21.混戦 ②
傷治し――いかなる傷をも塞ぐ強い〈奇跡〉を、ジェムは日に何度も請えない。今回の祈りは届くだろう。おそらく次も――だが、その次は?
いま戦っている者は、その数より多い。もし包帯では間に合わない傷の者が出たとき、ジェムにはもう助けられない。
だが、少年の腹を押さえた手の下で、布は血を吸ってどんどん重くなる。
包帯では――
「ごめんなさい! 無理です!」
そう叫び、木の杖を握り直す。
「〈書庫の主よ、かの記述を此処に留め給え〉!」
祈りを口にすると、指の間に淡い金色の光が滲み出した。
光の粒が弓手の胸元へ吸い込まれ、みるみる傷を塞ぐ。その喉がひゅうと動いた。
――祈りは届いた。
「あー。やっちゃったか」
その声は――ジェムの思い違いでなければ、どこか楽しそうだった。
「で、〈傷治し〉はまだ使えるか?」
「……よくて、あと一回、です」
「わかった。次もしっかり選べよ」
*
トッドは盾を構え、時にそのまま盾でゴブリン共を撲殺しながら、オウルとジェムのやり取りを聞いていた。
――ジェムは、隊長命令を破った。
だが、その判断のおかげで、弓手は一命をとりとめた。
弓手の傷は完全に塞がったとはいえ、死にかけた痛みと恐怖でまだ錯乱状態にあるようだ。ジェムは背中をさすって落ち着かせ、コニーはジェムと少年を背で庇いつつ、不安げに片手剣を構え直している。
そんな三人のことなど忘れてしまったかのように、オウルはさっさと前線へ戻っていった。トッドもまた、四番隊の前衛の横に並ぶ。二枚の盾に押し止められ、ゴブリン共の足が止まった。
そこへ四番隊の隊長が側面から剣を振るい、正面の群れを押し返す。
オウルはトッドたち盾役の脇で、ゴブリン共を次々と仕留めていく。死体を踏み越える一匹の喉を裂き、コニーらへ向きを変えた一匹を斬り伏せる。
オウルがまた一匹を始末し、トッドのすぐ横についたとき、トッドは口を開いた。
「やっぱり咎めねえんだな」
オウルは、こちらに背を向けたまま問う。「やっぱり?」
「ジェムだ。お前の命令に逆らっただろ」
オウルは短剣を振って血を払い、肩越しに視線を飛ばす。――弓手のそばに膝をつく見習い神官。視線はすぐゴブリンの群れへ戻ってくる。
「そりゃ、おれ〈命令〉使えねえもん」
命令。相手に一つの行動を強いる神術だ。
「ジェムが自分で選んだことだろ。どうしておれが咎めるんだ?」
「そういう問題じゃねえよ」
は、とオウルが笑った。トッドの脇へ潜り込もうとしたゴブリンの手を、オウルの短剣が下から貫く。落ちた棍棒を蹴り飛ばし、身を屈めた喉を両断する。
「お前の言うことって、いつも難しいよな」
「てめえがイカれてんだ」
オウルは答えない。ただ薄く笑うだけだ。
ジェムは自分で選んだ。弓手は助かった。残りの〈奇跡〉はせいぜい一回。
それで話は終わりだ。
群れの後方にいたゴブリンの一匹が、ぴたりと足を止める。
正面には、トッドと四番隊の前衛が盾を並べている。二枚の盾の隙間から四番隊の隊長の剣が飛び、横へ抜けようとした個体はオウルの短剣に次々と潰されていく。
足元には、同族の死体が折り重なっている。
盾の向こうにいる人間どもは、もう潰れかけの獲物ではない。
一匹が、じり、と後ろへ下がった。
「――押せ!」
四番隊の隊長が叫び、側面から剣を振るう。前列の一匹が肩を裂かれてよろめく。
そこへオウルが踏み込んだ。
よろめいたゴブリンの喉へ短剣を突き入れて、引き抜く。その体が崩れ落ちるより先に、すぐ隣で棍棒を振り上げていた一匹の脇腹へ刃を叩き込む。返す手で、さらに一匹。驚いて身を引こうとしたそいつの手首へ刃を入れ、落ちた棍棒には目もくれず、そのまま喉を裂く。さらに一歩前へ。正面にいたゴブリンの胸を一突き。その顔面を蹴った勢いで短剣を引き抜いた。
ひどく短い間に、四匹が倒れる。
これまでもオウルは十分に速かったが、まるで比べ物にならない。温存していた力を一息に使い切ったような、怒涛の剣さばきだった。
たかが人間一匹。そいつが次々と仲間を殺すのを前に、ゴブリン共は明らかに怯んだ。
倒れた仲間を跨いでまで前へ出る個体はもういなかった。後列の何匹かが背を向け、奥の暗がりへ逃げる。押し合っていた前列も、それに引きずられるように散った。
四番隊の隊長が、逃げる背中を追って踏み出そうとする――
「やめとけよ」
オウルは血のついた短剣を下げ、退散するゴブリンの背中を眺めている。
「〈光〉から外れたら、おれたちが不利だぜ。あんた、夜目が効くのか?」
四番隊の隊長が歯を食いしばる。彼はヒューマンだ。夜目が利くはずもないし、利いたところで単身あの群れに突っ込むのは自殺行為だ。
隊長は剣を握ったまま、踏み出した足を戻した。
正しい判断だった。
オウルが短剣を鞘に納める。
それを目で追っていたトッドは、鞘の下、腿を覆う革当ての色が変わっていることに気づいた。
左脚の革当ては、外側がところどころ裂けていた。その下の布に、黒っぽい染みが広がっている。動き回るたび、傷口から滲んだ血がさらに染みを広げていた。
トッドは眉を寄せる。
「……お前、脚をやられたのか」
問われたオウルは自分の左脚へ目を落とし、ああ、と気の抜けた声を出した。
「問題ねえよ。まだ走れる」
言いながらオウルは腰の水袋を外し、木栓を抜いた。口をつけ、水を喉へ流し込む。
その喉の動きを見た瞬間、トッドは思わず息を詰めた。
こいつは、傷つくのだ。
当たり前だ。脚を切られれば血を流す。走れば喉も渇く。
水がなければ、死ぬ。
わかっていたはずだった。あのときも。
あの日、水が足りなかった。
オウルを置いていったときには。
雨が降ったのは、そのあとだった。




