43.ちょっとした寄り道
ミラ・パーニアは、カウンターで分厚い依頼台帳に完了印を捺した。
谷向こうの山羊飼いが出した依頼――ハーピー除けの設置は、無事に終わったらしい。今朝、山羊飼い本人が支援会に顔を出し、「問題なく仕掛けられていた」と報告していった。
だが、依頼を受けたオウル・ダウングリーン本人は、支援会に姿を見せていない。
最初は気にも留めなかった。あの男のことだ。どこかの酒場や賭場にしけ込んでいるのだろう、と思っていた。
だが、三日過ぎ、四日経っても、オウルは来ない。
パーニアは、小さく眉を寄せた。
オウルは金に執着しないが、物覚えが悪いわけではない。依頼金を受け取り忘れるようなへまをする人間ではない。そろそろ金が底をつく頃合いのはずだ。手持ちが尽きれば、否が応でも次の依頼を探しに窓口へ来るはずだが。
それが、来ない。
「こんにちは、パーニアさん!」
カウンター越しに声をかけられ、パーニアは顔を上げた。
そこに立っていたのは、コニー・ヘイスローとA.P.ジェムだった。二人とも、冒険者ギルドが交付した革札を首から下げている。コニーは赤等級、ジェムは橙等級だ。
「オウルさん、もう戻ってますか?」
コニーが尋ねる。彼女はオウルにお土産話を聞かせてもらうのだと言って、仕事のついでにちょくちょく窓口へ確認に来ていた。
「まだですね」と、パーニアは短く答えた。
コニーが心配そうにつぶやく。
「そうですか……。もう何日も経ってますよね。怪我でもしたのかな」
コニーの隣で、ジェムが杖をぎゅっと握り直した。
彼は何も言わなかった。《知識》の神官見習いなら、ハーピーの歌がどういうものか知っているのかもしれない。少なくとも、コニーのように「怪我したのかも」と呑気に考えている顔ではなかった。
「うーん、様子を見に行ったほうがいいでしょうか? 戦闘はさすがにできませんけど、たとえば、山羊飼いさんに聞くとか……」
「やめとけ」
横から、低く苛立った声が飛んできた。
パーニアのカウンターの端、隣の窓口で依頼の精算を待っていた男だった。使い込まれた革鎧に、傷の多い丸盾。ちょうどカウンター越しに革札を返却されるところだった。その色は、オウルと同じ緑等級。
トッド・モスバンクだった。
「わあ! お久しぶりです、トッドさん!」
コニーが笑顔で手を振る。ジェムもぺこりと頭を下げた。
「お前が見に行っても死体が増えるだけだ」
トッドがそう言ったとき、支援会の入口が乱暴に開いた。
「誰か、ちょっと来てくれ!」
飛び込んできたのは、港の荷役場で顔を見る男だった。息を切らし、帽子を片手で握り潰している。
「荷役場で賭けが始まっちまったんだ!」
「賭博関係のいざこざは、支援会の扱う苦情ではありません」苦情受付のカウンターで、職員が手慣れたようすで対応する。
「そんなこと言ったってよお! 出たきり戻らねえ船はどれかって言いやがるんだ!」
苦情受付の職員が、気圧されたように黙り込んだ。
「……船乗り相手に、そんな縁起でもないことを?」
パーニアも同感だった。とんだ自殺志願者もいたものだ。
「最初は若いのが、あの船は戻らねえんじゃないか? って馬鹿なことを言っただけなんだよ! したらさ、そこにいた男が『じゃあ張ろうぜ』って言い出してよお……」
しかしその話を横で聞きながら、パーニアは嫌な予感に駆られた。
迂闊な軽口を、その場で賭けに変えた男。
まさか……。
「それで船乗りどもが黙ってるわけねえだろ!? 今にも殴り合いになりそうだ! もうなってるかもしれねえ!」
殴り合い、と聞いて、苦情受付の職員が、ちらりとパーニアを見た。
荒事を止められる職員は限られる。――たとえば、ミラ・パーニアとか。
パーニアは深々とため息を吐いて、立ち上がった。
「わたしが行きます」
荷役場は、すでに殴り合いになっていた。
樽が転がり、船乗りや荷役が互いの胸ぐらをつかんでいる。
殺気立ったその中心で、ただ一人、笑っている男がいた。
誰かを殴ろうともせず、飛んできた拳を半歩で避ける。拳を振った男は勢い余って、別の男へぶつかった。それを見て、楽しそうに目を細めている。
パーニアを見て、男は軽く手を挙げた。
「よっ、ミラ。ちょっと遅かったな。すでにご覧のありさまだ」
「……また、あなたですか。オウル・ダウングリーン」
パーニアは、心の底からそう言った。




