第1話 支え続けた王妃は処刑される
「……王妃レイナータ。国家反逆罪により、明日処刑する」
そう告げたのは、私が生涯をかけて支えてきた人だった。
——そう……なさるのですね。
冷たい風が、頬を撫でて通り抜ける。
身を覆うものは、罪人用の粗末な衣が一枚だけ。
寝台がひとつ置かれているだけの、石牢。
どれだけの時が経ったか、もう分からない。
それでも私は、背筋を伸ばして座っている。
崩れることは、許されない。
——王妃たるもの、隙を見せてはなりません。
それが、あの方の教えだったから。
「どうしてこうなったんだ……!なぜ私が、こんな決断をしなければならない」
陛下の目は、私を捉えていなかった。
床を彷徨い、苛立ったように逸らされる。
「……何か、言うことはないのか」
「私は……」
かすれた声に、わずかに息が詰まる。
喉が焼けるように痛んだ。
それでも、口を開く。
「私は、何もしておりませんわ」
「まだ言い逃れるつもりか!?確固たる証拠があるんだ!」
彼は従者から書状をひったくり、掲げた。
その手が、わずかに震えている。
怒りか、それとも、焦りか。
けれど私は、ただ静かに口を開いた。
「やっていないことを、やったとは言えません」
かすれた声でも、その言葉だけは揺らがなかった。
「……陛下。それは、誰のご判断ですか」
「——っ、もういい!」
叫び声が石牢に反響する。
「その言い方は何だ!まるで私が、何も分かっていないとでも言いたいのか!?」
背を向けたまま、兵に告げる。
「明日、公開処刑だ!」
「し、しかし陛下!王妃様はこれまで、国のために——」
「うるさい!!」
怒号が飛ぶ。
「王である私に、口答えするな!」
足音は、振り返ることなく遠ざかっていく。
私は、その背から目を逸らさなかった。
王。
あなたは王。
それを支えるのが、私の役目だった。
「王を支えること。それが王妃の務め。王は国と民のためにある。その王を支え、国を守るのが王妃です」
——はい、王妃様。
迷ったことなど、一度もなかった。
陛下が政務を放り出しても、国を止めるわけにはいかなかった。
王が赴かぬなら、私が行けばいい。
煌びやかな王都。
そのすぐ隣に広がる、貧民街。
王が最も目を向けるべき場所。
それでも彼は、一度も訪れたことがない。
崩れかけた壁にもたれて、子どもが座り込んでいた。
痩せ細った腕。
焦点の合わない瞳。
差し出されたのは、ひび割れた器。
「……お腹、すいた」
その声に、胸の奥が軋んだ。
すぐに調べさせた。
穀物はある。
塩もある。
だが、民の手には届いていなかった。
限られた者たちが、独占していたからだ。
だから私は、それを正した。
穀物も、塩も。
貴族たちの利権に、手を入れた。
それが何を意味するか、分かっていなかったわけではない。
それでも、止めなかった。
やがて、市場に穀物の袋が積み上がる。
子どもは、パンを抱えて笑っていた。
——それでいいと、思った。
どれだけの恨みを買おうと、その笑顔のためなら、押し通すと決めた。
……だから。
狙われた。
気づけば、周りは敵ばかりだった。
それでも構わないと、思っていた。
国のため。
王に代わり、正しいことをしているのだから。
なのに。
支え続けてきたはずの王は、貴族たちの言葉に流されるまま、私を切り捨てた。
動かぬ王の代わりに。
何も見ない王の代わりに。
すべてを尽くしてきたのに。
王を支えることも、国を守ることもできずに。
——すべてが、ここで終わる。
重い音が、思考を断ち切った。
ギィ……と石を削るような音を立てて、扉が閉じていく。
その向こうに、金の髪が揺れた。
この国の王。
——私のすべてを捧げた人。
彼は最後まで、こちらを見なかった。
「……これでいい」
誰に聞かせるでもなく、言葉がこぼれる。
「仕方のないことだ……私は、間違っていない」
扉が閉じる。
錠が落ちる音が、短く響いた。
***
王宮前の広場には、すでに大勢の民が集まっていた。
押し殺したようなざわめきが、広場を満たしている。
手首を縛られ、兵に挟まれて歩み出る。
「王妃様が……?」
「まさか……」
ざわめきが揺れる。
だが。
「罪人だ!騙されるな!」
一人の叫びが、空気を塗り替えた。
「売国奴め!」
「国を滅ぼす気だったんだろう!」
罵声が、一気に広がる。
カツン。
足元に、小さな石が転がってきた。
ただの欠片。
それでも、一歩、足が鈍る。
「……っ」
——私は、この国のために……。
視界が揺れる。
それでも、足は止めない。
広場の中央。
斬首台の前へ。
そこには、王と——
マレウス侯爵が立っていた。
侯爵は、ふくよかな頬を揺らしながら、一歩前へ出た。
まるで慈悲深い守護者のような顔で、民を見渡す。
「皆の怒りはもっともです」
朗々とした声が響く。
「だが、この国のため。陛下は苦渋の決断を下されたのです。法は、誰の上にも等しくあらねばならない」
さきほどまで渦巻いていた混乱が、ひとつの方向へと収束していく。
「そうだ!」
「王妃だって特別扱いは許されない!」
「罪人を罰しろ!」
侯爵の唇が、わずかに吊り上がる。
——今この場で、民は王ではなく、この男の言葉に従っている。
「さあ、陛下」
侯爵が一歩退き、王に道を譲る。
陛下は、震える手を握りしめながら前に出た。
「レイナータ・アルジェンタ王妃を——」
音が、消える。
「国家反逆罪により、処刑する!」
つんざくような歓声が巻き起こる。
その様子に、王の肩から力が抜けた。
視線がわずかに流れ、マレウス侯爵へ向く。
侯爵は、ただ静かに頷いた。
「罪人は、国の機密をガルディア王国へ流し、国境の混乱を招いた。その罪は重い」
読み上げられる罪状は、どれも私の知らないものだった。
侯爵へ視線を向ける。
彼は素知らぬ顔で、指に嵌めた大ぶりの指輪を、ゆっくりとなぞった。
——随分と周到ね。
「アルジェンタ国王、エドモンドの名のもとに、刑を執行する」
陛下は、最後まで私を見ようとはしなかった。
「罪人を斬首台へ」
兵が腕を取った。
「……自分で歩けます」
その言葉に、兵の手が止まる。
「逃げませんわ」
やがて、ゆっくりと手が離された。
私はそのまま、真っ直ぐ歩き出す。
石畳に、足音だけが響く。
王の前を通り過ぎようとした、その時。
「……何か、言うことはないのか」
声が落ちた。
「……最後まで、認めないつもりか」
衣擦れの音が、小さく鳴る。
「その強情なところが——私を、どれだけ苦しめているか。……少しは、私の立場を考えたらどうだ」
私は何も言わずに、ただ足を進めた。
背後で呼び止める気配がするも、声にはならない。
斬首台の前で、足を止める。
群衆の顔が、はっきりと見えた。
怒り。
憎悪。
軽蔑。
そして、奇妙な熱狂。
まるで、すべての恨みをぶつけるかのように、視線が突き刺さる。
その奥で、小さく笑う声が混じった。
扇の陰で口元を隠し、目だけで愉しむ貴族たち。
侯爵は、表情ひとつ動かさず、こちらを見下ろしている。
すべてが予定通りだとでもいうかのように。
その隣で、王は最後までこちらを見ようとはしなかった。
誰一人として、私を庇おうとする者はいない。
これが、現実。
——ああ。
王妃様。
あなたの教えに従い、この国のために生きてきたのに。
支え続けてきたはずなのに。
どうして。
間違っていたのか。
……違う。
王妃様は、常に正しかった。
ならば——
視線が、王へと向く。
そうだ。
——支えるべき王を、間違えたのだ。
その時、すべてが繋がった。
民が私を見捨てたのではない。
王が私を捨てたのでもない。
最初から、間違っていた。
気づくのが、遅すぎた。
支えるべき王を。
もっと早く、見限っていれば。
この国は、まだ救えたかもしれないのに。
胸の奥が軋む。
どうして、今なの。
すべてを失ってからでは、遅い。
もう、取り戻せない。
処刑人が剣を掲げる。
空が、やけに遠く見えた。
嫌だ。
こんな終わり方は、認めない。
……違う。
終わらせてしまったのは、私だ。
王妃様が守り続けたこの国を、崩したのは——私。
戻して。
もう一度だけ。
今度は、間違えない。
今度は——
支えるだけでは終わらない。
選び直す。
王を。
必ず。
——この手で。
振り下ろされる刃。
その瞬間、左手の指輪が、かすかに光った。
***
「——はっ!!」
喉を引き裂くような息とともに、身体が跳ね起きた。
肺が焼ける。
胸の奥で、鼓動が狂ったように暴れている。
柔らかい。
最初に触れたのは、沈み込む寝台だった。
肌にまとわりつく、温かな掛布。
斬首台に吹きつけていた、あの冷たい風は——ない。
震える手を持ち上げ、首に触れる。
ある。
血は出ていない。
傷も、ない。
手首を動かす。
軽い。
縄の跡もない。
指を曲げる。
動く。
生きている。
——現実だ。
扉を叩く音が、響いた。
「……っ」
反射的に、声が漏れる。
扉が開き、侍女のニーナが飛び込んできた。
久しぶりに見る彼女の顔は、ひどく青ざめている。
「お嬢様……王妃様が……」
胸の奥を、何かが鋭く貫いた。
「王妃様が、昨夜——お亡くなりになりました」
言葉を理解するまで、一拍。
——あの日だ。
視線の先にあったのは、自分の手。
細く、若い。
震え方さえ、さっきまでとは違う。
寝台の脇の鏡に、姿が映る。
そこにいたのは——
銀の髪を揺らす、まだ「王妃」になる前の、私。
「……そんな……」
震えた声がこぼれる。
戻っている。
すべてが、始まる前に。
吸い寄せられるように、左手を見る。
指輪。
王妃様が私に託した、ただ一つの形見。
宝石が、淡く光を宿していた。
以前とは違う。
内側から、確かな熱を帯びている。
「……王妃様」
胸の奥が、締め付けられる。
——これは、あなたのご意志ですか。
瞼を閉じる。
斬首台。
民衆の怒号。
扇の陰で笑う貴族たち。
無表情に見下ろす侯爵。
振り下ろされる刃。
目を逸らす王の顔。
すべてが、焼きつくように蘇る。
だが。
耳の奥に残っていたのは、あの方の言葉だった。
「王を支えなさい」
ゆっくりと目を開く。
そこにあったのは、もう迷いではない。
「……はい、王妃様。支えますわ——今度は、正しく」
寝台から立ち上がる。
裸足の足裏に、冷たい床の感触。
生きている。
ここは斬首台ではない。
やり直せる。
左手の指輪を、強く握りしめた。
「もう二度と、間違えない」
支えるだけでは、足りなかった。
王は——
私が選ぶ。
その座に、相応しい者を。




