言ったんです。私も疲れていました。つい、言い返してしまいました」
もう知らない。
勝手にして。
そう言い残して、ミレイアは家を出た。
「少しだけ、一人になりたかったんです。頭を冷やして、帰るつもりでした」
その日、村人たちは家に火をつけた。
ミレイアが戻ってきたとき、家の屋根から炎が上がっていた。
「ノア!」
彼女は叫んだ。
村人たちは家の周囲にいた。火を見つめる者、遠巻きに立つ者。誰も助けようとはしなかった。
「疫病を広げる前に焼いてしまえ」
そんな声が聞こえたという。
ミレイアは家に駆け寄った。だが、炎と煙が入口を塞いでいた。熱風に顔を焼かれ、息を吸うことさえできない。
「ノア! 返事をして!」
そのとき、二階の窓から音がした。
弟が窓枠にしがみついていた。
煙にむせながら、何度も外へ出ようとしている。炎が服に燃え移り、身体を包んでいた。弟は窓枠を越えようと、必死に腕を伸ばした。
「だめ! そこから飛び降りて!」
ミレイアが叫ぶ。
弟の身体が窓の外へ傾いた。
次の瞬間、地面に落ちた。
弟はまだ生きていた。
焼けた身体を地面に横たえ、苦しそうに身をよじっている。皮膚は赤黒くただれ、服は焼け落ちていた。
それでも弟は、ミレイアの方へ手を伸ばした。
指が震えていた。
何かを言おうとしていたのか、口が動いていた。
ミレイアは駆け寄ろうとした。
けれど、弟の手が届く前に、その動きは止まった。
「……私、あの子と喧嘩したままだったんです」
ミレイアの声がかすれた。
「ノアが最後に聞いた言葉は、私の冷たい言葉だった。あの子が最後に見たのは、私だったのかもしれない。助けを求めていたのかもしれない」
彼女は両手を強く握った。
「私が家を出なければ。あのとき、あんなことを言わなければ。何度も考えました」
「村人たちは、罰を受けたんですか」
「いいえ。疫病を恐れて家を焼いた。それだけです。誰も責任を取りませんでした」
しばらく沈黙が続いた。
「私は薬草師になりました。薬の知識があれば、弟を救えたかもしれない。そう思っていました」
彼女は小さく首を振った。
「でも……本当は、弟の気持ちを知りたいんです。あのとき、何を思っていたのか。私のことを、どう思っていたのか……」
彼女は顔を伏せた。
「弟さんを、救いたいんですか」
「一度だけでいいんです。あの子と話がしたい」
ミレイアは言葉を切った。
「私が、少しでも楽になりたいだけなのかもしれません。でも……あのときの弟の姿が、いつまでも忘れられないんです。あの子が私に手を伸ばしていたことも。何を伝えようとしていたのかも、分からないままで……」
「お墓はどこにありますか」
「村の外れの丘です」
「案内してください」
僕は机からノートを取った。
死者の時間を戻す。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
けれど、確かめなければならなかった。




