第19話 動き出した関係
あの時も、彼女は笑っていた。
「まあ……レイナータ様はお忙しいですものね」
扇を軽く持ち上げ、口元を隠す。
「わたくしたちのような者が、お時間をいただくのも、申し訳ないですわ」
軽く零された一言。
それだけで——
視線が、変わった。
囁きが、波のように広がる。
「いつも陛下をお一人にして」
「たまにいらしても、同じような装いばかり」
「王妃ともあろう方が、あれでは……」
「お話ししても、どこか冷たいのよ」
「まるで、見下されているようで」
「我々のことなど、構いはしないのだろう」
声が、重なっていく。
堰を切ったように。
一つこぼれれば、もう止まらない。
誰かの言葉が、別の誰かの確信になる。
向けられる視線は、もう隠そうともしない。
拒絶。
そして、明確な敵意。
やがて、誰も、近づかなくなった。
それでも。
気にする必要はないと、思っていた。
好かれるために、動いているわけではないのだから。
——その結果が、あれだ。
斬首台の前。
群衆の先。
扇の陰で、愉しむように眺める貴族たち。
その中心で、彼女は確かに笑っていた。
瞬きを一つ。
目の前には、煌びやかな夜会の会場が広がっている。
貴族たちの賑やかな話し声。
——ここは、斬首台ではない。
それでも。
目の前には、同じ笑みを浮かべた彼女がいた。
——今度は、好きにはさせない。
「ごきげんよう、オルランド侯爵夫人」
「まあ、ごきげんよう。コルヴィス嬢。……珍しいですわね。こうした場にいらっしゃるのは」
蜂蜜色の髪を耳にかけ、ゆるやかに首を傾げる。
その仕草ひとつで、自然と視線を引き寄せる。
「ええ。これまでは、王妃教育に時間を割いておりましたけれど——それでは足りないと、ようやく気づきましたの」
軽く微笑む。
「こういう場こそ、見ておくべきなのだと」
「……まあ」
夫人の目が、わずかに細められる。
「随分と、物の見方が変わられましたのね」
「そうでしょうか?」
やわらかく首を傾げる。
「ただ……少し視野が狭かったのだと、思い知っただけですわ」
夫人の視線が、探るような気配を帯びる。
それを受け止めたまま、微笑みを保つ。
話題を変えるように、視線をそのままドレスへと落とした。
「そのドレス……とても素敵ですわね。発色が、他とは違いますわ」
「……ええ。新しく仕立てましたの。最近は、色味がはっきりしたものが、流行るようになりましたわね」
「デザインも洗練されていますわ。すっきりとしていながら優美で——夫人の美しさが際立ちますわ」
「ふふ、ありがとうございます。シンプルな方が、この色を活かせますもの」
「……確かに」
視線をなぞる。
無理なく身体の線を拾う仕立て。
鮮やかな橙が、肌を一段明るく見せている。
「今後は、こうしたものが主流になるかもしれませんわね」
「さあ、どうかしら?」
「夫人の装いを見れば、皆、真似したくなりますもの」
「まあ。お上手ですこと」
口元の笑みが、わずかに深まる。
「常に先を行かれている方から学べるのは、ありがたいことですわ」
「ふふ、大袈裟ですわね」
「まあ、本心ですわ」
間を置かず、続ける。
「工房も、忙しくなりそうですわね」
「ええ。ただ——染料が特殊で、生地が不足するかもしれませんの」
「……西の領、でしたかしら」
何気なく口にする。
「ええ。あちらは近頃、繊維業に力を入れておりますから」
夫人は、さらりと答えた。
「昨年は、天候に恵まれなかったと伺いましたが」
「その影響もあり、流通は制限されているようですの」
「なるほど。では——限られた方のみ、ということですのね」
「そういうことになりますわね」
夫人は、ゆっくりと扇を閉じた。
「ご縁があれば、手に入ることもありますけれど」
そのまま、こちらの出方を伺うように見つめる。
——試されている。
ここで食いつけば、終わりだ。
「……さすがですわ」
私は穏やかに微笑んだ。
「社交界の花と謳われるご夫人の人脈は、やはり違いますわね」
わずかに顎を引く。
「今後とも、いろいろと教えていただけると嬉しいですわ」
ぴたり、と。
扇が止まる。
そのまま、静かに見据えられる。
「……コルヴィス嬢」
夫人が口を開きかけた、その瞬間——
甲高い音が、会場に響いた。
視線が、一斉にそちらへ流れる。
床に転がるグラス。
飛び散った赤い雫。
その中心で、男が狼狽えていた。
「……っ、す、すみません……!」
手を伸ばす。
だが、拾いきれず、さらに広げる。
「あの方、また……」
夫人が、わずかに眉を顰めた。
「ご存知なのですか?」
「ええ。もう何度目になるかしら。以前も同じことをなさっていたわ」
男は給仕に頭を下げる。
だが、誰も手を貸さない。
「品位が足りませんわね」
扇が、わずかに揺れる。
「よくあれで、官吏に収まっていられるものだわ」
「まあ……宮廷にお勤めの方なのですね」
視線を外さず、返す。
「ロッシ伯爵家の四男ですって」
興味なさげに続ける。
「身を立てなければならない立場なのでしょうけれど」
——なるほど。
立ち尽くす男。
誰も近づこうとはしない。
その中へ——
ひとりの男が、迷いなく歩み出た。
その見慣れた背中に、思わず口元が緩む。
「……そうですか」
***
——くそっ。
奥歯を噛み締める。
視線だけが、じわじわとまとわりつく。
誰も来ない。
だが、見ていないわけでもない。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
煌びやかな料理に、惜しげもなく注がれる酒。
その光景を、無意識に睨みつける。
——こいつら。
自分たちが口にしているものが、どこから来たのか。
考えたこともない顔だ。
手間も、時間も。
知る気すらない。
ただ笑って、消費して、それで終わりだ。
「……」
視界に入らないよう、視線を逸らす。
あいつは——まだ戻らない。
人の波の向こうに消えて、姿が見えない。
仕方なく、壁際に身を寄せる。
——場違いだ。
そう思いながら、立ち尽くしていると。
「私が、この国の王にする男です」
あの言葉が、頭の奥で響いた。
——王?
思わず、眉を寄せる。
何か企みがあるのは、分かっていた。
あんな辺境まで来る以上、何もないはずがない。
だが。
まさか、目的が自分だとは思っていなかった。
「……」
息を吐く。
振り回されている。
そう思うと、腹が立つ。
何もできず、あいつの言葉に乗るしかない自分にも。
気づけば、拳に力が入っていた。
その時。
「あ、す、すみません……!」
人混みの中を、慌てて進む男が目に入る。
ぶつかり、よろめき、必死に頭を下げている。
——次の瞬間。
すれ違いざま、足が引っ掛けられた。
「うわっ!」
男の体が前のめりに崩れる。
ガシャーン、とグラスが割れた。
赤い液体が、床に広がる。
「……」
空気が、一瞬で冷えた。
笑いを押し殺す気配。
見下ろす視線。
足を引っかけた奴は、もういない。
「す、すみません……すみません……」
男は、それを繰り返すだけ。
誰も、動かない。
その光景に、胸の奥がざわついた。
気づけば、足が動いていた。
「……おい、いや……失礼」
男が顔を上げる。
懐から布を取り出し、差し出した。
「袖が汚れています」
「あ、あ……ありがとうございます……!」
周囲の視線が、さらに集まる。
「……ここでは目立つ。こちらへ」
「え……?」
返事を待たず、腕を取る。
そのまま、テラスへ。
外に出ると、冷たい風が頬を打った。
喧騒が遠のく。
まとわりついていた視線が、切れる。
ようやく、肩の力が抜けた。
「……あの」
戸惑った声に、我に返る。
「……あ、失礼」
手を離す。
「いえ、とんでもない。こちらこそ、ご親切にありがとうございます」
男は、勢いよく頭を下げた。
灰がかった髪が、さらりと揺れる。
「……あ、申し遅れました。ロッシ伯爵家の四男、トマスと申します」
顔を上げる。
気の良さそうな笑みが浮かぶ。
その笑みに、なんだかこちらの力も抜ける。
「……ロイク・ヴァルドだ」
短く返す。
「ヴァルド……?もしかして——」
淡い灰色の瞳が見開かれる。
「ヴァルド男爵ですか?ガルディアとの境の……」
「ああ、よく知ってるな……いや、知っていますね」
「もちろんです!あ、そのままの口調で大丈夫です。僕など、ただの四男ですので」
あっけらかんと笑いながら、トマスは続ける。
「官吏をしていると……嫌でも覚えてしまって」
言葉を探すように、視線を落とす。
「各地からの申請や報告を扱うこともありますし……地理くらい分かっていないと、役に立てませんから」
「……宮廷に勤めてるのか?」
「はい。末席ですが……なんとか入りました」
小さく笑う。
「でも僕なんて、まだまだで。今日も、あの通りですし……」
指先が、わずかに強張っている。
「……今日みたいなの、よくあるのか?」
トマスは一瞬だけ目を瞬かせ、困ったように眉を下げた。
「ええ、僕がドジなばかりに——」
「違う」
思わず遮る。
「わざと、だろう?」
「……っ」
トマスは息を詰めた。
「……気づいて、いらっしゃったんですね」
視線を落とす。
「でも、僕が悪いんです。頼りないので……」
「違うだろ」
強く、遮る。
「悪いのは、やった方だ」
トマスは、しばらく黙り込んだ。
「……なんで、庇うんだ?」
「別に庇ってるつもりはありません」
視線を落としたまま、答える。
「ただ……言っても、変わりませんから」
ぽつりと漏らす。
「こういうのは、いつものことなんです。僕が何か言ったところで……」
苦く笑う。
「強い方の言い分が、通りますから」
「……」
一瞬、言葉が出なかった。
それでも——
「あんたは悪くねえ。見てたからわかる」
「……っ」
トマスの目が、見開かれる
言葉を探すように口を開いた、その時。
「——ここにいたのね」
振り返る。
テラスの入口に、あいつ——レイナータが立っていた。
夜の光を背に、静かにこちらを見ている。
「遅え……。どこ行ってやがった」
「ごめんなさいね。ちゃんと待っててえらいわ」
「……馬鹿にしてんのか?」
「いいえ」
わずかに首を傾げる。
「そちらの方は?」
視線が、トマスへ移る。
「コ、コルヴィス公爵令嬢……!?」
肩が跳ねる。
慌てて背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「お、お初にお目にかかります……!ロッシ伯爵家の四男、トマスと申します」
「レイナータ・コルヴィスよ」
穏やかに名乗る。
「お邪魔してしまったかしら?」
「と、とんでもございません……!」
顔を上げきれないまま、言葉がこぼれる。
「ヴァルド男爵には、大変親切にしていただいて……」
「あら、随分仲良くなったのね」
くすりと笑う。
その視線に、舌打ちを飲み込み、顔を逸らした。
「ふふ、用事も終わったし——帰りましょうか」
「……もういいのか?」
「ええ。やるべきことは終わったわ。今日のところは、ね」
「はあ……やっとか」
「まだまだこれからよ」
そのまま、トマスを振り返る。
「また会いましょう」
「え……?」
戸惑いが、そのまま顔に出る。
意味を掴めないまま、言葉を失うトマスを残して、レイナータは歩き出した。
「おい、待てよ」
慌ててその背を追いかける。
テラスを出る直前。
レイナータが、足を止めた。
差し出される手。
一瞬だけ、眉を寄せる。
舌打ちを飲み込み、その手を取った。
並んで、会場へ戻る。
再び、視線がまとわりつく。
「おい……今の、どういう意味だ」
「すぐに分かるわ」
「は?」
「明日、王宮へ行くわ」
唐突に言う。
その言葉に、思わず足が止まった。
「……王宮に?」
「ええ。水脈の申請をする」
一瞬だけ、こちらを見る。
「——そのために来たのでしょう?」
「……」
喉が、わずかに鳴った。
——ようやく、始まる。




