第8話 村人ですが、それでも時間について考え続けました
あの日から、僕は何もできなくなった。
朝起きて、食事をして、寝る。
それだけのことを繰り返していた。
机の上には、これまでの実験で使った道具が残っている。
砂時計。木片。割れた陶器。
以前なら、それらを見るだけで次に試したいことが思い浮かんだ。
今は違う。
目に入るだけで、あの病室を思い出す。
リーナの泣き顔。
汚れたシーツ。
僕を拒絶した声。
何度も手を洗った。
もう汚れていないと分かっている。
それでも、あのときの感触が手に残っている気がした。
食事も喉を通らない。
家族に話しかけられても、まともに返事ができなかった。
何かを考えようとすると、最後にはリーナの顔が浮かんでくる。
僕は、彼女を治すつもりだった。
それなのに、もっとひどい状態にしてしまった。
*
数日後、ミレイアが訪ねてきた。
「こんにちは。少し、お話しできますか?」
僕は扉の前に立ったまま、彼女を見た。
「……何ですか」
「リーナさんのことを聞きました。あなたのことも心配で、様子を見に来たんです」
「そうですか」
それだけ答えて、扉を閉めようとした。
「待ってください。少しだけでも――」
「帰ってください」
ミレイアが言葉を止めた。
「今は誰とも話したくないんです」
「でも、あなたが心配で……」
「ほっといてくれ!」
思ったより大きな声が出た。
ミレイアは黙った。
「……すみません」
そう言ったものの、謝る気力すら残っていなかった。
「分かりました。今日は帰ります」
彼女はそれ以上何も言わず、立ち去った。
僕は扉を閉めた。
誰にも会いたくなかった。
何も聞きたくなかった。
何も考えたくなかった。
それなのに、あの病室のことだけは、何度も頭の中で繰り返された。
*
二か月以上が過ぎた。
最初のころに比べれば、食事も取れるようになった。
家の外にも出るようになった。
けれど、以前のようには戻れなかった。
リーナのもとへは行っていない。
治す方法を探すことも、やめた。
彼女に会いたいと思うことはあった。
今どうしているのか、気になることもあった。
それでも、会いに行くことはできなかった。
僕が顔を見せれば、彼女はまたあのときのことを思い出すかもしれない。
僕には、彼女に何かをしてあげる資格なんてない。
もう、何もしないほうがいい。
そう思うことにした。
*
机の上には、砂時計が置かれていた。
いつからそこに置いてあったのか、覚えていない。
僕はぼんやりと、落ちていく砂を眺めていた。
時間を止める。
時間を遅くする。
時間を逆行させる。
僕は、それらを別々の能力だと考えていた。
けれど、本当にそうなのだろうか。
時間を止めるというのは、対象に起きる変化を止めること。
遅くするというのは、変化の進み方を遅くすること。
逆行させるというのは、変化を過去の状態へ向かわせること。
ならば、変化の進み方を速くすることもできるのではないか。
自分自身の時間だけを速めたら、どうなるだろう。
周囲より早く年を取るのか。
それとも、身体の動きや考える速度まで速くなるのか。
そもそも、時間はすべてのものに同じように流れているのだろうか。
一つの物体の時間を変えたとき、その物体と接しているものには何が起きるのか。
物体と物体の間に起きた変化は、どちらの時間に属するのか。
考えていると、次々に疑問が浮かんできた。
実験をする気にはなれなかった。
けれど、考えることはできた。
頭の中で仮説を立て、可能性を比べ、矛盾がないかを確かめる。
ノートに書き残すこともあった。
以前のように、思いついたことをすぐに試すことはなくなった。
何を変えるのか。
何が変わるのか。
変えた結果、何が起こるのか。
考えなければならないことは、いくらでもあった。
リーナのことを考えない日はなかった。
それでも、時間について考えることはやめられなかった。
*
ある日、ミレイアが再び訪ねてきた。
「こんにちは」
「……久しぶりですね」
「ええ。あれから、ずっと気になっていました」
「もう大丈夫です」
そう答えたが、ミレイアは僕の顔をじっと見ていた。
「本当に?」
「前よりは」
それ以上、僕は何も言わなかった。
ミレイアは少し迷ったあと、口を開いた。
「実は、今日はお願いがあって来ました」
「お願い?」
「はい。あなたに、弟の時間を戻してほしいんです」
僕は彼女を見た。
「……弟?」
「私の弟です」
「弟がいたんですか」
「ええ」
ミレイアは小さくうなずいた。
「弟さんは、今どこに?」
その問いに、彼女はすぐには答えなかった。
少し間を置いてから、静かに言った。
「もう、いません」
「いない?」
「亡くなりました。ずいぶん前に」
僕は言葉を失った。
「病気だったんです。幼いころから身体が弱くて、何度も寝込んでいました。私は薬草を集めて、できる限りのことをしました。でも、助けられなかった」
ミレイアは自分の手を見つめた。
「薬草師になったのも、弟を助けたかったからです。あのとき、もっと知識があれば。もっと良い薬を作れていれば。そう思って、ずっと勉強してきました」
「……それで、僕に?」
「あなたなら、可能性があると思ったんです」
「僕は、人間の時間を戻そうとして失敗しました」
「聞いています」
「リーナを、もっとひどい状態にしました」
「はい」
「何が起こるか分からないんです。生きている人間でさえ、あんなことになった。死んだ人間なら、どうなるか……」
そこで言葉が途切れた。
死者の時間を戻す。
そんなことが可能なのだろうか。
そもそも、死とは何なのか。
身体の時間が止まった状態なのか。
生命活動が失われた状態なのか。
それとも、時間を逆行させるという考え方そのものが、通用しない領域なのか。
「それでも、お願いしたいんです」
ミレイアは僕を見ていた。
「弟に、どうしても聞きたいことがあるんです」
僕はすぐには答えなかった。
リーナのことが頭をよぎる。
あのとき、僕は何も分かっていなかった。
分かっていないまま、人間の身体に手を出した。
今度は、同じことを繰り返してはいけない。
何が起こるのか。
何を戻すのか。
そもそも、死者に時間は流れているのか。
調べるべきことは山ほどある。
「……分かりました」
僕は答えた。
「引き受けます。ただ、すぐには何もできません。まずは、死者の時間を戻すということがどういう意味なのか、考えさせてください」
「ありがとうございます」
ミレイアは深く頭を下げた。
僕は机の上の砂時計を見た。
砂は、いつもと同じように落ち続けていた。
生きている者にも、死んでいる者にも。
同じように時間は流れているのだろうか。
その答えを、僕はまだ知らなかった。




