42.ハーピー除けの設置
オウルは、谷の突き当たりへ辿り着いた。
川の音が、くぐもった響きに変わる。谷底を流れていた川の上に、岩壁から崩れ落ちた大岩が覆いかぶさっていた。水はその下をくぐり、道は大岩の上を渡るようにして岩壁沿いへ続いている。人が架けた橋ではない。崩れ落ちた大岩の下を、川が長い時間をかけて削り抜いたものだ。
曲がり角の奥、風がまっすぐに吹き抜ける位置には、崩れかけた石の祠と、大きくせり出した岩棚があった。
道の端には白く乾いた糞が落ち、岩の角にはこすりつけられた山羊の毛が引っかかっている。少し先の岩肌には、硬い爪でえぐったような擦れ跡があり、その下には小動物の骨と、古く汚れた長い羽根が散らばっていた。
ここから先は、ハーピーの生活圏だ。
ハーピーは歌って獲物をおびき寄せる。歌を聞いた者はいそいそとハーピーのもとへ近づいて、そのまま腹を裂かれる。
耳を塞いだところで、歌を完全に防げるわけではない。周囲の音が拾えなくなったら、ハーピーの羽音に気づかないまま、歌を聞かされるまでもなく背中から奇襲されることだってある。そっちのほうがよほど間抜けだ。
だから、耳栓は持ってこなかった。どうせまともに聞けば終わりだ。
オウルは肩から袋を下ろし、手近な岩壁のくぼみへ目を向けた。
設置場所は三つ。
一つ目。いまオウルがいる地点――崖道へ入る手前に鳴子を張る。
二つ目。風が流れる岩の割れ目に忌避剤を突っ込む。なるべく高い位置に、杭を打って固定する。
三つ目。崩れた祠へ続く曲がり角の手前にも忌避剤を置く。この地点に置けたら、ハーピーはさらに奥へ逃げるだろうというのが山羊飼いの見立てだった。
オウルはまず鳴子を取り出し、崖道の入り口付近にある岩の突起を利用して紐を張った。山羊が通れば引っかかり、人間なら気づいて跨げる高さだ。軽く紐を弾いて、からからと乾いた音が鳴るのを確認する。
――まず、一つ。
二つ目の仕掛けは、さらに進んだ崖道に置く。
道はぐんと細くなり、片足がやっと乗るくらいだ。オウルは不安定な体勢で忌避剤を岩の割れ目に押し当て、そこに鉄杭をあてて手頃な石で打ち込んだ。
ガキン、と硬い音が岩肌に響いた。
すぐ上で、重い羽音がして、岩棚の縁に何かが降り立った。
腐ったような生臭いような臭いが吹き下りてくる。
オウルが見上げると、そこには人の女に似た上半身に、鳥の脚、汚れた翼をもつ魔物が一匹。風にあおられた長髪の下で、大きく開いた口が、にたにた笑っているように見えた。
ハーピーだ。
本来はここまで近寄らないはずのハーピーが、よりにもよって今、足場の悪い場所で。
最悪の引きだ。
こんな状況だというのに、オウルは苦笑していた。
石と杭を握ったままぴたりと動きを止める。
ハーピーが喉を震わせると、か細く声が漏れた。
それだけで、ぐらりと意識が揺れ、持っていかれそうになる。オウルのいる場所は風下で、声も届きやすい。手応えを感じてか、ハーピーはますます岩棚から身を乗り出してくる――
谷を挟んだ向かいの斜面では、山羊飼いが不安げに犬笛に指をかけている。犬は姿勢を低くして臨戦態勢を取っている。
笛は鳴らない。こちらにやってくるようすもない。
それでいい、とオウルは思う。犬笛でハーピーが向こうに気づけば、山羊飼いも、いま放牧している山羊もまとめて食われかねない。損切りするならおれ一人のほうがいい……
……と、オウルは本気でそう考えていた。彼にとっては、卓で損切りを考えるのと同じことだった。失うなら、少ないほうがいい。迷うところではない。
オウルは歯を食いしばり、右手で石を握り直した。
声は出せないし、この状況で武器を構えても意味がない。たとえ殺せたとしても、依頼は失敗だ。――万策尽きたら殺すつもりだが、それは本当に最後の手段だ。
片足がやっと乗る細道で、オウルは左手で鉄杭を握ったまま、右足の裏を石壁に押し付ける。そして、石を握り込む右手を振りかぶった。
投げる。
ハーピーに当てるつもりはなかった。岩棚の上、ハーピーの爪のあたりを狙う。
石は狙いどおりに岩棚を叩き、音に反応したハーピーの声が止まった。
その隙にオウルは火口箱を取り出し、忌避剤に仕込んでおいた火口へ火を移した。
苦い煙が風に乗って吹き上がると、ハーピーは途端に顔をしかめて後退った。翼を軽く広げて、爪でがりがりと岩を掻く。忌避剤のにおいがよほどお気に召さないらしい。
確かにひどい臭いだ。あのハーピーにも負けていない。
……ハーピーは羽音を響かせ、風の流れに乗って祠の方へ逃げていった。
オウルは首を振って、ハーピーの声の残響を頭から追い出した。
――二つ。
いや、それよりも……。
オウルはすぐさま、ハーピーが逃げた先を目で追う。
本来の三つ目は、最後の曲がり角の手前に置く予定だった。だが、あの岩棚から出てきたハーピーは、祠の石垣の陰へ戻っていった。風もそちらへ抜けている。
なら、ここらで賭けてみよう。
オウルは静かに息を吐き、最後の仕掛けを持って踏み込んだ。
指定の場所を越えて、さらに奥へ。
ハーピーが逃げて行った先を追うように、崩れた祠の石垣の陰へ回り込み、そこに最後の忌避剤を置き、火を点ける。
――これで、三つ。
オウルは笑った。賭けは勝ちだ。
最後の忌避剤から煙が上がるのを確認してから、オウルは素早く身を翻す。そして、満面の笑みを浮かべながらその場を離れた。




