第3話 村人ですが、大切な人を救えませんでした
村の鐘が鳴った。
一度。二度。三度。
昼食の時間を知らせる鐘ではない。
「魔物だ! ゴブリンが来たぞ!」
村の入口から男の叫び声が響いた。
主人公は家を飛び出した。
広場には、すでに村人たちが集まっていた。子供を抱えて走る母親。家の扉を閉める老人。手に農具を持ち、村の入口を見つめる男たち。
「どこから来たんだ?」
「森の方だ! 数は分からん!」
主人公は周囲を見回した。
リーナがいない。
「リーナは?」
そのとき、村の外れから悲鳴が聞こえた。
「いやあああっ!」
聞き覚えのある声だった。
主人公は走った。
村の外れ、物置小屋の近くに三匹のゴブリンがいた。
一匹がリーナの腕をつかみ、地面に押さえつけている。もう一匹は彼女の服を乱暴に引っ張っていた。
「やめて! 離して!」
リーナは必死に抵抗していた。
腕を振り回し、足で蹴り、相手の顔に爪を立てようとしている。上着はすでに裂けていた。
ゴブリンたちは彼女の抵抗を面白がるように笑っていた。
「リーナ!」
主人公が叫ぶ。
ゴブリンたちがこちらを向いた。
その一瞬、リーナの目と主人公の目が合った。
「来ないで!」
彼女は叫んだ。
「逃げて!」
主人公は足を止めなかった。
頭の中で、昨日までの実験がよみがえる。
小石の時間を遅くした。
薬草の時間を止めた。
世界全体を止めたこともある。
できるはずだ。
やれるはずだ。
「止まれ!」
何も起きなかった。
ゴブリンは動いている。
リーナも動いている。
世界は何ひとつ変わらない。
「止まれ!」
もう一度。
今度はゴブリンの腕に意識を集中させた。
ほんのわずかに、動きが鈍った。
しかし、それだけだった。
ゴブリンはすぐに動き出す。
「くそっ!」
主人公はさらに走った。
一匹が立ち上がり、こちらに向かってきた。
手には錆びた刃物が握られている。
主人公は時間を遅くしようとした。
今度は自分の周囲。
いや、刃物だけだ。
いや、ゴブリンの腕だけ。
何を対象にすればいい?
どうすればいい?
考えろ。
考えろ。
考えろ。
刃物が振り下ろされた。
主人公は横に転がった。
刃先が地面をえぐる。
間に合わない。
何も間に合わない。
その間にも、リーナの悲鳴が聞こえていた。
「いや! 触らないで!」
ゴブリンの手が彼女の服に伸びる。
リーナは相手の腕に噛みついた。
ゴブリンが怒り、彼女の頬を殴りつける。
鈍い音がした。
リーナの身体が地面に倒れる。
「リーナ!」
主人公は叫んだ。
もう一度、時間に干渉する。
今度こそ。
ほんの一瞬でいい。
一瞬だけでいいから。
止まれ。
止まれ。
止まれ!
ゴブリンの動きが、ほんのわずかに遅くなった。
だが、完全には止まらない。
そのわずかな変化に、主人公は気づいた。
遅くなっている。
確かに遅くなっている。
けれど、足りない。
まったく足りない。
ゴブリンの一匹が、近くに転がっていた大きな刃物を拾い上げた。
リーナは地面を這って逃げようとした。
「いや……やめて……!」
主人公は走った。
走りながら、時間を遅くしようとした。
今度は対象を絞る。
刃物。
ゴブリンの腕。
リーナの身体。
何でもいい。
何か一つでもいい。
「止まれえええ!」
一瞬、刃物の動きが鈍った。
しかし、止まらなかった。
ゴブリンは刃物を振り下ろした。
主人公の視界に、リーナの姿が映った。
そして、悲鳴。
次の瞬間、リーナの身体が大きく跳ねた。
主人公はようやく彼女のもとにたどり着いた。
地面には血が広がっていた。
リーナは声も出せず、ただ自分の脚のあった場所を見つめていた。
「……え?」
彼女の声はかすれていた。
「なに……これ……?」
主人公は言葉を失った。
ゴブリンが再び刃物を振り上げる。
そのとき、遠くから男たちの怒声が聞こえた。
「そっちだ!」
「囲め! 逃がすな!」
村人たちが駆けつけてきた。
ゴブリンたちは一瞬だけ迷った。
その隙に、主人公はリーナのそばに膝をついた。
「リーナ! リーナ!」
返事はない。
彼女の目は開いている。
けれど、主人公を見ていなかった。
「大丈夫だ。大丈夫だから!」
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。
彼は自分の上着を脱ぎ、傷口を押さえた。
手が震えていた。
止血しなければ。
誰かを呼ばなければ。
何かしなければ。
しかし、頭の中では別のことが繰り返されていた。
止められたはずだ。
いや、止められなかった。
もっと早く走れていれば。
もっと強く時間に干渉できていれば。
あと一秒。
たった一秒でよかった。
どうして。
どうして止まらなかった。
やがて村人たちがゴブリンを追い払い、村の外れに静けさが戻った。
リーナは担架に乗せられ、村の診療所へ運ばれていった。
主人公はその後ろを歩いた。
誰も何も言わなかった。
診療所の扉が閉まった。
主人公は外に立ち尽くした。
どれくらい時間が経っただろう。
やがて医師が出てきた。
「命は助かるでしょう」
その言葉に、主人公はわずかに息をついた。
しかし、医師は続けた。
「だが、脚は……戻せません」
主人公は医師の顔を見た。
何か言わなければならない。
何か聞かなければならない。
けれど、何も出てこなかった。
その夜、主人公は家に戻らなかった。
診療所の外に座り、朝まで動かなかった。
昨日まで、自分は世界の時間を止められると思っていた。
砂時計を止めた。
小石の落下を遅くした。
薬草の時間にも干渉した。
それが何だ。
目の前の一人さえ救えなかった。
時間を操れる。
それなのに、間に合わなかった。
主人公は自分の手を見つめた。
この手で何ができる?
何もできなかった。
ならば、できるようになるしかない。
時間とは何か。
なぜ流れるのか。
何をすれば止まり、何をすれば遅くなり、どうすれば戻るのか。
今までのように、面白半分に試している場合ではない。
もう二度と、こんなことを起こさせない。
そして、いつか。
失われたものを取り戻す。
主人公は夜明けの空を見上げた。
眠る気はなかった。
考えなければならない。
調べなければならない。
試さなければならない。
時間について、すべてを知るまで。




