第4話 毘沙門天
第4話 毘沙門天
敵軍の前にたちはだかったのは島津殿だった。
敵中へと飛び込んだ島津殿は、あっという間に敵に囲まれてしまった。
「島津殿…!」
助けねば、私は前へ出ようとした。
ところが彼女に付いていた敵が皆、一斉に倒れる方が早かった。
島津殿は生き残った敵を太刀で次々と斬っていった。
喉を、足を、手を…少しも怯えることはない。
そしてその動きはどういう事だ、なぜ敵の弱点を最短で突ける?
女ながらになぜ、男たちにも力負けしない?
武門の女どころか、まるで現役の兵だ。
くのいちか…それはないはずだ、彼女自身がそう申しておった。
…野心はないと。
敵軍はこの不思議な兵を前に戦意を失い、退却を始めた。
それでも島津殿は戦うことを止めず、敵を追いかけては戦へと引きずり戻した。
私も上杉の兵らも、彼女を救おうと敵中に飛び込んだものの、
出番など微塵も残されてはいなかった。
あまりにも強過ぎる…たとえ数万の軍の中に島津殿を投じても、彼女だけが生き残りそうだ。
一人、また一人、島津殿の手に敵兵が倒れて行く…。
「毘沙門天の加護はお前になどやらぬぞ、謙信」
最後の一人を倒し、敵兵の死体の間から島津殿はようやく言葉を発した。
「…島津殿、なにゆえこのような力を隠して…どこか友軍の兵にござったか」
「友軍? あり得ぬ。私はお前の敵、お前は私のたった一人の敵ぞ。
…言ったはずだ、お前だけを憎み、お前の不幸だけを願うと。
だからお前が生涯かけて求め続ける、毘沙門天の加護を奪ったまで。
上杉不識庵謙信…たった今からお前はただの男、欲にまみれた汚い男…!」
島津殿は声を立てて笑った。
「ただの男で構わぬ、そなたのためなら私はいくらでも汚くなれまする。
しかしながら毘沙門天の加護を奪うなど、出来るはずもない事…」
「簡単だ…」
私の頬を血に濡れた島津殿の手が触れ、彼女は微笑んだ。
島津殿の腕から、肩から、火種もない炎があがる。
「私自身が毘沙門天そのものならば良いだけの事。
天下統一? させぬ、義? 潰す…今度は私が全身全霊かけてお前の邪魔をするぞ」
炎は急激に成長し、島津殿を取り込んでいっそう燃え上がった。
「島津殿…まさか死ぬつもりだったとは…島津殿!」
私は火の中へ飛び込もうとした。
「おやかた様! 危のうございまする!」
「ええい、放せ! 島津殿が…助けねば、逝かせぬ…!」
「おやかた様!」
家臣らが束になって私にしがみつき、まとわりついた。
その間にも炎は収縮し、消えてただの虚空へと戻っていった。
後には一片の骨も残らなかった。
「島津殿…!」
私は炎のあったところに膝を折り、悲しみに手をついて彼女の名を呼んだ。
涙が落ちてはもう何もない、ただの地面へと染み込んで消えた。
どうしてあの時、島津殿を行かせてやらなかったのだろう。
どうして彼女の幸せを祈ってやらなかったのだろう。
島津殿の言う通りではないか、私に毘沙門天の加護はもうどこにもない。
私は恋のあまり、島津殿を死なせてしまった醜い男。
私は上杉不識庵謙信、ただの愚かな男…!
戦を終えて春日山城に戻り、本丸の奥深くのあの部屋を訪ねる。
まるで島津殿の手習いでも見てやるかのように。
しかし部屋は冷たく、人の温もりもなく、夜の冷たさだけが私を迎えた。
灯りを点けさせて書物やら硯やら、遺された品々を眺めて思い出に浸る。
その夜以来、私はこの部屋に寝泊まりするようになった。
昼は島津殿のお手が触れた筆を取り、いくつもの悲しい歌を詠み、
夜は島津殿の使っていた夜具に、身を包んで眠る…。
彼女の使っていた香が闇に香ると、まるで彼女が私の隣に寝てくれているように感じる。
香炉の火種のほの温かさが、彼女の肌になる。
そんな夜は島津殿の着ていた衣を抱きしめ、恋を語りかける。
ずっとそばにいて、どこにも行かないで、私を見て、私を愛して…。
私は透明になった島津殿を愛した。
姿のあった頃よりも、ずっと色鮮やかに、熱く強く。
だがそんな語りかけも愛撫も、ただの虚しい分泌液となって、
とろりとだらしなく床に流れ落ちるだけだった。
島津殿は跡形もなく燃えて消えた、やはり彼女はこの世の者ではなかったのだ。
ならば姿を変えてまた私の前に現れてくれるかもと、私は密かな期待を寄せた。
邪魔をしに来てくれるかと、その後の戦で勝利を収めてみた。
毘沙門天の加護はもう無い、実力で勝たねばならなかった。
辛い戦いだったがどうにか勝利をもぎ取って、あの部屋に戻っても変化はなかった。
島津殿が戻って来る事はなかった。
期待する事はそのまま裏切りでしかなかった。
何をしても独り…独り身でいる事を自分で選んだくせに、
今まで淋しさなど感じても来なかったと言うのに、今さら淋しさが波となって私を襲う。
酒を飲んでも独り、どれだけ飲んでも淋しさを思い出には出来ない。
私の心など関係なく、それでも春はまためぐって来る。
冬場は雪に閉じ込められていた上杉の軍も、また戦へと動き出す。
そんなある朝、私は厠に立った。
すると、突然後ろからむき出しの尻を蹴り上げられた。
「何をする!」
私は前のめりに倒れ込み、尻を突き上げた姿勢のまま、後ろを振り返った。
何もない厠の空間に炎がぽっと浮かび上がった。
「行くぞ謙信」
炎の中から女が生まれ出て来た。
それは思い出には出来なかった女、島津殿だった。




