4.名無しのドワーフ
オウルがドワーフについていくと、やがて市場へ出た。
石畳の通りには、布を張った屋台や木台を出した露店がひしめき合っている。野菜売りの怒鳴り声、干し肉の匂い、湿った石畳を踏む無数の靴音。それらの間を縫うように、ドワーフはずんずん進んでいく。立ち止まる店は雑多だったが、どこも品は悪くない。物を見定めるために立ち寄っているのだとオウルにもわかった。
ドワーフは手の届く品物を片端から掴んでは眺めた。木台に並んだ布袋、火打ち石、そして縄に吊るされた水袋を手に取り、前掛け姿の店主を見上げた。
「この水袋はちと値が高いな。縫いが甘い」
「銀貨二枚ですよ」
「一枚だ」
「無茶を――」
「なら、わしは向こうへ行くぞ」
値切りにも容赦がない。
店主は渋い顔をしたが、結局は銀貨一枚で水袋を売った。
オウルは少し感心したようにドワーフの横顔を見下ろした。
「買い物がうまいな」
「当たり前だ。ヒューマンはこの程度も見抜けんからあんな商売がはびこる」
ドワーフは最後に、古いが丈夫な背嚢も一つ買った。
それで買い物は済んだとばかりに市場の喧噪に背を向け、ドワーフは細い路地へずんずん入っていった。人通りが減るにつれて干し肉や野菜の匂いも薄れてくる。
路地をいくつか曲がった先の低い木戸が、ドワーフの住処だった。
中に入ると、家というより、物置と工房の中間のような場所だった。部屋全体は薄暗いが、小窓からの明かりと壁のランプに照らされた作業台の周りは明るくなっている。足元や壁際には木箱が積まれ、石片や金具、半端な革、古い秤などが雑然と並んでいた。雑然としているだけで、散らかってはいない。このドワーフなりに置き場所に理屈があるらしかった。
作業台の前に立つなり、ドワーフの視線はオウルの腰に吊られた、柄の折れた槍先に止まった。オウルが外して差し出すと、ドワーフはランプの光で刃を見た瞬間に顔をしかめた。
「なんだ、このナマクラは。こんなもので狼をぶっ殺したのか?」
「血脂まみれだ。もう使い物にならないかもな」
「それ以前の問題だろうが。どれ、磨いてやろう。わしは刃物の専門じゃないが、そのなりで平然としているお前に大したこだわりはなかろう」
「頼むよ」
ドワーフは返事を聞き終わるよりも前に、作業台の上の水桶に砥石を浸していた。そうしてさっさと穂先を研ぎはじめる。時おり明かりに透かして刃の具合を確かめ、また砥石を当てる。こすれる音がしばらく部屋に響いた。やがて、あちこちに残る深い傷はそのままながら、槍先は元の鋭さを取り戻していった。
「ほれ」と、ドワーフは無造作にそれを突き返す。
オウルは槍先を眺め、素直に感心した。
「すげぇな」
「お前が雑に扱いすぎなんだろうが」
そこでふと、オウルは顔を上げた。
「挨拶がまだだったな。おれはオウル・ダウングリーン。あんたは?」
ドワーフは、困ったようにこめかみを掻いた。
「……そうさな。そろそろ適当な名前をつけようと思っていたところだが、さて」
オウルは眉をひそめた。
「適当な名前?」
ドワーフ族を拷問しても口にしなさそうな言葉である。
ドワーフにとって名は個人のものではない。氏族に属するものであり、長老が伝統に従って与え、代々受け継がれる。だから、それを失うことは追放以上に重いはずだった。
「純血じゃないのか?」
「よその血を混ぜられるほどドワーフは器用じゃない」
「じゃあ、ドワーフの王国から追い出されたのか?」
「似たようなもんだな。今のままじゃあ国には入れん」
ドワーフは肩をすくめた。
「氏族を証明するには代々伝わる《宝石》を使う。知ってるだろう」
「ああ。支援会がくれる認識票みたいなもんだろ。それのもっと上等なやつだ」
探索者支援会が登録者に渡す認識票は、せいぜい死体の身元を手早く特定するための金属片だが、ドワーフの《宝石》は違う。
誇りと系譜の証明そのものだ。
「そうさな。早い話、そいつを質に入れたわけだ」とドワーフは言った。
「由緒はあるが、昔の研磨技術のせいで石の美しさが死んでおった。わしの手元で出来損ない扱いを受けるよりも、希少価値だけで有り難がるヒューマンどもに預けたほうがマシな扱いを受けられるだろうて」
石をより評価してもらう市場へ流す。たったそれだけの理由で由緒正しい名ごと質草にしたらしい。このドワーフは、相当イカれた判断基準で生きている。
「あんたには世話になりっぱなしだからな。その質屋を店先に吊るすつもりなら喜んで手を貸すけど」
「いらん」と、ドワーフはあっさり断った。
「もう質流れしておる。ヒューマンを弄ぶのも忍びない」
オウルもまたあっさりと納得した。
「にしても、名がないのも不便だな」
オウルは、懐から骨でできた六面サイコロを二つ取り出した。背嚢は手放しても、この小さなサイコロは隠し持っていたらしい。ドワーフには理解しがたいこだわりだったが、短命種の思いつきにいちいち筋を求めても仕方がない。
「ちょうどいい。こいつで決めるか」
そう言ってオウルは、石床に無造作に二つのサイコロを放った。骨がぶつかる乾いた音を立てて転がり、ひとつは一、もうひとつは六で止まる。
オウルはサイコロを見て言った。
「一と六。極端な出目だな。じゃ、イチロクで」
ドワーフはしばらくその目を見つめていた。オウルはサイコロをひょいひょいと拾い上げながら聞いた。
「どうだ。振り直すか?」
「いや」
「じゃあ決まりだ、イチロク」
その呼び方を、ドワーフは否定しなかった。
名が決まったからといって、急に親しげな空気になるわけでもない。
イチロクは鼻を鳴らし、腰から革水筒と小さな革袋を取り出して投げて寄越した。コルクを抜いて舐めてみると、水筒には滋養強壮効果のある巨大蜜蜂のハチミツを発酵させた蜂蜜酒が入っていた。もう片方には燻製肉が入っている。
「今日はそれ食って、そこらへんに転がって寝ろ。明日になったら靴紐も替えるからな」
オウルは近くの木箱に腰を下ろし、ありがたく燻製肉をひとかけ口に入れた。噛むことはできても、しばらく食事を通していない喉はなかなか肉を受けつけない。仕方なく、燻製肉を小さく噛み切りながら、蜂蜜酒で無理やり喉の奥まで押し込むことにした。
二日まともに食っていない身体は鈍く重い。だが、それでも気分は悪くなかった。
イチロクが、その様子を横目で見ていた。
「死の山で狼の群れとやり合ったと言ったな、若造」
「ああ、昨日出てきた」と返事をしながら、オウルは革水筒を傾けた。蜂蜜酒は舌ざわりが柔らかく、喉を通って腹へ熱を落としていく。
「昨日だと? 治りが早すぎやしないか」
「そうか?」
「そうだ」
言うなりイチロクはずかずかと距離を詰めてきて、オウルの胸当ての革紐を乱暴に引いた。
「は?」
「じっとしておれ」
「ちょっ、……うわ!」
留め具まで外され、革の胸当てがずり落ちる。
イチロクは容赦なく胸当てを引っぺがし、その下の胴着をめくり上げた。乾いた血で張りついていた布がべりべり剥がれて、オウルは思わず顔をしかめる。
「っ、いってぇ……おい、飯の途中だぞ」
「黙っておれ」
乾いた血の下で、傷はまだ赤黒く裂けたままだった。だが、腫れも熱も引いている。山を下りてきた直後の、脈打つような痛みはもう薄れていた。




