第20話 利権の裏側へ
エドモンドの執務室から、そう遠くない場所。
官吏たちの区画へと、足を踏み入れる。
紙の擦れる音。
抑えた声で交わされるやり取り。
人の動きは絶えない。
机の上には書類が積み上がり、官吏たちは手を止めることなく、それを捌いている。
——忙しい。
それだけの光景のはずだった。
一歩、踏み込んだ瞬間。
空気が、わずかに変わる。
手は止まらない。
だが視線だけが、こちらに寄る。
絡みつくように。
逸らしながら、確かに見ている。
——値踏みされている。
靴音を変えず、そのまま進む。
「……これはこれは」
一人の官吏が顔を上げた。
椅子を引き、ゆっくりと歩み出てくる。
「コルヴィス侯爵令嬢が、このような場所に」
口元だけが、かすかに持ち上がる。
「何のご用でしょう?」
整えられた身なり。
だがその目には、隠しきれない濁りがあった。
「何か、書類に不備でもございましたか?」
その背後で、声が走る。
抑えたつもりの、囁き。
「どうしてここに……」
「後ろの男は誰だ?」
「聞いてないぞ」
「……大物かもしれん」
「……まだ手はついていないな」
構わず、視線を巡らせる。
机の配置。
書類の積み方。
整然としている中で——
一箇所だけ、違う。
積み上げ方が荒い。
量が、不自然に多い。
処理が滞っている場所。
——あそこね。
「トマス・ロッシ卿はいらっしゃるかしら?」
その名に、空気がわずかに揺れた。
「……トマス?」
目の前の男が、わずかに眉を寄せた。
「どのようなご用件で?」
「——あなたに話す必要はないわ」
一拍も置かずに返すと、男の目が、細くなる。
「……失礼いたしました」
すぐに顔を整え、振り返る。
「トマス!」
声が、奥へと通る。
「トマス、来なさい」
その間にも、視線は集まり続けていた。
だが、一人だけ、動かない。
書類の山の奥。
顔も上げず、手を動かし続けている。
周りに気づきもせずに。
「トマス!」
もう一度、声が飛ぶ。
「へ?は、はい!」
ようやく顔を上げた男が、慌てて立ち上がる。
「あ、あれ……?ど、どうして……」
視線が合った途端、動きが止まる。
その様子に、わずかに口元が緩む。
「少し、お時間いただけるかしら?」
返事を待たず、踵を返す。
そのまま歩き出すと、背後で慌てた足音が追ってきた。
近くの会議室の扉を開ける。
中に入ると同時に——
「ど、どうしてここに……!?」
トマスの声が弾けた。
「落ち着きなさい」
振り返らず、軽く制する。
「また会いましょうと、言ったでしょう?」
「え……あれって……そういう意味で……?」
言葉が追いついていない。
視線が揺れたまま、立ち尽くしている。
「お前」
低く、声が落ちた。
ロイクが口を開く。
「……最初から知ってたのか」
視線が、トマスへと向く。
「こいつのことも。あの場で出てくることも——」
目の前まで詰め寄る。
「全部、仕組んでたんじゃねえのか」
鋭い視線が、こちらを射抜く。
「いいえ」
その目を、真っ直ぐに受け止める。
「たまたまよ」
だが、ロイクの視線は変わらない。
疑いを含んだまま、こちらを捉え続けている。
「本当よ」
わずかに肩をすくめる。
「むしろ、想定外だったわ」
トマスへと視線を流す。
「でも……いい出会いだった」
再び、ロイクを見る。
「あなた、人を見る目があるのね」
「……はぐらかすな」
苛立ちが滲む。
「はぐらかしていないわ」
きっぱりと言い切る。
一歩、奥へ進む。
「それより——本題に入りましょう」
机の端に手を置き、そのまま腰を下ろす。
視線だけで、二人を引き寄せる。
わずかに身を寄せた。
「……おい、近すぎるだろ」
「黙って」
短く、制する。
小さな声で言う。
「ここからは声を落としなさい」
視線を、扉へと流す。
「どこで聞かれているか、分からないわ」
「……っ」
ロイクの表情が、引き締まった。
「そこまでか?」
「ええ」
短く頷く。
「ここは——利権の巣よ。国中の情報が集まる場所。誰が何をするのか、何が動くのか」
わずかに声を落とす。
「……そして、それは売れる」
「……賄賂か」
ロイクの声に、露骨な嫌悪感が滲む。
「ふん」
腕を組み、鼻で笑う。
「入った時から妙だとは思ってたが……」
記憶をなぞるように、目を細める。
「やけに視線を感じた。……あれは俺たちを見てたんじゃねえな」
「ええ。“何を持ち込んだか”を見ていたのよ」
指先で机を軽く叩く。
「ここでは、それがすべてだから」
——私もそれを知ったのは、王妃になってからだった。
民に行き渡らない食糧。
突き詰めて、辿り着いた先が、ここ。
まさか、自分のすぐ隣が腐っていたなんて。
「下手に申請すれば、情報を渡すだけ。すぐに横取りされるわ」
視線をトマスへ向ける。
「……そうでしょう?」
トマスの肩が、ぴくりと揺れた。
俯いたまま、かすれた声が落ちる。
「……はい。その通りです」
「ちっ……腐ってやがる」
声を荒げる。
「ここが、国の中枢かよ」
「声を落としなさい」
すぐに制する。
「すぐには変えられないわ。長年積み上がったものよ」
「……くそっ」
奥歯を噛む音が、わずかに響く。
「だからこそ——」
前へと目を向ける。
「あなたがいる」
「……え?僕、ですか……?」
トマスの目が、わずかに見開かれる。
「ええ。あなたの前にだけ、積まれていたでしょう」
先ほどの光景を思い出す。
「ここに持ち込まれた書類の大半。あなたが処理しているのよね」
「……そうなのか?」
ロイクが横から問う。
「あ、いえ……そんな……」
トマスは慌てて首を振る。
「僕がやっているのは、重要じゃないものばかりで……」
「違うわ」
かぶせるように、言い切る。
「利権になるものは、他が持っていく。残ったものを、すべて処理しているのがあなた。量は、誤魔化せないわ」
トマスの動きが止まる。
言葉が出ない。
「……っ」
「協力してちょうだい」
「……僕なんかが……」
迷いが滲む。
間を与えず、言葉を落とした。
「見つけたのよ——水脈を」
「——っ!?」
ロイクに、一瞬だけ視線を流す。
「彼の領地でね」
トマスが息を呑んだ。
「それは……本当ですか……?」
声が震える。
「だとしたら……」
一気に言葉が溢れ出る。
「領地だけの問題じゃありません。国全体に影響が出ます」
「……」
ロイクは黙って聞いている。
「しかもヴァルド領となると……ガルディアとの境……」
言いながら、視線が泳ぐ。
「水を押さえれば、あちらにも影響が出る……」
「ほう」
ロイクが、わずかに口元を歪める。
「ちゃんと分かってるじゃねえか」
「やっぱり、優秀ね」
思わず、微笑みが零れる。
「こ、こんな話……嗅ぎつかれた時点で、終わりです」
「ええ。だから、この件は——あなたが担当するのよ」
「そ、そんな……!」
顔色が、一気に変わる。
「無理です……!僕にそんな権限は——」
「関係ないわ」
言葉を遮る。
「この話を聞いた時点で、もう外れられない」
静かに、言い切る。
「もし漏れれば、国が揺らぐ。それでも構わないなら——ここで降りなさい」
「……っ」
トマスの喉が、わずかに鳴る。
「も、もしかして僕……」
息が詰まる。
「とんでもないことに……」
「巻き込まれたな」
ロイクが、淡々と言う。
「諦めろ」
わずかに首を振る。
「こいつに目をつけられた時点で、終わりだ」
「まあ、失礼ね」
肩をすくめる。
「あなたならできると思ったから、選んだのよ」
「え……」
トマスは戸惑ったように、瞬きを繰り返した。
「さあ、本題よ」
空気を切り替える。
「このまま申請すれば終わり。漏れた瞬間、奪われるわ」
ロイクの舌打ちが落ちる。
「……だろうな」
苦々しげに、頷く。
「あなたの立場を上げる必要もある。でも、それだけじゃ足りない」
トマスの喉が、小さく上下する。
「先に押さえるの」
わずかに身を乗り出す。
「奪う側を」
「……つまり、貴族を抑え込むってことか」
ロイクが問い返す。
「ええ」
迷いなく、言い切る。
「貴族を制圧する」
「……っ」
トマスの顔から、血の気が引く。
「……できるのかよ、そんなこと」
ロイクの声に、わずかな疑いが混じる。
「ええ。今ならできるわ」
——あの時は違った。
時間がなかった。
考える余地も、残されていなかった。
動けば動くほど、民が死んでいく。
立ち止まることすら、許されなかった。
だから——押し通した。
切り捨ててでも、進めた。
その結果。
貴族たちは、敵に回った。
一斉に向けられる敵意の目。
その中心で、扇の奥に笑みを隠す女。
その背後に、もう一人。
表情ひとつ動かさず、こちらを見下ろす男。
あの光景は、焼きついて離れない。
——同じやり方はしない。
「そのための布石は、もう打ってある」
「布石?」
「昨夜、接触したわ。ベルティーナ・オルランドに」
「えっ、あの……!」
トマスが、息を呑む。
「誰だそれ?」
ロイクの眉が寄る。
「社交界を動かしている女よ」
短く答える。
「彼女から情報を引き出す」
指先が、机の縁をなぞる。
「そして——その先」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「本命を引きずり出す」
ロイクが、小さく息を吐く。
「……大物、か」
答えは返さない。
ただ、指先が止まる。
——待っていなさい。
今回は、違う。
***
静まり返った部屋。
足音は、厚い絨毯に吸い込まれる。
磨き上げられた机。
壁に並ぶ絵画は、どれも由緒あるものだ。
窓の外では、海が光っていた。
陽を受けて揺れる水面。
どこまでも続く、境のない青。
そのすべてを見下ろすように——
大きな窓の傍ら。
ふくよかな身体を、ゆったりと預けた男が、封を切る。
紙を開く手に、迷いはない。
指にはめられた大ぶりの指輪が、鈍く光を返す。
「……ヴァルド、か」
低く、声が落ちる。
紙面を追っていた目が、ぴたりと止まった。
「コルヴィスの娘が、動いているのか」
読み終えた紙を机に置く。
唇の端だけが、わずかに持ち上がる。
「面白い」
その声は、あくまで静かだった。
「……どこまでやれるか」
窓に差し込んだ光が揺れる。
その光を受けて、目の奥が冷たく光った。
「王都に出るか」
指先が、指輪をゆっくりとなぞった。
——取り込むか、潰すか。




