77.山羊の谷の異変 ②
山羊飼いは、小走りで二人のところへやってきた。
「いやあ、助かったよ! あんたたち、チーズを取りに来たのか?」
「はい!」
コニーが元気よく返事をすると、山羊飼いは「そりゃあ、間の悪いときに来たな」と苦笑した。
「悪ぃが、礼はあとにさせてくれ。山羊を集めなきゃならねえ」
遠くでは、牧畜犬が散った山羊の外側を回り込むように走り、逃げようとする山羊を押し戻している。山羊小屋の近くまで来た個体に、山羊飼いが声を掛けながら小屋の入口へ誘導する。ほかの山羊も、それに倣って続々と小屋へ入り始めた。
ジェムは山羊の群れから視線を切って、コニーに向き直った。
「コニーさん、左腕を出してください。〈傷治し〉を……」
「おい! ロック、もういい、下がれ!」
コニーとジェムがそちらを見ると、山羊飼いが犬を制していた。
一頭の山羊が犬に追い立てられて、バタバタと駆けてくる。山羊はかなり気が立っているようで、犬に対しても時おり角を突き出していた。山羊飼いは、「落ち着け、落ち着け!」と山羊に声を掛けているが、一向に落ち着く気配がない。
見れば、山羊の左後脚に、血がべっとりついていた。ゴブリンに追われたときにやられたのだろう。
ジェムは、痛みを振り払うようにやたらめったら走り回る山羊をじっと見つめながら、口を開いた。
「……あの、コニーさん」
「はい?」
「申しわけないんですが、〈傷治し〉はあの山羊に使っていいですか。痛みがなくなれば、落ち着くと思うんです」
コニーはにっこり笑った。
「もちろん!」
「まず、あの山羊に触れないといけないんですが……。よ、よし……」
ジェムは山羊のほうへ歩き出した。そうっと近づいてみるが、山羊は頭を振って横に逃げる。
「おい、近づくな! 危ねえぞ!」
山羊飼いの怒声が飛んだ。
興奮した山羊には角がある。まともに頭突きを食らえば、ジェムくらいの体格ならよくて骨折、当たりどころが悪ければ串刺しだ。
「あの! 山羊の怪我を治します! 少しだけ、止めてもらえますか!」
山羊飼いは面食らったように黙り込んだ。ジェムの僧衣と木の杖に素早く視線をやる。それも一瞬で、すぐに叫び返した。
「やってみるが、ほんとに少しだと思うぞ!」
山羊飼いは牧畜犬に短く声を掛け、山羊を挟み込むように動いた。行き場を失った山羊が、足を止める。
「横から行け!」
言われたとおりに、ジェムは横からおそるおそる近づいた。あと一歩、というところで、山羊がまた動き出す。
「わっ……!」
ジェムは咄嗟に、逃げようとした山羊の胴体にしがみつく。
山羊の身体が高く跳ねる。遠くから見ていたコニーが絶叫した。
「うわーっ!! ジェムさん! ぜったい手離さないでくださいね! 絶対ですよ!!」
ジェムは目をぎゅっと瞑って叫んだ。
「しょ――、〈書庫の主よ、かの記述を此処に留め給え〉!」
淡い金色の光が、山羊の全身を包んだかと思うと、光の粒が左後脚へと飛んで行った。血に濡れていた毛の下で、傷がゆっくりとふさがり、血が止まる。
山羊はしばらく息を荒げていたが、やがて傷ついていたはずの左脚をゆっくりと地面につける。何度か確かめるように踏みなおしてから、ようやく立ち止まった。
山羊がようやく跳ねるのをやめたところで、ジェムの腕もとうとう離れた。
どさり、と地面に尻もちをつく。
「ジェムさん、大丈夫ですか!?」
「は、はい……。よかった、祈りが届いて……」
どうやらジェムは腰が抜けてしまったようで、コニーがあわてて駆け寄る。
その間に、山羊飼いは山羊のそばへしゃがみこみ、左後脚の毛をかき分けた。血に濡れてはいるものの、傷はすっかり消えている。山羊も痛がるようすはなく、のんびりと草を食んでいた。
「ほんとに治ってやがる」
山羊飼いは、傷のあった左脚を何度か撫でてから、立ち上がってジェムを見た。
「いや、神官なのは見りゃわかるけどよ。本当にこんなことできんだな」
ジェムは「まあ……」とあいまいに笑った。祈りは聞き届けられたものの、山羊にしがみついて振り回されるばかりだった。とても胸を張る気にはなれなかった。
「ま、二人とも少し休んでけよ。チーズは逃げやしねえ。なんか食ってけ」
「やったー! いただきます!」
コニーが元気よく右手を上げる。
ジェムはまだ腰が抜けたまま、コニーを見上げて苦笑した。
谷の奥へと進んでいくと、山羊飼いの小屋が見えてきた。丸太を組んで作った簡素な造りだ。山羊飼いは二人を卓へ着かせると、さっそく竈の火を起こした。
「傷を見せてください、コニーさん」
そう言って杖を握るジェムに、コニーは首を振った。
「いいですって! 〈傷治し〉は残しておきましょうよ。帰りにまたゴブリンが出るかもしれませんし」
「でも、傷の手当はしておかないと……」
ジェムは少し迷ってから、雑嚢から薬草を取り出し、コニーの左腕の傷を洗ってから当て布をした。
「ほら、食え」
山羊飼いが卓に並べたのは、大麦の乳粥、焼いた黒パン、まだ柔らかい山羊乳のチーズに、カブの乳清漬けだ。
ジェムは手を組んで祈りはじめたが、コニーは黒パンを乳粥に浸して大きくかじった。次にチーズを一切れ食べ、続けてカブを口へ入れる。カブはしゃきしゃきして酸っぱく、チーズとよく合い、乳粥の合間につまむとさっぱりした。
コニーがあっという間に空にした椀を置くと、山羊飼いは何も言わずに乳粥をもう一杯よそった。
「いいんですか!? ありがとうございます!!」
コニーはぱっと顔を明るくして、椀を両手で受け取った。そうして二杯目の乳粥に取り掛かった隣でジェムは祈りを終え、ようやくひと匙すくって口に運ぶところだった。
山羊飼いは竈を見ながら、ぽつりと言った。
「しっかし、ゴブリンまで出るようになったか。ハーピーが近づかなくなって、楽になると思ったんだがなあ」
「ゴブリンが出るのは珍しいんですか?」
「珍しいなんてもんじゃねえよ。俺は初めて見たぞ」
「うーん。ニックブレードの北門のほうでゴブリンが出たんですよ。そこから流れてきたのかなぁ」
山羊飼いは竈の火をかき混ぜながら、怪訝そうに眉を寄せた。
「流れてきたっつってもな。だいぶ距離があるぞ」
「そうなんですよねえ……」
コニーは乳粥をひと匙すくって口に運び、匙を咥えたまま少し考え込んだ。




