第4話 この男に、会いにいく
王家の系譜資料を閉じた後も、私はその名を何度も口の中で反芻していた。
——ロイク・ヴァルド。
王族の末席。
辺境の男爵。
だが。
王都に関する記録が、ほとんど存在しない。
社交界への出席なし。
宮廷への召喚履歴なし。
政務参加の形跡もない。
まるで、王都という世界から切り離されているかのようだ。
回帰前の記憶にも、その姿はない。
同じ傍流の王族でも、他の者は違う。
末席であっても、王族としての場には顔を出す。
事実、彼の父である伯爵や兄たちは、宮廷の式典では必ず姿を見せていた。
王族の血を誇示するように。
だが——
ロイク・ヴァルドだけは、例外だった。
建国祭にすら、姿を見せていない。
……あり得ない。
王都を嫌っているのか。
あるいは——来られない理由があるのか。
情報が、少なすぎる。
——だが。
領地の記録だけは、嘘をつかない。
収支は黒字。
人口は減っていない。
治安も崩れていない。
国境地帯で。
特別な資源もなく、後ろ盾もない。
それでも、維持されている。
偶然ではない。
——意図されている。
この男は。
領地を、立て直している。
誰にも知られず。
称賛も求めず。
ただ、淡々と。
……なぜ。
王族の血を引く者が、なぜこんな場所に埋もれている?
資料だけでは足りない。
——会わなければ。
彼は王都に来ない。
召喚にも応じない。
ならば。
こちらが行く。
***
「視察?どうしてそんなことを?」
執務室には、珍しくエドモンドの姿があった。
ルチャーノが、判を得るために強引に連れてきたのだろう。
だが、彼の視線は、机ではなく窓の外へ向いている。
書類は、手つかずのまま積まれていた。
「王妃教育の一環として、地方統治を視察したいのです」
「そんなこと、今やる必要あるのかい?」
興味のなさを隠そうともしない声音。
「それに、仕事はどうするんだ。君がいないと回らないだろう」
「殿下」
ルチャーノが、眼鏡を押し上げながらピシャリと言う。
「それは、本来殿下がなさるべきことでしょう」
「できる者がやればいいんだよ」
エドモンドは肩をすくめて笑った。
「その方が効率がいいだろう?」
当然のような顔で、こちらを見る。
「ねえ、レイナータ」
——以前なら。
ただ頷いていた。
けれど今は。
私は微笑み、静かに答えた。
「ご心配なく。急ぎの案件はすべて片付けてあります。当面、殿下お一人でも支障はございません」
「へえ、全部?」
「はい。殿下に任されていた水路整備の件も、最終確認まで済ませております」
ルチャーノが、わずかに息を呑んだ。
「ああ……そんな話もあったかな」
殿下は、つまらなさそうに、金の髪を指先で弄ぶ。
「そちらの件も含め、殿下に代わり——私が現地を確認して参ります」
「それなら都合がいい」
あっさりと頷く。
「君がやるなら間違いないし、その方が手間も省けるだろう?」
当然のように言い切る。
「全部、任せるよ」
迷いなく、印章を押した。
「僕の代わりに、よろしく頼んだ」
「……承知いたしました、殿下」
——あなたの「代わり」を、この目で確かめて参ります。
***
「これもお願い」
「はい、お嬢様」
ニーナに指示を出した、その時。
廊下の奥から、荒々しい足音が響いた。
次の瞬間、扉が乱暴に開け放たれる。
「どういうことだ!」
雷鳴のような声が室内を震わせる。
使用人たちは一斉に壁際へ退き、頭を下げた。
私は振り返りもせず、淡々と告げる。
「騒々しいですわ。いつも冷静であれとおっしゃっているのに」
「戯言はいい!」
父は数歩で距離を詰め、私を見下ろした。
「視察だと?勝手なことを言い出したそうだな。どういうつもりだ」
「王妃教育の一環として、地方統治を視察したいのです。殿下が任されていた水路整備の件もございますし、ちょうど良いかと」
父は鼻で笑った。
「その程度、わざわざ出向く必要などない。報告を受ければ十分だ。今の時期に、王都を離れる理由など——」
「ございますわ」
静かに遮る。
「明日、出発いたします」
「……何?」
目が見開かれる。
これまで反論したことのない娘が、言葉を遮ったのだ。
室内が静まり返る。
ニーナが、息を詰めたままこちらを見つめていた。
だが、もう引き返すつもりはない。
「明日だと!?馬鹿なことを言うな!そんなもの許さん!」
「許可はすでに頂いております」
私は一枚の書類を差し出した。
そこにはエドモンドの印章が、はっきりと押されている。
顔色が変わる。
冷たい青の瞳が、わずかに揺らいだ。
「取り消せ。今すぐ取り消させろ!……私から殿下に進言する」
「必要ございません。出立は、既に決定しております」
父は息を呑んだ。
「……何を考えている」
その声に滲んでいたのは、怒りではなかった。
理解の及ばぬものを見るような色。
「国のためです」
父の顔が歪む。
「お前は——王妃になるのだぞ」
叱りつけるように言い放つ。
「三大公爵家から王妃を出すのは、この国の定めだ。王妃亡き今、今代の女児はお前一人」
言い聞かせるように、畳みかける。
「お前が生まれた時から、王妃になることは決まっている」
何度も聞かされてきた言葉。
「お前は、そのために育てられてきた」
父の息がわずかに荒くなる。
「それを、分かっていないとは言わせん!」
「……ええ、分かっております」
——誰よりも。
その運命を、一番理解しているのは私だ。
逃げたことも、拒んだこともない。
「だからこそ、行くのです」
***
馬車の窓から見えるのは、王都とはまるで違う荒れた大地。
頭上には、雲ひとつない空。
容赦なく、光が降り注いでいる。
乾いた風が、土を巻き上げた。
砂ばかりで、緑の影すら見当たらない。
その先——
遠くに、小さな集落が見えた。
領都だというのに、田舎の村と変わらない。
栄えているようにも見えない。
――ここにいるのね。
王族の血を引きながら、王都に一度も姿を見せない男。
この荒れた土地で、ただ一人、立っている。
胸の奥で、何かが静かに震えた。
気づかないうちに、手に力が入る。
「……必ず会う」
この国を救えるのが、本当にあなただというのなら。
——逃がさない。
あなたを、王にする。
たとえ、望まなくても。




