↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/13

第8話 村人ですが、それでも時間について考え続けました


あの日から、僕は何もできなくなった。


朝起きて、食事をして、寝る。


それだけのことを繰り返していた。


机の上には、これまでの実験で使った道具が残っている。


砂時計。木片。割れた陶器。


以前なら、それらを見るだけで次に試したいことが思い浮かんだ。


今は違う。


目に入るだけで、あの病室を思い出す。


リーナの泣き顔。

汚れたシーツ。

僕を拒絶した声。


何度も手を洗った。


もう汚れていないと分かっている。

それでも、あのときの感触が手に残っている気がした。


食事も喉を通らない。


家族に話しかけられても、まともに返事ができなかった。


何かを考えようとすると、最後にはリーナの顔が浮かんでくる。


僕は、彼女を治すつもりだった。


それなのに、もっとひどい状態にしてしまった。


*


数日後、ミレイアが訪ねてきた。


「こんにちは。少し、お話しできますか?」


僕は扉の前に立ったまま、彼女を見た。


「……何ですか」


「リーナさんのことを聞きました。あなたのことも心配で、様子を見に来たんです」


「そうですか」


それだけ答えて、扉を閉めようとした。


「待ってください。少しだけでも――」


「帰ってください」


ミレイアが言葉を止めた。


「今は誰とも話したくないんです」


「でも、あなたが心配で……」


「ほっといてくれ!」


思ったより大きな声が出た。


ミレイアは黙った。


「……すみません」


そう言ったものの、謝る気力すら残っていなかった。


「分かりました。今日は帰ります」


彼女はそれ以上何も言わず、立ち去った。


僕は扉を閉めた。


誰にも会いたくなかった。


何も聞きたくなかった。


何も考えたくなかった。


それなのに、あの病室のことだけは、何度も頭の中で繰り返された。


*


二か月以上が過ぎた。


最初のころに比べれば、食事も取れるようになった。

家の外にも出るようになった。


けれど、以前のようには戻れなかった。


リーナのもとへは行っていない。


治す方法を探すことも、やめた。


彼女に会いたいと思うことはあった。

今どうしているのか、気になることもあった。


それでも、会いに行くことはできなかった。


僕が顔を見せれば、彼女はまたあのときのことを思い出すかもしれない。


僕には、彼女に何かをしてあげる資格なんてない。


もう、何もしないほうがいい。


そう思うことにした。


*


机の上には、砂時計が置かれていた。


いつからそこに置いてあったのか、覚えていない。


僕はぼんやりと、落ちていく砂を眺めていた。


時間を止める。

時間を遅くする。

時間を逆行させる。


僕は、それらを別々の能力だと考えていた。


けれど、本当にそうなのだろうか。


時間を止めるというのは、対象に起きる変化を止めること。


遅くするというのは、変化の進み方を遅くすること。


逆行させるというのは、変化を過去の状態へ向かわせること。


ならば、変化の進み方を速くすることもできるのではないか。


自分自身の時間だけを速めたら、どうなるだろう。


周囲より早く年を取るのか。

それとも、身体の動きや考える速度まで速くなるのか。


そもそも、時間はすべてのものに同じように流れているのだろうか。


一つの物体の時間を変えたとき、その物体と接しているものには何が起きるのか。


物体と物体の間に起きた変化は、どちらの時間に属するのか。


考えていると、次々に疑問が浮かんできた。


実験をする気にはなれなかった。


けれど、考えることはできた。


頭の中で仮説を立て、可能性を比べ、矛盾がないかを確かめる。


ノートに書き残すこともあった。


以前のように、思いついたことをすぐに試すことはなくなった。


何を変えるのか。

何が変わるのか。

変えた結果、何が起こるのか。


考えなければならないことは、いくらでもあった。


リーナのことを考えない日はなかった。


それでも、時間について考えることはやめられなかった。


*


ある日、ミレイアが再び訪ねてきた。


「こんにちは」


「……久しぶりですね」


「ええ。あれから、ずっと気になっていました」


「もう大丈夫です」


そう答えたが、ミレイアは僕の顔をじっと見ていた。


「本当に?」


「前よりは」


それ以上、僕は何も言わなかった。


ミレイアは少し迷ったあと、口を開いた。


「実は、今日はお願いがあって来ました」


「お願い?」


「はい。あなたに、弟の時間を戻してほしいんです」


僕は彼女を見た。


「……弟?」


「私の弟です」


「弟がいたんですか」


「ええ」


ミレイアは小さくうなずいた。


「弟さんは、今どこに?」


その問いに、彼女はすぐには答えなかった。


少し間を置いてから、静かに言った。


「もう、いません」


「いない?」


「亡くなりました。ずいぶん前に」


僕は言葉を失った。


「病気だったんです。幼いころから身体が弱くて、何度も寝込んでいました。私は薬草を集めて、できる限りのことをしました。でも、助けられなかった」


ミレイアは自分の手を見つめた。


「薬草師になったのも、弟を助けたかったからです。あのとき、もっと知識があれば。もっと良い薬を作れていれば。そう思って、ずっと勉強してきました」


「……それで、僕に?」


「あなたなら、可能性があると思ったんです」


「僕は、人間の時間を戻そうとして失敗しました」


「聞いています」


「リーナを、もっとひどい状態にしました」


「はい」


「何が起こるか分からないんです。生きている人間でさえ、あんなことになった。死んだ人間なら、どうなるか……」


そこで言葉が途切れた。


死者の時間を戻す。


そんなことが可能なのだろうか。


そもそも、死とは何なのか。


身体の時間が止まった状態なのか。

生命活動が失われた状態なのか。

それとも、時間を逆行させるという考え方そのものが、通用しない領域なのか。


「それでも、お願いしたいんです」


ミレイアは僕を見ていた。


「弟に、どうしても聞きたいことがあるんです」


僕はすぐには答えなかった。


リーナのことが頭をよぎる。


あのとき、僕は何も分かっていなかった。


分かっていないまま、人間の身体に手を出した。


今度は、同じことを繰り返してはいけない。


何が起こるのか。

何を戻すのか。

そもそも、死者に時間は流れているのか。


調べるべきことは山ほどある。


「……分かりました」


僕は答えた。


「引き受けます。ただ、すぐには何もできません。まずは、死者の時間を戻すということがどういう意味なのか、考えさせてください」


「ありがとうございます」


ミレイアは深く頭を下げた。


僕は机の上の砂時計を見た。


砂は、いつもと同じように落ち続けていた。


生きている者にも、死んでいる者にも。

同じように時間は流れているのだろうか。


その答えを、僕はまだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。