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裏切られた王妃は、王を選ぶ  作者: noemi


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第2話 この国を、彼らに任せるわけにはいかない

王妃の棺に触れた瞬間、指先が冷え切った。


「王妃様……」


返事はない。


もう、どこにもいない。


「レイナータ、前を向きなさい」


「王妃は下を向いて歩くものではありません」


厳しくも温かな声が、蘇る。


どうせ戻るのなら、あなたがいる時に戻りたかった。


——これは、あなたが与えてくださった機会なのですか。


答えは、返ってこない。


白い花に囲まれた棺の中でも、王妃様の威厳は少しも揺らいでいなかった。


その前に立つだけで、背筋が伸びる。


足が、動かない。


冥福を祈る鐘の音が、高い天井へと消えていく。


この音を聞くのは、二度目だ。


それでも、実感が湧かない。


やがて祈りが終わり、大神官が静かに一礼して退席した。


それを合図に、貴族たちが順に聖堂を去っていく。


棺に近づく者は、誰もいない。


それは敬意ではない。


あの方の前では、誰もが言葉を選んだ。


正しさを突きつけられることを、恐れていたからだ。


王でさえも、その例外ではなかった。


今なら分かる。


あの方がいなくなったことで、この国を支えていたものは、消えた。


誰も気づいていなかった。

私でさえも。


すべては、この日から始まっていた。


静かに、崩れ始めていた。


「いつまでそうしているんだい?」


場違いなほど軽い声が、静まり返った聖堂を切り裂いた。


振り返る。


そこに立っていたのは——


陛下。


……違う。


「エドモンド、殿下」


ゆっくりと、膝を折る。


脳裏に焼きついているのは、あの日、最後まで目を逸らし続けていた彼の姿。


それでも今、目の前の青年は——


金の髪を無造作に揺らし、琥珀色の瞳で、退屈そうにこちらを見ていた。


「随分、沈んでいるようだね。母上も長く患っておられたのだし、こうなることは分かっていたはずだろう?」


ざわり、と空気が揺れた。


「どうにもならないことに囚われても仕方ない。そんなところで立ち尽くしていても、時間の無駄だよ」


王妃様の棺の前に落ちた言葉は、あまりにも軽かった。


残っていた貴族たちが、思わず顔を見合わせる。


「殿下、不敬です。王妃様の御前で……」


背後の従者が、眉を顰めながら口を開く。


細縁の眼鏡を押し上げ、視線だけで制するように殿下を見た。


「御前?そうは言っても、母上はもう亡くなっているのだから」


エドモンドは肩をすくめる。


「亡くなった方に、いつまでも気を遣う必要はないだろう」


「殿下」


鋭く、名を呼ぶ。


「はは。ルチャーノは相変わらず堅いな」


悪びれる様子は、まるでない。


王妃様がご存命の間、彼が公の場でこうして軽口を叩くことはなかった。


叱責する者がいたからだ。


だが、今は違う。


「……正直に言えば、やっと息ができる気がするよ」


そう言って、殿下は小さく肩を回した。


「これで、私の好きにできる」


まるで、長く背負っていた荷をようやく下ろしたかのように。


——ああ、駄目だ。


この国が何の上に立っているのか。

王が何を背負うのか。


彼は、何も理解していない。


だから——


この国は、崩れる。


「エドモンド、言葉を慎みなさい」


低く重い声が、聖堂の奥から響いた。


今代の王が姿を現す。


場の空気が張り詰め、残っていた者たちが一斉に頭を垂れた。


私も礼を取る。


「エドモンド。今は喪に服すべき時だ」


「分かっていますよ、陛下」


殿下は気のない返事をする。


王は、わずかに眉を動かした。


それ以上、何も言わない。


ただ、私の方へ視線を向ける。


王子と同じ、琥珀色の瞳がこちらを射抜いた。


「……レイナータ」


名を呼ぶ声は、平静を装っている。


「王妃がいなくなった今、エドモンドを任せられるのは君しかいない」


その目には、隠しきれない不満が、はっきりと滲んでいた。


「王太子の選定まで、あと一年。王妃の代わりとして、彼を支えるのは、君の役目だ」


——この人も、同じだ。


王妃を失った悲しみではない。

国の不安でもない。


ただ——


自分の負担が増えることを、恐れている。


「これまで通りでいい」


王は小さく頷いた。


「任せた」


用件は済んだと言わんばかりに、背を向ける。


棺を一瞥すらせずに。


殿下も、それに続いた。


「レイナータ」


振り返りながら、軽く名を呼ぶ。


「明日の会議、頼んだよ」


本来は、殿下が出るはずのものだ。


だが、その準備も進行も、すべて私が担っている。


それが当然だとでも言うような声音だけを残して、足音は遠ざかっていく。


その音が消えた後、聖堂には——


私と、冷たい棺だけが残された。


王妃様は、何も語らない。


それでも——

あの方の声は、今も残っている。


左手に目を落とす。


そこにあるのは、王妃様が託してくださった指輪。


あの日、この指に、そっとはめられた。


「これは、代々の王妃に受け継がれてきたものです。あなたも、この国に尽くす王妃になりなさい」


指輪に触れたまま、ゆっくりと顔を上げた。


***


「遅い」


屋敷に入った途端、鋭い声が降ってきた。


見上げると、大階段の上から父がこちらを見下ろしている。


自分と同じ色のはずなのに——


その奥にある青い瞳は、氷のように冷たかった。


「こんな時間まで何をしていた」


「王妃様に、最後の別れを——」


「不要だ」


言葉を最後まで言わせなかった。


「死者を悼んで何になる。お前には、もっと優先すべきことがあるはずだ」


思わず、握りしめた手に力が入る。


「王妃がいなくなった今、殿下を支える者が必要だ」


まるで、空いた席に名を当てはめるように、淡々と。


「それが我が家の役目だと、お前も理解しているはずだ。次期王妃となる者が、感傷に浸っていてどうする」


一歩も動かず、ただ見下ろしたまま告げる。


「これからはお前が、貴族たちの手本となる。軽率な振る舞いは許されない」


それだけ言うと、父は興味を失ったように背を向けた。


銀の髪がわずかに揺れ、そのまま階上へと消えていく。


胸の奥の温度が、すう、と引いていく。


怒りでもない。

悲しみでもない。


ただ、何かが静かに切り離されていく。


「旦那様ったら、ひどすぎます!帰ってくるなり怒鳴りつけて……。お嬢様のお気持ちも考えずに!」


背後で、声が弾けた。


振り返ると、栗色の瞳が、階段の上をきつく睨んでいた。


頬は紅く染まり、今にも駆け出しそうに身を乗り出している。


——あの時も。


最後まで、そばにいてくれた人。


「大丈夫ですか、お嬢様……お身体が冷えていらっしゃいます。すぐにお湯をご用意いたしますわ」


言いながら、慌てて上着を肩に掛けてくる。


丁寧に扱おうとしているのに、手つきはどこか落ち着かない。


その必死な様子に、握りしめていた拳から力が抜けた。


「ええ、ありがとう。ニーナ」


私はゆっくりと階段を上る。


見慣れているはずの屋敷が、今はどこか遠い。


磨かれた窓に、自分の姿が映る。


銀の髪。

青い瞳。


静かな視線が、こちらを見返す。


石牢にあった無惨な姿ではない。


——本当に、戻ったのだ。


エドモンド。

国王。

そして父。


今日一日で見たものが、脳裏に並ぶ。


何も変わっていない。


あの人たちは、前と同じだ。


このままでは——国は崩れる。


それが、はっきりと分かった。


彼らに、この国を任せるわけにはいかない。


……何も感じない。


かつては、彼らの一言で、心が揺れたのに。


今は——何もない。


心の中の何かが、きれいに削ぎ落とされている。


もう、彼らに認められる必要はない。


彼らのために生きる私は、あの時、斬首台で死んだ。


私は、国のために生きる。


王妃様が守ろうとしたもののために。


指輪の宝石が、かすかに光る。


——ええ、王妃様。


これがあなたの意志なら、今度こそ道を誤りません。


まずは、王として立てるに足る者を、洗い出す。


王太子の選定まで、あと一年。


もう時間がない。


誰がこの国を託すに値するのか。


一から探す。


そのために——


まずは、情報を集める。


あの男の執務室に集まる、すべての書類から。

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