79.仕事がない?
オウルは大きく欠伸をして、長椅子に座り直した。
「それうまそうだな。コニー、ひと切れちょうだい」
「いやです! わたしのです!」
コニーは黒パンの皿を素早く自分のほうへ引き寄せた。
「だめか」オウルは断られたのも気にせず、笑いながら立ち上がった。
「じゃ、おれもなんか頼むわ」
オウルは豆のスープと薄めたエールを持って戻ってきた。少し考えるそぶりをみせてから、ジェムの隣に座り直す。
「ゴブリンはどこで見たんだ?」
「山羊小屋の近くです。山羊を追いかけてて……」
「食ってた?」
「まだです。わたしたちが来たので」
「痩せてた?」
コニーは首を傾げた。
「ゴブリンって、だいたいあんな感じじゃないんですか?」
「いや、おれはそいつら見てねえよ」
うーん、とオウルは視線を上にやった。珍しく、困っているようだった。
「逃げたほうはどっち行った?」
「ええと……」コニーがジェムを見る。
「東の森のほう……でしょうか」
「迷わず行ったのか?」
コニーは少し考えた。「た、たぶん……」
オウルは少し眉を寄せながら、椀を取り上げた。
「ま、しょうがねえか。……おまえら、このあと予定ある?」
コニーとジェムが首を横に振ると、オウルは続けた。
「じゃあ、食ったら護衛組合まで付き合ってくれ。ドランベルクがゴブリンの情報を欲しがってんだよ」
「え? わたしたちも?」
「見たのはおまえらだろ。聞かれたら自分で答えろよ」
ちょうどそのとき、奥の事務室からセロウが冊子と紙束を抱えて出てきた。オウルたちの前を通り過ぎ、そのまま依頼掲示板の前へ向かう。
掲示板の前まで行くと、片手で冊子を開いた。もう片方の手を軽く振ると、半透明の手――〈賢者の手〉と呼ばれる初級呪文である――が宙に現れた。
浮かんだ手は掲示板を端からぺらぺらと辿り、東へ向かう依頼票を見つけるたび、危険度を示す後付けの色札を確認し、付け替えていく。
赤は橙に。橙は黄に。
黄や緑は据え置きらしい。
オウルは匙を進めながらそれを眺めていたが、ふと手を止めてセロウの背に話しかけた。
「東はだいたい上げんのか?」
「ええ」セロウは、こちらに背を向けたまま答える。「当面は、街の外へ出る依頼だけですが」
「仕事にならなくねえ?」
「仕方ありません。特に赤等級では迷いゴブリンにも苦戦するでしょう」
「そりゃそうだけどさ」
オウルはスープをひと匙すすった。
「あっ」コニーが掲示板を指差した。「あれ、わたしたちがさっき行ってきたやつじゃないですか?」
山羊の谷からチーズを運ぶ依頼。朝とは危険度が変わっている。コニーが受けたときには赤だったのに、今では橙だ。
「実は、コニーさん以外からも東で二、三件、目撃の報告がありまして。数も場所もばらばらなんですが」
「じゃあ、今から受けようとしたら、わたし一人じゃ受けられないってことですか?」
「そうなりますね」
「ええーっ! ちゃんと帰ってきたのに!」
「でも、怪我されたんでしょう?」セロウがコニーの左腕を指差す。
「お二人だったからともかく、一人だったらどうなっていたか」
コニーは当て布の巻かれた腕を見た。
「うーん。そっかあ」
「納得すんのかよ」オウルが笑う。
そこへ、入口から大きな麻袋を抱えた男が入ってきた。
「荷運びを頼みたいんだが」
男はカウンターへ行き、ギルド職員に行き先と荷物の量を告げた。東の街道沿いにある農家まで、塩と油を届けてほしいらしい。職員は、少し困ったような顔になった。
「東方面の危険度が上がっていまして。この内容ですと、昨日までより上の等級で掲示することになりますね。このままだと、受け手がつかないかもしれません」
「増えるのか?」男はしばらく黙っていたが、やがて麻袋を抱え直した。「……なら、考える」
そう言って外へ出ていってしまう。掲示板の前にいた若い探索者が一人、男の背中を目で追っていた。
オウルはスープを飲みながら、その様子を見ていた。
そして、スープを傾けるように飲んでいたコニーの目の前をとんとん、と指で叩く。
「見ろよ、コニー」そう言って、窓の外を指差す。「仕事があるぜ」
「えっ?」
「さっき、依頼を見送った親父がいたろ。そいつを追ってった」
コニーが視線を受けると、窓の外で、一人の探索者が男を呼び止めているところだった。
二人はしばらく立ち話をしていたが、やがて麻袋の男が指を二本立てる。
探索者が首を振り、今度は三本立てた。
「……まさか、直接受けようとしてるんですか?」ジェムが言った。
「危険度を上げた意味がないじゃないですか」
「ギルドを通さないんだったら関係ねえだろ」
そう言って、オウルは残ったスープを飲み干した。ジェムはまだ納得できないという顔をしている。
「でも、よくないことですよね?」
「そんなことねえよ。なあ、セロウ?」
「ええ」
ちょうどセロウがこちらに歩いてくるところだった。掲示物はすべて貼り終えたらしい。
「個人で仕事を頼むことは禁止していません。そこまでの権限はありませんからね。ただ……」
掲示板の前にいた探索者が、外の二人をしばらく見ていた。やがて依頼票から離れ、そのまま入口を出ていく。
セロウはその探索者を黙って見送ってから、困ったような表情を浮かべた。
「探索者支援会の頃なら、当事者同士でどうぞ、で済んだんですけどね。本音を言えば、うちも、机仕事が減って助かりますし……」
「でも、顔に泥塗られちゃあな」
「顔なら洗えば済むんですけどね。幸い、まだそこまでひどくはありません」
窓の外では、まだ二人が何かを話している。
探索者は自分の胸元を指し、それから東の方角を示した。麻袋の男も負けじとギルドの建物を指差す。
「まだ決まってないみたいですねぇ」
のんびりとつぶやいて、コニーは黒パンの最後の一切れを口へ押し込んだ。ジェムも空になった皿を重ねて、オウルはエールを飲み干して立ち上がる。
「じゃ、行くか」
三人がギルドを出ると、途端に通りの喧騒が近くなった。荷車の車輪が石畳を鳴らし、向かいの屋台から客を呼ぶ声が飛んでくる。
そして、窓越しには聞こえなかった二人の声も届いてきた。
「だから、銀貨三枚だって言ってんだろ。東は今日から危険度が上がったんだぞ」
若い探索者が言う。麻袋を抱えた男は、鼻を鳴らした。
「その危険度になったから、お前じゃ受けられねえって中で言われたばっかりなんだよ。赤で三枚取るってのか?」
「おれの等級が足りねえからって、街道が安全になるわけじゃねえだろ。二枚じゃ昨日と変わらねえ」
「正式に受けられもしねえ奴に三枚は払えん」
「二枚と銅貨五枚」
麻袋の男はしばらく黙った。
「……それ以上は増やさんぞ」
「よし」
ようやく二人は握手を交わした。契約が決まると、男はすぐに手を離した。
「そういや、お前、名前は?」
若い探索者が答える。男は聞き取れなかったのか、眉を寄せた。「登録証あるだろ。ちょっと見せろ」
探索者は首から下げていた革札を引っ張り出した。支援会の金属製の認識票と一緒に、赤く染められた革札がぶら下がっている。男はそれを手に取って、しばらく眺めた。
「……よし」革札を返す。「明朝、東門だ。早く来いよ」
「そっちこそ、さっさと荷物まとめとけよ」
二人は連れ立って通りを歩いていった。オウルは、その背中を眺めながら笑っていた。
「おお。ちゃんと役に立ってんじゃん、登録証」
そのとき、通りの向こうから声が飛んできた。
「おい、オウル!」
オウルが振り向くと、男が手を上げていた。何度か酒場で顔を合わせたことのある御者だ。
「お前、いま暇か?」
「これから昼過ぎまで野暮用だ」
「じゃあ、夕方ちょっと手ぇ貸せよ。弾薬庫行きの箱が四つ残っててさ。荷車に積むだけだ」
「やだ」オウルが即答する。「つまんなそうだから」
「さっき、積んでる途中で一箱火ぃ吹いたんだよ。なんでかわかんねえけどさ」
「やる」
「なんで?」
思わず、といったように言ったのはジェムだ。見習い神官がうろたえるのも気にせず、二人は話を進めていく。
「じゃ、銅貨九枚でどうだ」
「飯つく?」
「つかねえよ」
「じゃあ十二かな」
「十だ。銀貨一枚で払ってやる」
「おれが賭け好きなの知ってるだろ? 銀貨じゃ崩しにくいんだよ」
「かさばらなくていいだろ」
そこでオウルは愉快そうに笑った。
「まあ、それでいいぜ。銀貨一」
「決まりだ」
御者はオウルの肩を軽く叩いて、「じゃ、日が落ちる前に来い」と言って去っていく。オウルも「はいよ」と手を振り返した。
横で見ていたコニーが、小さく「あ」と声を漏らした。
「山羊飼いさんのときも、こんな感じでしたよね。直接、オウルさんに頼んでたじゃないですか」
「そりゃあ、おれは昔からこの辺にいるしな」
オウルはそれだけ言って、御者の荷車から視線を外した。
「にしても、腹減ったな~」
「さっき食べたばっかりでしょ?」
「コニーがパンくれなかったからな」
「わたしのパンですよ! あげるわけないじゃないですか!」
コニーが抗議する横で、ジェムは振り返った。
開け放たれたギルドの入口から、依頼掲示板が見える。
その前には、まだ何人かの探索者が残っていた。
東へ向かう依頼票から札が付け替えられたあとも、貼られた紙を上から下まで眺めている。
そのうち、赤い革札を首から下げた一人が、ふと掲示板から顔を上げた。入口の外を見る。少しして、掲示板から離れた。




