第7話 村人ですが、大切な人をさらに傷つけてしまいました
木片と陶器。
二つの実験に成功してから、主人公はほとんど眠らなくなった。
時間を逆行させる。
その原理は分かり始めている。
対象に起きた変化を、過去に向かって進める。そうすれば、傷も、破損も、失われたものも、元に戻せるかもしれない。
だが、一つだけ確かめなければならないことがあった。
生き物にも、それができるのか。
*
主人公は庭先で、小さな植物を使って実験をした。
葉の一部を傷つける。
その傷に意識を集中し、時間を逆行させる。
傷口がわずかに縮んだ。
もう一度試す。
今度は、傷ついた部分が元の状態に戻った。
主人公は息を呑んだ。
「できた……」
木や陶器だけではない。
生き物にも時間の逆行は作用する。
彼は何度も同じ実験を繰り返した。
植物の葉を傷つけ、戻す。
茎を切り、戻す。
結果は同じだった。
生き物も、過去の状態へ戻せる。
ならば、人間も。
主人公の頭に、リーナの姿が浮かんだ。
*
その日の午後、主人公は診療所を訪れた。
リーナはベッドの上で、窓の外を眺めていた。
「こんにちは」
「また来たの?」
「うん。今日は話があるんだ」
リーナは主人公の顔を見た。
「研究のこと?」
「ああ。生き物にも時間を戻せることが分かった」
「本当?」
「植物で成功した。傷ついた部分を、傷つく前の状態に戻せたんだ」
リーナは自分の脚があった場所に目を落とした。
「じゃあ……」
「君の脚も、戻せるかもしれない」
しばらく沈黙が続いた。
「まだ、できるって決まったわけじゃないんでしょ?」
「そうだ。人間で試したことはない」
「危ないの?」
主人公は答えに詰まった。
「分からない。何が起きるか、正確には予測できない」
「失敗したら?」
「すぐに止める」
リーナは主人公を見つめた。
彼女は、もう何度も期待を裏切られてきた。
それでも、脚を失う前の生活を忘れたわけではない。
自分で歩きたい。
走りたい。
村の広場まで、一人で出かけたい。
そんな当たり前のことを、もう一度できるなら。
「……やってみたい」
主人公はうなずいた。
「ただし、少しでも危険を感じたらすぐに止める。絶対に無理はしない」
「分かった」
リーナは小さく笑った。
「今度こそ、うまくいくといいね」
その言葉に、主人公は強くうなずいた。
*
実験は翌日の午前に行われた。
診療所の一室。
医師も立ち会っている。
リーナはベッドに横たわり、主人公は彼女の失われた脚の付け根に近い部分へ手をかざした。
切断された傷は、すでに塞がっている。
主人公はそこを見つめた。
彼が戻したいのは、傷口だけではない。
脚を失う前の状態。
そのときのリーナの身体。
彼女の脚が存在していた時間。
「始めるよ」
「うん」
主人公は目を閉じた。
時間を逆行させる。
対象の状態を、過去へ向けて進める。
木片と陶器で成功したときと同じように。
最初は何も起きなかった。
やがて、リーナの傷跡がわずかに変化した。
「……動いてる?」
リーナが尋ねた。
「ああ。反応がある」
傷口の表面が変わっていく。
主人公はさらに意識を集中した。
もっと過去へ。
脚を失う前へ。
戻れ。
戻れ。
戻れ。
そのときだった。
「痛っ……!」
リーナが顔をしかめた。
「どうした?」
「足の……ないところが、痛い」
主人公は一瞬、手を止めかけた。
だが、変化は続いていた。
「もう少しだ。たぶん、時間が戻っているんだ」
「でも、痛い……!」
医師が近づいた。
「いったん中止してください」
「待ってください。もう少しで――」
「中止です!」
主人公は慌てて意識を緩めた。
時間逆行が止まる。
リーナは荒い息を吐いていた。
主人公は彼女の身体を確認した。
脚は戻っていない。
傷口も、元に戻ったわけではなかった。
「……どうして」
彼はもう一度、弱く干渉を試みた。
すると、リーナの身体が大きく震えた。
「いやっ!」
彼女が叫んだ。
主人公はすぐに能力を解除した。
医師がリーナの身体を確認する。
「どうしたんだ……?」
その声には、明らかな動揺があった。
リーナは何かを言おうとしたが、うまく言葉にならない。
そして、主人公は気づいた。
リーナの残された脚が、動いていない。
「リーナ?」
彼女は自分の脚を見た。
動かそうとしている。
けれど、動かない。
「……動かない」
もう一度、力を込める。
それでも、脚は動かなかった。
「先生、どうして……?」
医師は返事をしなかった。
彼女の脚に触れ、反応を確かめている。
やがて、医師の表情が険しくなった。
「君は何をしたんだ」
主人公は答えられなかった。
「何をしたんだ!」
「時間を……戻そうと」
「もうやめろ!」
医師の声が部屋に響いた。
リーナは何も言わず、自分の脚を見つめていた。
*
その後、リーナは高熱を出した。
意識が混濁し、何度も苦しそうにうめいた。
医師は付きっきりで看病した。
主人公は診療所の外に立ち尽くしていた。
中に入ることは許されなかった。
数日が過ぎた。
リーナの命は助かった。
しかし、身体には深刻な異常が残った。
残された脚は、動かなくなっていた。
触れられている感覚も、ほとんどない。
医師は神経に異常が起きているのではないかと考えたが、原因を特定することはできなかった。
さらに、別の問題も明らかになった。
リーナは尿意や便意を感じられなくなっていた。
自分で排泄のタイミングを判断できない。
気づいたときには、すでに衣服や寝具を汚してしまっていることもあった。
医師は、定期的に身体の状態を確認し、必要な処置を行わなければならないと説明した。
それは、彼女が一人で生活することをさらに難しくするものだった。
*
数日後。
主人公は、医師から呼ばれた。
「命に別状はない。ただし、元の状態に戻る見込みは分からない」
「治せないんですか」
「私にできることは限られている。少なくとも、今までのように歩けるようになるとは考えない方がいい」
「……そんな」
「君のしたことが原因だ」
主人公はうつむいた。
「彼女は、最初から片脚を失っていた。それでも、少しずつ生活を取り戻そうとしていたんだ」
医師の声は静かだった。
「それを、君はさらに壊した」
返す言葉はなかった。
*
主人公は、リーナの部屋に入った。
彼女はベッドに横たわっていた。
以前よりも痩せている。
顔色も悪い。
主人公が近づくと、リーナは壁の方を向いた。
「リーナ……」
「帰って」
「話をさせてほしい」
「帰ってよ」
主人公は立ち止まった。
「ごめん」
返事はなかった。
「治せると思ったんだ。時間を戻せば、脚も元に戻ると思って……」
「分かってる」
リーナの声は小さかった。
「分かってるよ。私のためにやってくれたんでしょ」
「うん」
「でも、もういい」
「リーナ、俺は――」
「お願い。帰って」
彼女は主人公を見なかった。
主人公は何も言えず、部屋を出た。
*
その日の夕方、僕はもう一度リーナの病室を訪れた。
医師から、彼女の容態について詳しく聞きたかった。
何かできることがあるなら、知りたかった。
扉を開けた瞬間、異臭が鼻を突いた。
思わず足が止まる。
部屋の中には、排泄物の臭いが充満していた。
ベッドの上で、リーナが泣いていた。
「……リーナ?」
彼女は僕の声を聞くと、慌てて顔を背けた。
「来ないで」
「どうしたんだ?」
「来ないでって言ってるでしょ!」
声が震えていた。
ベッドの上の様子を見て、僕はようやく状況を理解した。
彼女は、自分が排泄したことに気づけなかったのだろう。
そして、その後始末もできずにいた。
「……医師を呼んでくる」
「いい。呼ばないで」
「でも、このままじゃ」
「見ないでよ!」
リーナが叫んだ。
その目から涙がこぼれていた。
「お願いだから……見ないで」
僕は何も言えなかった。
彼女がどれほど恥ずかしい思いをしているのか、想像することしかできない。
いや、想像したつもりになることさえ、間違っているのかもしれない。
「僕が片付けるよ」
「いや……」
「大丈夫だから」
「大丈夫じゃない!」
リーナはシーツを握りしめた。
「どうして、こんなことになっちゃったの……」
返す言葉がなかった。
僕は医師に必要なものを頼み、できる範囲で後始末を始めた。
汚れたシーツを取り替え、身体を清潔にするための水や布を用意する。
リーナはずっと泣いていた。
僕が手を動かすたびに、彼女の身体が小さく震える。
「ごめん……」
そう言うことしかできなかった。
「謝らないで」
リーナが言った。
「謝らないでよ……」
声がかすれていた。
「謝ったって、元に戻らないじゃない」
僕の手が止まった。
「私、自分の身体のことも分からなくなっちゃった。いつ出るのかも、出たことにも気づけない。誰かに見てもらわないと、何もできない」
彼女は顔を覆った。
「こんなの、私じゃない……」
「リーナ……」
「あなたがやったんだよ」
その言葉は、静かだった。
怒鳴られるよりも、ずっと重かった。
「あなたが、私に時間を戻したんでしょ」
「……そうだ」
「治してくれるって言ったよね」
「……うん」
「元に戻すって言ったよね」
僕は答えられなかった。
「どうして、こんなことになったの?」
涙で濡れた顔が、僕を見た。
「どうして私に触ったの?」
「ごめん」
「もう嫌だよ……。あなたに会いたくない」
僕は最後まで後始末をした。
それが自分にできることだと思ったからだ。
けれど、それは償いではなかった。
彼女が望んでいたわけでもない。
僕が片付けたところで、彼女の身体は元に戻らない。
彼女の恥ずかしさも、悔しさも、消えない。
「もう、私の身体に触らないで」
リーナはそう言って、顔を背けた。
僕は返事をすることもできず、病室を出た。
*
廊下に出ても、臭いが鼻から離れなかった。
手を洗った。
何度も洗った。
それでも、手に何かが残っているような気がした。
水を流し続けても、あの光景が頭から消えない。
泣いていたリーナ。
シーツを握りしめていた手。
僕を見つめた目。
そして、最後の言葉。
「もう、私の身体に触らないで」
僕は自分の手を見た。
この手で、彼女を元に戻そうとした。
この手で、彼女をさらに壊した。
僕は時間を戻すことに成功したと思っていた。
木片も、陶器も、植物も。
過去の状態へ戻すことができた。
だから、人間にもできると思った。
けれど、人間の身体は、ただの物体ではなかった。
何を戻し、何を戻してはいけないのか。
何が一つの変化で、何が別の変化なのか。
僕には何も分かっていなかった。
分かっていないのに、彼女に触れた。
その事実だけは、どんな理屈を並べても変わらない。
*
家に戻ると、机の上には実験記録が残っていた。
僕は新しい紙を取り出した。
人間への時間逆行。
結果:失敗。
そう書いたあと、ペンが止まった。
失敗。
その二文字では、あまりにも軽すぎる。
僕は紙を握りつぶした。
彼女の人生を壊した。
僕がしたことは、それだけだった。
それでも、考えることをやめることはできなかった。
もう二度と、同じことを繰り返してはいけない。
何を逆行させるべきだったのか。
何を逆行させてはいけなかったのか。
僕は初めて、自分の研究が恐ろしくなった。
それでも机に向かい、もう一枚の紙に書いた。
「人間の時間逆行には、対象となる変化の選別が必要」
今度は、決して間違えないために。
そう書いた文字が、ひどく頼りなく見えた。




