4-11話 現実は辛くとも
視界が白く爆ぜた。
鼓膜を突き破るような轟音のあと、世界から一切の音が消え、ただ真っ白な光の粒子だけが俺を飲み込んでいった。
――あぁ、終わったのか。
そう思った。死ぬ間際、人は走馬灯を見ると言うが、俺の意識はただ泥のような暗闇へと沈んでいった。
次に意識を浮上させたのは、鼻をくすぐる懐かしい匂いだった。
古い木造家屋特有の、湿り気を帯びた木の香りと、乾いた畳の匂い。
頬を撫でる風はやけに優しく、どこか遠くで風鈴が鳴っているような幻聴さえ聞こえる。
「……っ、は……」
肺に空気を送り込む。重い目蓋を無理やり押し上げると、そこには信じられないほど澄み渡った青空が広がっていた。
俺は倒れていた。縁側のある、古びた和室。畳の感触が指先に伝わる。
「……ここは?」
自分の声を出したはずなのに、その音はひどく遠く、水底から響いているように感じた。まるでスクリーンの向こう側の他人が喋っているような、奇妙な感覚。
「やっと起きたのね?」
柔らかく、それでいてどこか芝居がかった、聞き覚えのある声。
弾かれたように振り向いた瞬間、心臓が跳ねた。
そこにいたのは、ミスカだった。
フリルとリボンに彩られた、自称魔法少女のあの滑稽な格好のまま、彼女は呆れたようにこちらを見下ろしている。
「……ミスカ?」
名前は自然に唇を突いて出た。だが、喉の奥に鉛を飲み込んだような違和感がある。
ミスカだ。間違いない。大きな瞳も、勝ち気な口元も、彼女そのものだ。
けれど、何かが決定的に足りない。パズルのピースが一つだけ欠けているような、致命的な違和感。
「なにぼーっとしてんねん、鋼。アホ面さらして」
次に響いたのは、脳を揺らすようなコテコテの関西弁。
黄金色の球体――ゴルスラが、ゆらゆらと宙に浮きながら俺の顔を覗き込んでいた。
「今日は訓練サボって、ここで勝手に倒れとったんやで? ほんま、人騒がせやわ」
「訓練……?」
その言葉の意味は理解できる。だが、重みがない。
誰かの幸福な記憶を、映画館の特等席で眺めているような、薄ら寒い感覚が全身を支配していく。
「もう、無茶ばっかりするんだから。昔から変わらないね、鋼くん」
そして、その声が聞こえた瞬間。
俺の思考は、真っ白に塗りつぶされた。
「……冬子?」
そこに、彼女がいた。
逆光を背に受けて、少し困ったように眉を下げ、優しく微笑んでいる。
かつて俺が守りたかった、そして守れなかった、あの日そのままの姿。
「おはよう、鋼くん。よく眠れた?」
冬子が歩み寄ってくる。畳を踏むかすかな音、衣服が擦れる音。
胸が、締め付けられる。
心臓を直接素手で握り潰されたような、耐え難い痛み。
理由は分からない。理屈では説明がつかない。
なのに、どうしようもなく――視界が滲み、涙が溢れそうになる。
「どうしたの? どこか痛む? 顔色、すごく悪いよ」
冬子の手が伸びてくる。その指先が俺の頬に触れようとした、その時――。
―――ビキリ。
視界に、鋭いノイズが走った。
古いフィルムが焼き切れるような、耳障りな電子音。
穏やかな初夏の景色が、一瞬だけモノクロの砂嵐に変わる。
「……っ! ああああ!」
頭を割るような劇痛が走った。
視界に黒い亀裂が走り、景色がブレる。
ミスカの姿が二重、三重に重なり、ゴルスラの毒づく声がスローモーションのように引き伸ばされ、途切れる。
そして――。
目の前にいた冬子の輪郭が、デジタルノイズのように崩れ、背後の景色が透けて見えた。
「違う……」
歯を食いしばり、必死で言葉を絞り出す。
脳の奥底、固く閉ざしていたパンドラの箱がこじ開けられ、記憶が濁流となって逆流してきた。
甘い幻想を、真実の残酷さが食い破っていく。
光の粒子となって俺の手をすり抜け、消えていった冬子の体。
「違う……これは、偽物だ!」
叫んだ瞬間、世界が静止した。
ノイズの嵐は止み、歪んだ景色のまま、すべてが石化したように固まる。
「鋼くん?」
冬子が首を傾げる。だが、その瞳に映る俺の姿には――魂の重みがない。
それは、俺の記憶から作り出された精巧な人形でしかなかった。
「……お前は」
拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込み、痛みが現実を繋ぎ止める。
「お前たちは、死んだんだ……。俺の、目の前で……!」
空気が、一気に凍りついた。
空の青色がひび割れ、そこからどす黒い虚無が漏れ出してくる。
世界そのものが、俺の拒絶に呼応して悲鳴を上げ始めた。
「俺は……戻らなきゃいけないんだ。こんな、優しい世界に浸っているわけにはいかない……!」
ミスカの表情が、スッと消えた。
喜怒哀楽を失った無機質な仮面のような顔で、彼女は呟く。
「……やっぱり、気づいちゃったか。せっかく、一番幸せなところを用意してあげたのに」
「せや。ここは、お前が心の底から望んだ“選ばれた過去”なんやで。鋼」
ゴルスラの声も、もはや友人のものではなかった。システムメッセージのような、冷徹な響き。
「……でも、ここは俺の居場所じゃない」
俺は、震える膝を叩いて立ち上がった。
足元から畳が、草が、砂のように崩れ去り、底なしの闇へと消えていく。
見上げれば、澄んでいたはずの空には無数の亀裂が走り、世界の終わりを告げる鐘の音が響き渡っていた。
「俺のいた、世界に……戻るよ」
最後の一歩。
冬子の目の前まで歩み寄り、俺はその幻影をじっと見つめた。
偽物だと分かっていても、その笑顔を見ると、胸が張り裂けそうになる。
ここにいれば、彼女は生きている。
ここにいれば、誰も失わずに済む。
一瞬だけ、理性が揺らぐ。
だが、冬子は――俺が記憶している彼女なら、きっとこう言うはずだ。
「……鋼くんらしいね」
彼女が静かに笑った。
それは、俺の魂に刻まれた彼女が言わせた言葉のように感じた。
「だろ?」
俺は笑顔を作った。
今にも決壊しそうな涙を、強引に奥へ押し込む。
泣きたかった。
この偽物の世界でいいから、彼女の手を握って、ずっとここにいたかった。
でも、俺が立ち止まれば、彼女が守ろうとした未来さえも消えてしまう。
「……バイバイ、冬子」
その言葉を口にした瞬間。
世界が、凄まじい光と共に弾け飛んだ。
身体が全方位から引き剥がされるような強烈な重力。
時間も、空間も、未練も、感情も、すべてが光の奔流の中に置き去りにされていく。
俺という存在が、一つの点へと凝縮され、次元の壁を突き抜けた。
―――気がつけば。
俺は、乾いた風の中に立っていた。
土と、かすかな焦げ跡の匂い。
見渡す限り、何もない平原。
かつて文明があった場所なのか、それとも元から何もなかったのか。
遠くの空は、濁った灰色と茜色が混ざり合ったような、現実的で、救いのない色をしていた。
「……ここは……」
誰も、いない。
ミスカも、ゴルスラも、冬子も。
手に残っているのは、畳の感触でも、彼女の体温でもなく、ただ冷たい風の感触だけ。
天命の時計は、どこへ行った?
ヘルズは?
そして、俺は本当に、戻るべき場所に戻れたのか?
偽物の平穏を捨てて、地獄の続きを選んだ自分の決断。
あの光の中で見た冬子の笑顔が、呪いのように、あるいは祝福のように、俺の背中を押している。
「終わらせる。俺が、すべてを」
独りごちは、風にさらわれて消えた。
俺は、一歩を踏み出す。
すべてを取り戻すために。
あるいは、今度こそ正しく失うために。
果てしない平原の先、地平線が揺れている。
「にしても…ここは…どこだ?」




