6.ヒューマンは短絡的
「な――!」
イチロクは思わずガッと口を開いたが、後ろで首を折って転がっている死体が脳裏に蘇り、声がつっかえる。
声をかけて気を散らせば、それで転落するかもしれない。
――阿呆が。なぜこんなことを!
冒険者ギルドの説明会でも、イチロクの住処でも、あのヒューマンは退屈そうにしているか、軽薄に笑ったり軽口を叩いたりするくらいのものだった。イチロクの見る限り、表情の豊かな男であった。
それなのに、今はその面影が欠片もない。
表情はごっそり抜け落ちている。
高揚して笑うか、狂気を見せるかしているなら、まだ気狂いとして理解できた。
だがオウルの目には、熱狂も恐怖もない。人間らしい感情はどこにもなかった。死の恐怖にも周囲の喧騒にも動じない、ひどく静かな目だった。
見知った姿かたちをしているのに、別の次元に棲む生き物でも見ているようで、薄気味が悪い。
イチロクはそこでようやく、昨夜の話がただの軽口ではなかったのだと思い知った。死の山でナマクラ一本、水も食料もなしに狼の群れを抜けたというのも、聞いたときはそんな馬鹿な話があるか、と頭のどこかで疑っていた。そんな命からがらのやり取りを切り抜けたにしては、語り口が軽薄すぎたからだ。
だが、このありさまを目前にした今となっては、こう思わざるを得ない。
すべて誇張のない事実だったのだ。
あのヒューマンは、本当にこういう種類の阿呆なのだ。
「おーっ、そこで足が止まったぞ!」
「落ちるか!?」
「まだだ、まだだ、ありゃあ落ちる顔じゃねえ!」
「落ちろ! 落ちろ!」
野次が飛び、銀貨が投げ込まれる。
オウルは無表情のまま、また一歩を踏み出した。
朝の風が強く吹けば、ぎち、と綱が鳴る。
オウルは揺れに逆らわず、むしろ揺れに身体を預けるようにして重心をずらした。後ろ手を縛られているぶん、肩と腰と足首だけで釣り合いを取っている。その身のこなしは、命を賭けた遊びというより、満身創痍の獣が細い岩棚を渡っていく様に近かった。
死体の横で、野次馬どもがどっと笑う。
イチロクは、自分がいつの間にか拳に力を込めていることに気づいた。
やがてオウルは、最後の一歩を渡り切った。向かいの木窓の枠へ片足をかけ、そこで初めて大きく息を吐く。
広場の下から歓声と罵声が同時に飛ぶ。
細い指をした胴元らしい痩せた男が、渋い顔で銀貨を数え始めた。
オウルは振り返りもせず、窓枠に身体を預けた。後ろ手に縛られた両腕の輪の中へ片足ずつ通し、縛られた両手を身体の前に持ってくる。手首の縄の端を口へ持っていき、歯でくわえて引いて緩める。
イチロクは人垣を割って前へ出た。
人垣を抜けると、倉庫の壁に立てかけられた梯子を降りてきたオウルが、涼しい顔で銀貨を掌に受け取るところだった。
「おっ! イチロクもいたのか」
まるで散歩の帰りにでも出くわしたような声である。
「いたのか、ではなかろうが!」
イチロクの怒声にも、オウルはけろりとしている。
掌の中の銀貨を二枚、イチロクに向けて弾いた。イチロクが空中で受け取ると、にやりと笑ってみせる。
「ほら、ちょっと増えたぜ。靴紐代と、今日の朝飯くらいにはなるかな?」
銀貨二枚。たった銀貨二枚だ。
「……阿呆か、貴様は!」
「そんな気にすんなよ、返す気もアテもあるからさ」
「そうやって返されても嬉しくないわ!」
イチロクは本気で怒鳴った。
怒鳴りながらも、さっき綱の上で見た顔が頭から離れない。命を落とすかもしれない場所に立つと、このヒューマンは普段の軽薄さも無駄口もすっかり消し去り、ごく自然にその状況へ馴染んでしまう。
「お前は捨て石ではないのだぞ、若造」
「状況によるだろ」
「とにかく、雑に扱うなと言っておるのだ!」
オウルはイチロクの怒りに頓着もせず、広場の死体を顎でしゃくった。
「一人落ちてたな。運がなかったか、覚悟が足りなかったか」
「お前も同じようなことをしただろうに」
「心外だな」と、オウルはけらけら笑った。
「おれは勝ったぜ」
その言い方があまりにも軽くて、イチロクは言葉を失った。
そのとき、銀貨を集めていた胴元の男が、こちらをちらりと見て鼻で笑った。
「次の組がまだ決まってねえ。やるか、ドワーフの兄ちゃん?」
「やらん!」
イチロクが即答する。
「そっちの兄ちゃんは? もう一回やるかい」
オウルは伸びをしてから男に向き直った。
「おれも、もういいよ。こりゃギャンブルってより見せ物だ。次もできるもんを二度やってもつまらないしな」
「強気だねえ。ルールを変えりゃあやんのか?」
「ものによってはな。で? 次はどんな――」
まずい、とイチロクは思った。このままだと、こいつは本当にもう一度やる。
「断る!」
言うが早いが、イチロクはオウルの腹部を自分の右肩に乗せ、腕を回して固定した。オウルは目を瞬かせたが、手足をだらりと垂らして身を任せた。
ドワーフの背丈ではヒューマンの体を浮かせきれず、オウルの両足は地面を引きずっている。そのまま人垣の外へ連れ出される間もオウルは抵抗せず、のんびりとイチロクの顔を見た。
「話の途中だったのに。なんだよ、いきなり?」
「黙認したら今日中に死にそうだ」
「さっき勝っただろ。そこまでは見てなかったか?」
「黙っておれ!」
なおも軽口を叩くオウルに、イチロクは一喝する。
広場を離れかけたそのとき、後ろから野太い声が飛んだ。
「おい、兄ちゃん!」
イチロクが振り向くと、さっきまで人垣の中で野次を飛ばしていた無精ひげの男が、にやにやしながらこちらへ寄ってきた。
「助かったぜ。あんたに張ってたんだよ」
そう言って、片手の中で銀貨を鳴らす。
オウルはイチロクに抱えられたまま、にへらと笑った。
「あぁ、そりゃどーも」
「途中で足が止まったときは冷や汗もんだったが、やっぱり落ちる顔じゃなかったな」
「落ちるつもりはなかったさ」
男はそこでけらけら笑い、銀貨を指で弾いた。
「昨日でくたばっててもおかしくなかったのにな。運がいい奴だ。まっ、だから賭けたんだけどな」
イチロクが眉をひそめる。
「何の話だ?」
「いや、ちょっと前に見たんだよ。死の山の麓で〝エス〟が死にかけのヒューマンに薬をぶっかけてるのをさ。ありゃお前だろ」
イチロクは渋い顔で問い返した。
「エス?」
「死にかけを拾っては水薬ぶっかけてる変人さ。死の山の近くをうろつくなら、一度は聞く名だぜ」
「女の神官か?」
「らしいな。とてもそう見えねぇが。古い用水路の奥にいる変人だよ。緑のマント着て、薬売りみてえに籠だの小瓶だのぶら下げてるのさ」
「ほら見ろ」と、オウルが嬉しそうにイチロクの肩をばしばし叩く。
「賭け事も捨てたもんじゃないだろ?」




