第9話 楽しさも束の間
遠くに見える森の上でカラスが三羽飛び立つ頃、西には大きな夕日が輝き始めていた。赤い三角屋根の下にある窓から外を眺めていたのは、唇から血を流すエリーサベト・モルベリの姿があった。地下室から繋がる螺旋階段の頂上は緊急脱出通路用のはしごに続いていた。ここから降りていけば、誰にも気づかれることなく、逃げ出すことができる。今は、午後4時に差し掛かる頃。お城の侍女たちはあちらこちらでディナーとバスルームの準備に忙しくしている頃だ。
冷たい風が吹きすさぶと、足元から声がした。
「エリーサ! 早く進んでくれないか。俺には見てはいけないものが見えてしまいそうだ!」
フェリシア・リドマン侯爵の弟のダリウス・リドマンが、パトリックに姿を見られないようにベッドの下に隠れて、エリーサベトの後ろをついてきた。追いかけていると、地下室にいたはずが、いつの間にか、屋上のはしごが見えてくる。高所恐怖症のダリウスにとって、進みたくない場所だった。螺旋階段の先には、エリーサベトのスカートが風で揺れている。手のひらで顔を隠して、隙間から覗いた。エリーサベトを見ないようにするが、足元がガタガタする。はしごは使いたくないと体が拒否反応を示す。
「スカートの中を覗くって? 大丈夫よ。これは、見えてもいいもの履いてるから。今更ね。全く、ダリウスったら。気にしすぎよ」
ダリウスの心臓の高鳴りは止められない。さっきの地下の倉庫の部屋で事故ではあるが、触れてはならない唇同士が触れ合った。恋人じゃない。幼馴染で仲は良かったが、唇が触れる遊びなどしたことはない。ましてや、今ここでスカートの中を故意ではないが、強い風が吹くたびに見せられている。そして、高所恐怖症の高いところに長時間の滞在。いくつ心臓があれば、持つんだと顔が青白くなってくる。
「あー、さーて。これからどうしようかしら。私は早くパトリックのところに行きたいところだけど、ダリウスがねぇ……」
「え、ええ?! 俺がまるで邪魔扱いじゃないか?! おいおいおい。おーい。ちょっと待ってくれよぉ……高所恐怖症があるが故のその扱い。まるでここから飛び降りてみろよって言わんばかりじゃないか」
「え? ……バンジージャンプする?」
「??? 《《ばんじー》》? なんだ、それは!」
エリーサベトは思わず、口をおさえる。バンジージャンプという言葉はこの世界では通じない。なぜ出てきたのか自分でも理解できていなかった。悪役気質がここで出るとは思いもしない。
「あ、いや、ううん。なんでもないわ。そんなことするわけないでしょう。ほら、ゆっくりでいいから、降りていきましょう。ここなら、誰にも見つからないから。裏口に通じているし、お城のみんなは忙しい時間だから」
「エリーサベト様!」
はしごの真下で叫んでいる人がいた。それはエリーサベトの専属警備のキュリアクスだ。手を振って、大きな声で叫ぶ。完全にバレていた。周りの侍女が数名気づいて、こちらを見ていた。
「き、キュリアクス!? なんて、こんな時に余計なことを!! ダリウス。もうこうなったら、降りるしかないわ。ここで隠すなんて無理。見つけたら、どこまでも追いかけてくるんだから。かくれんぼも見つからなかったことは無かったわ!」
「エリーサ、何歳までかくれんぼしてるんだよ……」
急に表情が正気に戻るダリウス。少しだけ気持ちが落ち着いた。緊張感がほどけたからだ。隠れなくてはいけない恐怖はたまったものではない。
「かくれんぼなんて、年齢関係ないわよ。逃げるなら、とことん、逃げるわ」
「それって、ただ、あの人から逃げたいだけ……」
「そうともいうわ!」
「……そっか。お疲れさまだよ」
キュリアクスとの関係が分かってきたダリウスは、怖さを忘れてゆっくりはしごを降りた。ようやく地面に着いた頃、予想外なことが起こる。
「捕まえろ。逃がすんじゃない!」
キュリアクスの表情が一気に変わった。ダリウスの両腕を兵士の二人に捕まれていた。エリーサベトはそんなつもりで一緒に行動していたわけじゃないと必死で抵抗するが、キュリアクスの顔は硬かった。牢屋にまで連れていくよう指示されていた。笑って過ごせる雰囲気ではない。
「ダリウス!! ダリウス!!」
キュリアクスにエリーサベトの両腕をしっかり掴まれていた。ダリウスを助けることはできなかった。エリーサベトは、ぐったりと顔をうなだれた。
「エリーサ様。これはオレリアン王の指示です。助けたいと思うのであれば、直接お父上におっしゃってくださいませ」
「お父様が?! こんな風にするとは思わなかったわ」
「事情が事情ですから……」
ダリウスはぐったりとして、二人の兵士に抵抗もなく、連れていかれてしまった。
エリーサベトの逃亡作戦は失敗に終わった。




