第3話 王にする男を見つけた
「レイナータ様、申し訳ございません……。本日も殿下は——」
「ええ、分かっていますわ」
言葉の先を聞くまでもない。
ここはエドモンドの執務室。
だが、本来いるべき主の姿はない。
いるのは、従者のルチャーノと、婚約者である私だけ。
大きな机の上には、手付かずの書類が山のように積まれている。
王妃様が亡くなり、王家の柱が一つ失われたというのに。
殿下は、会議が終わると同時に姿を消した。
——いつものように。
ルチャーノの眼鏡の奥の目に、申し訳なさが滲んでいる。
だが、それ以上は何も言わない。
——何を言っても、殿下は変わらない。
そう分かっている目だった。
それは、宮廷中が知っている。
殿下は、何もなさらない。
進言は、何度もなされた。
私も、ルチャーノも。
だが、変わることはなかった。
やがて誰も何も言わなくなり、それが宮廷の常識になった。
本来なら——
断じて許されることではない。
……だが、今は好都合だ。
私は迷いなく机の前に腰を下ろした。
「本日の書類を」
ルチャーノは黙って束を差し出す。
ここは、王の執務室に次いで、国中の情報が集まる場所。
エドモンドが使わないのなら、私が使えばいい。
王太子の選定は、国王が指名する。
そして——
その座に就くのは、エドモンド。
それが、疑われることのない前提だった。
王の直系は、エドモンド一人。
他に候補など、誰も考えようともしなかった。
——ならば。
一から探す。
この国を託すに値する者を。
まずは、現状の把握。
国庫の状態。
官吏の配置。
軍備と周辺諸国の動向。
各領地の統治状況。
書類を一枚、手に取る。
一枚。
二枚。
三枚。
紙の擦れる音だけが、静まり返った室内に響く。
私は迷いなく、次々と書類をめくっていく。
「……レイナータ様?」
ルチャーノの声が、戸惑いを帯びる。
「そんな速さで……本当に内容を確認できていらっしゃるのですか?」
——当然だ。
「ええ、大丈夫ですわ」
私は微笑み、すぐに視線を書類へ戻す。
指は止まらない。
これくらいの量は、もう身体が覚えている。
積み重ねてきた年数が、違う。
紙をめくる音だけが、規則正しく重なっていく。
ルチャーノの視線が、わずかに険しくなる。
だが、何も言わない。
私は構わず、次の書類へと手を伸ばす。
目に入る数字を、記憶と照らし合わせながら、ふるいにかけていく。
異常はないか。
見落としているものはないか。
淡々と、確認を重ねる。
——そして。
一枚の報告書で、手が止まった。
マレウス侯爵。
海域に接する広大な領地を持ち、塩の利権を握る家。
貴族の中でも、とりわけ発言力が強い。
最後に見た、あの男の姿が蘇る。
——斬首台の上。
あの男は、最後まで表情ひとつ動かさなかった。
王が震え、民が狂乱する中で。
指に嵌めた大ぶりの指輪を、ゆっくりとなぞりながら。
妙に、その仕草だけが焼きついている。
恐ろしいのは、躊躇がないことだ。
不要と判断すれば、切り捨てる。
この時点では、まだ宮廷を牛耳るほどの力は持っていない。
だが。
あの男が本気を出せば——
未熟な王など、いくらでも操れる。
いずれ対峙することになる。
マレウス侯爵個人ではなく、貴族という存在そのものと。
しかし、それは今ではない。
私は思考を断ち切るように、小さくかぶりを振った。
彼のことは、後だ。
今、優先すべきは——
王となる者。
血筋は、条件に過ぎない。
エドモンドが、それを証明している。
必要なのは、国を統べる力。
ただ、それだけ。
***
書類の山を置いた瞬間、ルチャーノが感嘆の声を漏らした。
「王妃様の葬儀で滞っていた分まで……すべて、処理されたのですか」
私は答えず、次の数字へと視線を落とす。
紙の上を、指が滑る。
記憶と、ずれはない。
大きな綻びも、まだ見当たらない。
次の手を考える。
外はどうか。
北と西は同盟圏。
南は海。
残るのは——東。
ガルディア王国。
回帰前、国境では小競り合いが続いていた。
それまで注目されることのなかった小国が、突如として力をつけ始めた。
——そういえば。
私の罪状は、ガルディアに情報を流したこと、だったかしら。
苦く、笑みが漏れた。
——まだ、何も起きていない。
その時。
ふと、記憶の奥に引っかかるものがあった。
あの戦乱の中で、ただ一箇所だけ、最後まで持ち堪えた場所。
小さく、目立たず、価値もない辺境。
それなのに——
崩れなかった。
おかしい。
何かが引っかかる。
私は急いで書類の山を探る。
あった。
東部。
国境沿いの領地。
特産もなく、小さな領地。
どこにでもある、ありふれた報告。
だが。
収支は黒字。
しかも、数年連続。
不作の年でも、収穫量は落ちていない。
周辺領地は、軒並み減収しているのに。
……あり得ない。
国境付近は、ひとたび混乱が起きれば、真っ先に崩れる場所だ。
それでも。
この領地だけは、何事もなかったかのように数字を並べている。
偶然ではない。
——維持されている。
誰かが、意図的に。
「……この領地の資料を、全部」
「え?」
ルチャーノが目を瞬かせる。
「ですが、こんな辺境の報告など——」
「いいから、今すぐ」
有無を言わせない声音に、彼は慌てて一礼した。
「は、はい!」
運ばれてきた書類は、思ったよりも少なかった。
「……以上です」
「これだけ?」
「はい。重要度が低いため、詳細な記録は、ほとんど残されておりません」
私は黙って書類をめくった。
古い記録には、平凡な収支が並んでいる。
だが、数年前から、収穫量がわずかに増えていた。
税収も徐々に上昇。
住民流出は減少。
防衛費は増えていないのに、治安は改善している。
……おかしい。
ひとつではない。
すべてが、同じ方向に動いている。
私は資料を持つ手を止めた。
——誰かがいる。
「……誰?」
視線が領主名に落ちる。
——ロイク・ヴァルド。
聞いたことのない名だった。
王都でも見かけない。
社交界でも耳にしたことがない。
回帰前の記憶を辿っても、姿は浮かばない。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
だが。
この男が領主となった時期から、数字が変わっている。
——ヴァルド……?
その名に、かすかな引っ掛かりが残る。
どこで見た。
少なくとも、顔も声も思い出せない。
——違う。
人ではない。
もっと無機質な、記録の中だ。
思考を辿る。
散らばっていた断片が、ゆっくりと繋がっていく。
確か——
王家の系譜。
まさか……!
椅子が大きく音を立てた。
私は書類を掴んだまま立ち上がる。
「レ、レイナータ様?」
その声に答えず、部屋を飛び出した。
廊下を急ぐ。
人が避ける。
道が開く。
向かうのは、王宮図書館。
重い扉を押し開ける。
「おや、コルヴィス侯爵令嬢——」
「急ぎなの」
「え!?お待ちくださ——」
制止も聞かず、奥へ進む。
最奥の区画。
王家の機密資料が収められた棚。
——あった。
王家の系譜資料を引き抜く。
分厚い紙をめくり、王家の血筋を指で辿る。
第一王位継承者。
第一王子、エドモンド。
——論外。
王の兄弟。
すでに死亡。
その子孫。
女。既婚。幼子。
……王位には届かない。
指先が、さらに下へ滑る。
傍流王族。
ヴァルド家。
そこで、止まった。
思わず、息を呑む。
系譜の末端。
ほとんど埋もれるように、その名は刻まれていた。
未婚。
王家の血を引く男子。
——ロイク・ヴァルド。
心臓が、大きく跳ねた。
「……見つけた」
小さく呟いた瞬間、胸の奥が熱を帯びる。
偶然ではない。
数字。
記録。
血筋。
すべてが、ひとつに繋がる。
——やはり。
この男だ。
思わず、本を握る手に力が籠った。
だが。
ゆっくりと息を吐き、力を抜く。
……まだ早い。
これだけで、決めるわけにはいかない。
もう二度と、選び間違えるわけにはいかないのだから。
会いに行く。
この男が——
国を救うのか、滅ぼすのか。
この目で、確かめる。




