39.特殊な依頼条件
A.P.ジェムは、《知識》の神を祀る本堂で育った孤児だった。
字を覚えるのは誰よりも早かった。椅子に長く座ることもできた。この両方がそろっている孤児はそうおらず、彼は幼いうちから重宝がられ、早々に写字室へと回された。
ジェムは毎日、古い皮紙と饐えたインクの匂いにまみれながら文字を書いた。
特に書くことが多かったのは、死亡記録だ。
それは子供に任せてもよかった。――死因をちょっと書き間違えた程度で困ることは、あまりないから。
記録を残すことは、《知識》の神に仕える者として不可欠な仕事だ。彼が毎日のように書いていたのは、死者の名前と、その理由。
こうなる前に、何かできることはないのか。
どうにかして、倒れた者のそばへ行けないものか。
自分は神官として、神に〈奇跡〉を請うという恩寵を賜った。この奇跡があれば、この人たちの名前は、こんなふうに載らなかったのではないか。
そうして冒険者ギルドの登録査定試験に参加し、黒晶山の坑道へ入ったのだった。
現場は、本堂の教え通りには進まなかった。
怪我人は泥と汚水にまみれている。清潔な寝台はおろか、道具すらない。
何より、自分にできることが少ない。ジェムが使える神術の回数は限られているし、怪我人に近づいて治療しようと前に出れば、自分が殺されてしまいかねない。
〈奇跡〉を請うのは重要だ。多く願えれば、それだけ多く救える。
でも、それだけでは、だめだ。自分の不足は明らかで、自分の役割を探さなければならない。
だからジェムは、橙等級の革札をもらった後で、用水路の奥にある古い礼拝堂へ足を運んだのだった。
N.C.エスのやり方は、本堂の基準から見れば、明らかに異端だった。
相場を無視して高価な薬草を使い、寄進すら請わず。
それでも、エスは怪我人の身体を直接見ている。薬草の効き目をその目で確かめ、ありあわせの道具で生かす手立てを持っている。
ジェムにはそれが必要だった。
ジェムは、両手に乾燥した薬草の束を抱え直した。
礼拝堂の中は、土と発酵の臭い、それに薬草の強い青臭さが充満している。
オウルは壁際の竈の前にしゃがみ込み、木の棒で火をつついていた。小鍋の中身が吹きこぼれないよう、退屈そうにあくびを噛み殺しながらも、火加減はきちんと見ている。
オウルは小鍋から視線を外し、ジェムを見た。
「おまえ、《知識》の本堂にいなくていいのか?」
「その……。許可はもらってます」
うまく返答できずに口ごもるジェムに、オウルはそれ以上追及しなかった。
「ま、あいつの薬は効くもんな」
そう言って、オウルは何か思い出したように眉を寄せたかと思うと、ひどく嫌そうな顔をした。
ジェムが首を傾げたそのとき、礼拝堂の傾いた木戸が叩かれた。
返事も待たずに扉が開き、日に焼けた中年の男が勝手知ったる様子で入ってくる。
「エスさん、いるかい?」
「いるよぉ。いらっしゃい、山羊飼いさん」
「谷向こうでまた何か出たかな」とオウルはつぶやいて、また火加減に目を戻す。どうやら顔見知りらしかった。
祭壇の奥から顔を出したエスに、山羊飼いは慣れた様子で用件を切り出した。
「いつもの苦い煙草と、とにかく嫌な匂いのする草を束で見繕ってくれねえか」
「忌避剤?」
「そう、ハーピー避けにしたい。崖道に居つきやがってな」
エスは「了解、了解」とうなずき、棚から乾燥した草の束や小瓶を取り出し始めた。
「ものすご~く苦いから、燃やすときは風向きに気をつけてね」
ジェムは、少し戸惑った。エスの手元に置かれていく草や小瓶は、治療用ではない。魔物を不快にさせる道具であり、人間相手に薬になるというわけでもない。エスはにこにこと作業を続けている。
「おい、あんた。崖道に仕掛けると言ったな」
横から割り込んだのは、腕を組んで立っていたイチロクだった。
「ああ、鳴子と苦煙袋を仕掛ける」
「杭は? 岩肌に打つつもりなら現物を見せろ」
山羊飼いが背嚢から鉄の杭を取り出すと、イチロクはそれをひったくるように奪い取った。
「岩を割る気か? 先を研ぎ直してやるから、そこに置いておけ」
「そ、そりゃ助かるが……」
山羊飼いは圧倒されたように頷き、それから竈の前に座っているオウルに目を留めた。
「あれ! あんた、オウルじゃねえか? おお、ちょうどよかった!」
「ん?」オウルが火から目を上げる。
「オウル、この依頼を受けてくれよ」
「そりゃ内容による。つまんねえなら断るぞ」
「そこは安心しろ。あんたのイカれた頭じゃ楽しいに決まってる」
ほとんど貶すような物言いに、ジェムはおそるおそるオウルの顔色を窺ったが、彼はむしろ興味を惹かれたように山羊飼いへと向き直っていた。
山羊飼いは話を続ける。
「崖道の手前に、鳴子と苦煙袋を仕掛けてきてほしいんだ。歌が聞こえる位置まで人が入らないようにしたくてさ」
「ふーん。一人でか?」
「そうだ。ハーピー相手にぞろぞろ連れて行けるか? 感づかれちまうだろ。隠れても無駄だ。足の速いやつがいい」
「受ける」と、オウルは言った。「詳しい話を聞かせろ」
すると山羊飼いは、言いづらそうに頭を掻いた。
「あー……。本当は直接頼みたかったんだがな。最近は危ない仕事を私的に頼みにくくってな。支援会か冒険者ギルドだかに、ちゃんと依頼票を出せって言われるんだよ」
オウルは軽く笑った。
「支援会で受けろってか?」
「一人依頼にすりゃ、あんたしか受けねえだろ」
「いやあ、ソロだけじゃ足りねえよ。支援会にどんだけバカがいると思ってんだ?」
山羊飼いがため息を吐いた。
「じゃあ、なんて書けばいいんだ?」
「単独。同行者なし。見張りもなし。討伐禁止。声を出さずに自衛できる者。――このくらい書け」
うええ、と山羊飼いは顔をしかめる。
ジェムも息を呑んだ。声を出さずに自衛できる者――それでは、自分を含め呪文遣いはほとんど使い物にならない。
「そんな依頼、通るかねえ?」
「ハーピーにちょっかい出して、群れを怒らせるほうが厄介だろ。声を出すなってのも嘘じゃねえし。誰も引き受けなければ条件をゆるめる。『これ以上、山羊を減らせないんです!』とでも言っとけ」
「引き受けるやつはいねえだろうなぁ」
「いねえな」オウルはにやりと笑った。「だからいいんだろ」




