5.恩人は様子がおかしい
イチロクは、オウルの脇腹の傷と腕の裂け目をじろじろと眺めた。
「何を使われた?」
オウルはジトっとイチロクを睨みつけ、めくられた胴着を乱暴に引き下ろした。
「さあね。軽い〈傷治し〉だろ。あとは水を清めるやつとかじゃねえの? 泥に落ちたタオルみてえにじゃぶじゃぶ洗われたし……」
そこまで口にしたところで、オウルははたと止まった。そのときの記憶が、どうにもはっきりしない。こめかみに指を当てて、思い出そうとする。
混濁した意識の中で、頬がぬれた地面から引き剥がされ、仰向けにひっくり返された。視界の上から誰かが身をかがめ、口へひんやりとした液体を流し込む。途端に、焼けるように身体が熱くなった。痛みが消え、浮いているんじゃないかと思うほど身体が軽くなった。
そして、理由のない多幸感がものすごい勢いで頭を侵食していった。
まずい、このままじゃまずい、頭がおかしくなる! という危機感で一気に覚醒した。
目を開けると、そこはまだ山の中だった。
頭上には、枝に引っかけた布が一枚、低く張られている。雨よけにも日よけにも頼りない、簡易の天幕だった。すぐそばでは小さな鍋が火にかけられ、くつくつと煮えている。草を煮詰めたような、青臭くて苦い匂いがした。
身体がやけに軽い。
そう思って視線を下げたところで、オウルはようやく気づいた。
服がない。
胸破れた革鎧も、胴着も、ズボンも、少し離れた岩の上に投げ出されている。泥と血と緑色の液体でべったり汚れてひどい有様だった。自分の身体にも同じ緑色の液体がまとわりついている。脇腹も腕もぬるぬるしていて、傷口のまわりが熱を持っている。
慌てて上半身を起こすと、そこにいたのは十かそこらの少女――いや、小人の女だった。
毛皮のついたあたたかそうな緑色のマントを羽織り、その下からは神官服らしい白い袖が覗いている。片手には試験管のような小瓶。もう片方の手には、鍋をかき混ぜるための木べらを持っていた。
ぼんやりとした視界のせいで顔立ちははっきりしないが、明るい色の髪が揺れていたのを覚えている。
「傷にかけてたんだけど、回復が遅くて、原液を飲ませちゃった。覚醒してよかった、ほんとに。ごめんねぇ」
少女のようなノームは、困っているのか笑っているのかわからない顔で、そう言った。
オウルはべたつく髪をかきあげた。その手にも、得体の知れない緑の液体がぬるりとまとわりついた。
知らない女ノーム。
脱がされた服。
煮えている鍋。
得体の知れない液体。
「……」
これは逃げたほうがいいな、とオウルは思った。
それからのことは、かなり曖昧だ。
女ノームがいなくなったタイミングを見計らって胴着とズボンを引っつかみ、破れた革鎧を上から引っかけて、そのまま天幕の外へ出た。血と泥と得体の知れない液体がべっとり肌に張りついて気持ち悪かったが、全裸で山道を走るよりはましだった。
オウルは、まだふらつく足で天幕の下から抜け出し、そのまま山を下りた。
そこまで思い出したところで、オウルはぶるっと首を振った。目の前にはイチロクのしかめ面がある。
「……その、なんか飲まされたな。緑色のべたべたしたやつを傷口にかけられてさ。あれ、なんかやべぇクスリだったかも。途中から気持ち良すぎて死にそうだったし」
途端にイチロクは難しい顔をして腕を組んだ。
「何だよ」
「水薬だ。……話が変わってきたな」
イチロクは眉間を押さえた。
「死にかけの阿呆に治癒魔法をかけるだけでも十分だろうに、高価な水薬をしこたま浴びせる神官がどこにいる?」
「山にいたぞ」
イチロクは深いため息をついた。
「……気味が悪い」
「命の恩人だぜ」
「物の価値には相場というものがある。見ず知らずの死にかけに、銀貨や金貨をそのまま溶かしてぶっかけるような真似なんざ、まともな思考なら絶対にやらん」
「そりゃ、自分でもクスリやってんだろ」
「そもそも、まともな水薬はそんなふざけた効き方はせん。そんなぶっ壊れた天秤を持った奴がこの街をうろついていると思うだけで反吐が出そうだ」
オウルは、残りの蜂蜜酒を飲み干して笑った。
損切りできないやつには、だいたい二種類いる。賭け金を数え間違えてる馬鹿か、勝ち負けなんざどうでもよくなるほどキマっちまってる変態だ。
どちらにせよ、オウルにとっては興味を惹かれる存在だった。
「で、どうする? 探しに行くか? おれは別にいいぜ。どうせ暇だし」
「直接そいつを見て、その異常性を確かめんと腹の虫が収まらん」
「わかった」
オウルは空になった革水筒を揺らした。
「じゃ、明日そのイカれた恩人サマについて探ってみよう」
***
翌朝、イチロクが目を覚ますと、床に転がしておいたヒューマンがいなかった。
背嚢はあった。財布は中身が少し減っていたが、そのまま置かれている。盗れるものだけ盗って消えた、というわけではないらしい。
だからといって、腹が立たぬわけでもない。
「……やはり、ヒューマンは短絡的だ」
イチロクは吐き捨て、部屋の隅に立てかけてあった皮袋をひっつかんだ。昨日のうちに替えると言った靴紐がある。どうせ買いに出るつもりではあった。あの阿呆が戻るなら戻るで勝手だし、戻らぬならそれまでだ。
それにしても腹が立つ、とイチロクは思った。
名を失うこと、仲間に見限られること、荷や金を失うことを同じに見る気はない。
だがあのヒューマンは、困窮した顔を見せず、ふてくされてもいない。剥がされるだけ剥がされてなお、そのみじめさを少しも恥じていない。
そういう態度が癪に障る。
平気なふりをしているのではない。失ったものに見切りをつけてさっさと先へ進んでいるのだ。だから見ているこちらのほうが、くだらんことにこだわっているような、後ろ指を差されるような気分になる。
イチロクが市場へ向かうと、朝露の残る石畳の広場に、二重三重の人だかりができているのが見えた。朝からやかましい。硬貨の鳴る音(イチロクの耳には、それが銀貨だとすぐにわかった)と、野次と、笑い声が入り混じっている。
また何かろくでもない娯楽が始まったのだろう。ニックブレードでは珍しくもない。
イチロクは半ばうんざりしながら人垣の脇を抜けようとして、ふと足を止めた。
人垣の内側に、後ろ手を縛られた男がひとり転がっている。頭から石畳へ落ちたのだろう。首が妙な方向へ折れ、ぴくりとも動かない。さっきまで生きていたようだが、野次馬どもは死体を避けて円を作るだけで、惜しみも黙祷も払わず、みな一様に上を見ていた。
「……」
ヒューマンは本当に救いようがない。目先の火にふらふら寄って命までくべようとする。死体の一つ程度では正気にも戻れん。呆れ半分で、イチロクはその視線を追った。
酒場の二階窓から向かいの木造倉庫の窓へ向けて、太い麻綱が張られている。その綱の端に、後ろ手を縛られた男が立っていた。
手が使えないまま落ちれば、石畳で首が折れる高さだ。
足元には薄く朝露を含んだ綱が一本きり。命綱はない。風に揺れ、わずかにたわんでいる。下ではろくでなしどもが好き勝手に囃し立てていた。
男は、綱の上に爪先を載せ、静かに一歩を踏み出した。
その顔を見たイチロクは、思わず目を剥いた。
そこにいたのは、昨日拾ったヒューマンの若造――オウル・ダウングリーンだった。




