7.用水路に住むクレリック ①
朝のニックブレード・タウンは穏やかだ。
屋台の仕込みをしている女が子供を叱り飛ばし、市場の裏通りで荷運び屋が怒鳴り合っている。飲んだくれて道端で寝ている男のもとへ一人の子供が駆け寄っていき、脇に投げ出された鞄をごそごそあさりはじめた。目立った殺傷沙汰は、まだ起きていない。
石壁の目立つところには、冒険者ギルド設立を告げる真新しい紙が貼られている。質こそ良くないが、ニックブレードでこれほど大量に紙を見るのは珍しい。
オウルは無造作に一枚を剥ぎ取った。隣を歩いていたイチロクが顔をしかめて「おい。勝手に剥がすな」と言ったが、オウルは無視した。
『冒険用資材を適正価格で供給します。』
つまり、どこかの誰かが「この値で売れ」と決めるってことだ。
探索に――奴らの言い回しを採用するなら〈冒険〉に――必要なものはいくらでもある。油、火口箱や松明、保存食や水袋、麻縄、治療具一式。
そして、水薬。
脇腹が小さく疼いた。昨日の綱渡りで無理に身体を捻ったせいだろう。
オウルは紙を丸めた。死の山で飲まされた、あの水薬を思い出す。
あれが冒険者ギルドの言う「適正」の枠に入るとは、とても思えない。
市場の喧騒を背にして細い路地を抜け、街外れの古い用水路へ向かう。石積みの隙間から青々とした細い水草が伸び、濁った水が浅く流れていた。腐りかけた葉や藁くず、野菜の皮が流れそこね、岸に寄っている。
その奥に、石造りの礼拝堂が立っていた。
礼拝堂と呼ぶには、だいぶ無理のある建物だった。野営と、倉庫と、薬草畑を乱暴に混ぜたようなありさまだ。古い神印の彫られた扉は傾いており、崩れた屋根の隙間から朝の光が差し込んでいる。長椅子も、奥の祭壇も、すでにモノで埋もれていた。
とりわけ目を引くのは、植物だった。
礼拝堂の左半分には、素焼きの鉢がぎっしりと並べられている。窓枠には刈られた薬草が束で吊られ、床には根や葉が種類ごとに広げられていた。祭壇の近くには見慣れない草花が密集し、薬草かどうかさえわからない。いくつかは硝子の覆いまでかけられている。
その植物に半ば埋もれるようにして、小柄な人影がひとつ、しゃがみこんでいた。
「あ、きみか。よかったぁ、生きてたんだ」
そう言って人影は立ち上がり、オウルを見た。
外見だけなら十歳そこそこの少女のようだが、その立ち居振る舞いには子供特有の危うさはない。小柄な体つきと、好奇心に縁取られた大きな瞳が、彼女が小人族であることを示していた。
生成りの僧衣を袖を肘までまくり、上から継ぎはぎだらけの前掛けをつけている。元は白一色だったらしい僧衣も前掛けも、指先までもが、薬草の汁で濁った緑に染まっている。
ノームの女は顔を上げ、大きな瞳でじろじろとオウルを観察した。
「うーん。意識が戻るまで、二日はかかると思ったんだけどなぁ」
「その節はどうも」と、オウルはやや警戒しながら言った。
「あわてて解熱薬を作ってたのに、君ってば目を離した隙にいなくなっちゃうんだもん」
「そりゃあな。目が覚めたら、小人が笑顔で鍋を煮てる。おれの服は脱がされてる。逃げるだろ、ふつう」
「治癒中はそんなこと言わなかったのに」
「気を失ってたんだよ」
「ま、いいや」エスは手を前掛けで適当に拭い、立ち上がった。「せっかく来たんだし、傷、見せてってね」
許可を取る口調ではなかった。オウルが返事をする前に、女の手は胸当ての革紐にかかっている。
オウルは眉を上げたが、されるがままだった。
脇腹の傷はまだ赤黒く跡を残しているものの、異様な速さで塞がっている。女はしゃがみこみ、傷口の周囲を指先で確かめた。少しの色気もない手つきである。
「腫れは引いてるね。化膿もない。えらい、えらい」
そこへ、イチロクが割り込んだ。
「お前が〝エス〟か」
女はその声で、初めてオウルの後ろにいるドワーフに気づいたらしかった。
「ドワーフだ。わ。背ちっちゃいね」
「小人に言われとうないわ」イチロクは憮然と腕を組んだ。
「妙に治りが早い。何を使った?」
「水薬!」
そう言って、女ノーム――エスはオウルの脇腹をぺち、と軽く叩いた。
「といっても、ここまですぐ治るものじゃないけど。運がいいんだねえ」
「もちろんだ」と、オウルは胸を張った。
イチロクはまだ納得していない顔で、エスを睨む。
「えーと、で、なんだっけ? そう、わたしがエスだよ。N.C.エス」
N.C.エスという記号めいた名に、イチロクの眉が動く。本名ではあるまい。だが、偽名というわけでもない。教会から献名を受けた聖職者が名乗る名。
「ふん。神官が治癒院の真似事か」
「お金はもらってないよ。草を育てて、必要なら使うだけ」
エスが示す方に、オウルは目を向ける。
薄桃色の花があった。口を開けたような花弁が、茎の先端に密集している。根の部分はいくつもこぶが重なったように太く膨らんでおり、その見た目がおおいに不気味だ。
隣には、硝子の覆いをかぶせた鉢がある。その中で、ヒューマンの大腿部ほどの高さがある多年草が白い花を咲かせていた。小さな葉の周りにはフカフカとした産毛のようなものが生えていて、花の周りはかすかに霞がかったようにぼんやりとしている。
「水薬の原料をこんな場所で育てて、よく盗まれないな」
「盗まれるよ?」エスはあっさり言った。「でも、戻ってくるの」
「戻ってくる? 草が?」
「人が。前に、あっちの白い花を鉢ごと持っていこうとした人がいたんだけど、倒れちゃった」
「死んだのか?」
「起きなかっただけだよ。三日間」
エスは硝子で覆われた鉢を指先でつついた。
「これはね、吸っちゃだめなの。これで三人、笑いながら用水路に落ちた」
「そんなものを堂々と育てるなよ。支援会は何も言わないのか?」
「言うよ。『怪我人を減らしてるのは助かるが、草を盗もうとして倒れた馬鹿が苦情を持ち込んでくる。面倒だから看板くらい立てろ』って」
「そっちかよ」
エスは胸の前で手を組んだ。
「看板は立ててもいいかな。知らないで花粉を吸ったらかわいそうだもの。知ったことをしまい込むのは、《知識》の教えに反するから」
その言い方で、オウルはようやくエスがただの草狂いではないことを思い出した。
「ああ。あんたは《知識》の神に祈るのか」
「そう。《草》は知識の神が遺した処方箋なの。ゆえに、これを秘匿してはならない。独占してはならない。ましてや、金貨に替えて秤に乗せるなどあってはならない」
「おおっと、こいつは」
オウルは笑顔を崩さなかったが、ちょっとだけ後ずさった。
「おれに飲ませたのも、その《草》か?」
エスは深く頷き、プランターの葉を愛おしそうに撫でる。
オウルは脇腹に手を当て、あの異常なまでの多幸感を思い出した。
「冗談だろ。あんな薬物をタダで配ってるのか?」
「代償はもらってるよ?」と、エスは無邪気に笑った。「未知の薬理を見つけた。それ以上の対価がどこにあるの?」
「そうじゃねえよ。例の冒険者ギルドがいい顔しねえだろ」
「ああ、うん……」と、エスは、少しだけ困ったように眉を下げる。
「来たよ。支援会に申告して、危険な草を使うのをやめてって。そんなこと、できるわけないのに」
イチロクは額に手を当てた。
オウルは笑いをこらえるような顔になった。
そのとき、礼拝堂の入口から小さな声がした。
「エス、いる?」




