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交差する視線

屋上へ続く扉の前で,花穏は一度だけ足を止めた。小さく息を吐き,気配を限界まで薄くする。姿は既に消えている。


「……見てくるだけ,だから」


自分に言い聞かせるように呟き,ゆっくりと扉を押し開けた。


―――――――――――――


夜風が流れ込み,ひんやりとした空気が肌を撫でる。花穏は物陰へと移動し,音を殺しながらカメラを構えた。


「……いる」


視線の先,月明かりの中に浅葱が立っている。「……誰?」という小さな声だけが,静かな屋上に落ちた。


「……まだ来てないのか」


花穏は息を潜めたまま,レンズ越しに様子を追う。ただ記録するだけ。それで終わるはずだった。


――そのはずだった。


―――――――――――――


「――こんばんは」


不意に声が落ち,花穏は反射的に視線を動かす。そこに,さっきまで何もなかったはずの場所に,少年が立っていた。


「今宵は,月が綺麗ですね」


穏やかな声音でそう告げるその姿は,まるで最初からそこにいたかのように自然だった。


「……誰?」


浅葱が振り向き,少年はわずかに目を細める。「自己紹介が遅れたね」と一歩踏み出し,月明かりの中で名を告げた。


「俺の名前は――浅緋。同級生だよ」


―――――――――――――


「……こくはく?」


浅葱が首を傾げる。「友達が,そう言っていた」という言葉に,浅緋は小さく笑った。


「それは違う。これは,もっと――大事な話だ」


距離がわずかに縮まり,空気が揺れる。「君にしか関係のない話」と続ける声音は,静かで優しかった。


「……分からない」


浅葱はそう答えるが,浅緋は頷くだけだった。「だろうね」と穏やかに受け止め,少しだけ顔を近づける。


「でも,思い出すよ。きっと,全部」


―――――――――――――


「……なにあれ」


花穏は思わず息を呑み,カメラを構え直す。レンズ越しに浅緋を捉えた瞬間,違和感が走った。


「――っ」


ほんの一瞬,少年の体の内側で何かが蠢いた。形の定まらない歪な何かが,肉の奥で生きているように動いている。


「……は?」


理解が追いつかないまま,視線が離せない。そして――その“何か”が,こちらを見た。


「……え」


ありえない。花穏は透明化している。見えるはずがない,見つかるはずがない。


それなのに,浅緋の視線がゆっくりと動き,レンズへ――その奥へと向けられる。


「――っ」


目が合った。


カメラ越しに,そのさらに奥。確かに,自分と。


―――――――――――――


「……なんで」


息が震える。逃げなければならないのに,身体が動かない。


「……ああ」


浅緋が,小さく呟く。「いるんだ」と,確信するように。


その一言で,全身が凍りついた。


「見えてる……」


否定できない。隠れているはずなのに,完全に認識されている。


次の瞬間,バキンッ!!と音を立ててカメラが砕けた。手の中で機械が崩れ,現実が追いつかない。


「……無理」


足が勝手に動いた。振り返らずに,ただ逃げる。


―――――――――――――


背後で,小さな笑い声が落ちる。


「面白いね」


楽しむような声音が続き,「また今度にしようか」と軽く告げられた。


その声を最後に,花穏は屋上から逃げ出した。


―――――――――――――


屋上には,再び静けさが戻る。浅葱はわずかに首を傾げ,何かを感じたように周囲を見渡した。


「……気のせいか」


浅緋が先に言い,静かに笑う。「今は,いい。また話そう」と一歩下がる。


「時間は,まだあるから」


その言葉と共に,少年の姿は夜の中へと溶けるように消えた。


―――――――――――――


「……」


浅葱はしばらくその場に立ち尽くし,月を見上げる。


「……思い出す」


ぽつりと呟き,「……なにを?」と自分に問いかける。


答えは,まだ無い。

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