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裏切られた王妃は、王を選ぶ  作者: noemi


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第16話 育てた地を離れる

「旦那……!」


畑の向こうから、声が上がった。


振り向いた男の目が、大きく見開かれる。


「戻った!ロイクの旦那が戻ってきたぞ!」


その声に、あちこちで手が止まる。


鍬が土に刺さったまま止まり、水を運んでいた桶が、どさりと地面に置かれた。


散っていた人影が、波のようにこちらへ集まってくる。


「大丈夫か?怪我はねえか!」


「急にいなくなりやがって……!」


「後ろの嬢ちゃんたちも、無事か?」


「……見慣れねえ顔もいるな」


口々に飛んでくる声。


距離が、一気に詰まる。


泥のついた手が、そのまま肩に触れた。


叩くように、確かめるように。


土の匂い。


湿った空気。


さっきまでいた場所とは、まるで違う。


「……うるせえな」


肩を払うように、軽く身を引いた。


「俺は見ての通りだ。無駄口叩いてねえで、さっさと仕事に戻れ」


ぶっきらぼうに言い放つ。


「ははっ!やっぱり旦那だ!」


「なんだ、元気そうじゃねえか!」


笑い声が上がる。


それぞれが、当たり前のように持ち場へ戻っていく。


何事もなかったかのように。


その背を見送りながら、ふっと息を吐いた。


肩に入っていた力が、わずかに抜ける。


「……ったく」


小さく、こぼれる。


「ロイク坊……」


低く、しわがれた声。


人の流れが途切れた先。


一人だけ、動かずに立っている影があった。


「ファビオ爺……」


呼びかける。


爺は、ゆっくりと目を細めた。


刻まれた皺が、わずかに動く。


「よく、戻ったのう」


「……当たり前だ」


短く返す。


それだけで十分だった。


爺は小さく頷くと、背を向ける。


そのまま、また畑の中へと入っていく。


土を踏む足取りは、いつもと変わらない。


その背を、しばらく見ていた。


——戻ってきた。


ようやく、実感が追いつく。


その時。


「ふふ、人気者ね」


すぐ後ろから、声が落ちた。


振り向く。


女が、いつの間にかそこに立っていた。


その後ろ。


この土地には似合わない顔ぶれが、静かに並んでいる。


女に、護衛の男。


そして——ザイードの兵が二人。


無駄のない装備。


足運びにも、隙がない。


土を踏む音ひとつ、乱れない。


——あの時も、そうだった。


王弟の兵が入り口を押さえていたザルハド山。


だが、あの兵たちは、一度も姿を見せなかった。


ザイードの兵が先に立ち、迷いなく脇道へ入っていく。


踏み固められていない土。


人の気配もない細い道を、ただ進む。


——そして、気づけば抜けていた。


あっけないほどに。


ガルディアに行って、戻るまで——たった二日。


それだけで、状況はひっくり返った。


「……」


胸の奥に、わずかな違和感が残る。


現実味が、まだ追いつかない。


だが——


目の前の女が、それを許さない。


「それじゃあ、次は王都ね」


「は?」


思わず、声が出る。


「急いで準備してちょうだい。思ったより時間がかかってしまったわ」


踵を返しかけた、その背に——


「……待て」


小さく、声を落とす。


女の足が止まる。


ゆっくりと、振り向いた。


「何?」


「帰るなら、勝手に帰れ」


視線を逸らさず、言い切る。


「俺は行かねえ。……行く理由がない」


女は、小さく息を吐いた。


「今回、ザイードとは同盟を結べたわ。兵もいる。でも、それだけじゃ足りない」


「足りない?」


眉がわずかに動く。


「この前、見つけたものがあるでしょう?」


一瞬、言葉に詰まる。


——見つけたもの……?


思考が、遡る。


崖の下。


湿った土。


……水脈だ。


視線が、無意識にザイードの兵へと流れた。


それを見て、女の口元がわずかに緩む。


「ええ、気づいたわね。でも——あれは、まだ使わない」


「……」


「あれは最後の切り札よ」


はっきりと、言い切る。


「だからこそ、今のまま放置はできない。あの場所を守るには、王都で正式に認めさせる必要がある」


「そんなの、俺には関係——」


言いかけて、止まる。


関係ない、はずがない。


視線が、再び後ろへ流れる。


ザイードの兵。


同盟は結んだ。


だが——それだけだ。


信用できる保証はない。


あの場所は、いずれ狙われる。


知ってしまった以上、目を逸らせる話じゃない。


「……」


女は構わず続ける。


「それに、これからザイードと交渉する以上、窓口が必要になるわ」


視線が、畑の方へ流れる。


働く老人たち。


土にまみれた手。


「ここにいる人たちだけで、それができる?」


答えは、もう出ている。


「……」


女が、真っ直ぐ見据える。


「領地を守りたいのなら——王都に来るしかないわ」


「……また兵が来たらどうする」


頭を掻いて、舌打ちを飲み込む。


「ここを空けて、守れる保証はどこにある」


女は、表情ひとつ変えない。


「手は打ってあるわ」


「……あんた、何者なんだ」


思わず、言葉が零れる。


抑えられない。


「コルヴィスって……」


その名を、この国で知らない者はいない。


なのに——


「なんで、あんたがここにいる」


女は、わずかに首を傾げた。


「……知りたい?」


青い瞳が、揺れる。


底が見えない。


言葉が、出ない。


その時。


「お嬢様——!」


張り詰めていた空気を裂くように、声が飛び込んできた。


振り向く。


屋敷の方から、一人の女が駆けてくる。


裾を持ち上げ、何度も足を取られそうになりながらも、それでも止まらない。


一直線に、こちらへ。


「ご無事で……!」


息を切らしながら、そのまま女の前で足を止める。


「お怪我はありませんか!?」


返事も待たずに手を取る。


袖口、指先、頬——


震える指で、確かめていく。


「……まあ、こんなに汚れて……」


息が乱れている。


それでも手は止まらない。


「髪にも砂がついていますわ……」


「ふふ、大丈夫よ。これくらい」


女は、軽く笑った。


まるで、何事もなかったかのように。


「留守をありがとう、ニーナ」


そのまま、自然に続ける。


「怪我人は?」


「はい……っ」


ようやく呼吸を整えながら、答える。


「安静にしてもらっています。このまま休ませていれば、大丈夫かと」


「それならよかったわ」


短く頷く。


そして、侍女の手が離れるのを待つこともなく——


女は次の指示を出した。


「ニーナ、準備をお願い」


「……またどこかへ?」


瞳が不安げに揺れる。


「ええ。王都に戻るわ」


「……え」


一瞬だけ、表情が止まる。


だが、それもほんの一瞬。


すぐに息を整えた。


「……承知しました」


視線を落とし、頭を下げる。


「すぐに準備いたします」


迷いはない。


従うことに、何の疑いもない。


「お願いね」


女は一度だけ頷き、踵を返す。


数歩進んだところで、ふと足を止める。


「明日の朝、出発するわ」


それだけを言い残し、再び歩き出した。


侍女と護衛が、その後を追う。


足音が、遠ざかっていく。


残されたのは——


「……明日……王都……」


乾いた声が、喉から漏れる。


自分でも、何を言っているのか分からない。


「……っ」


思わず、舌打ちが漏れた。


***


乾いた風が、畑を抜けていく。


陽に照らされた葉が、揺れた。


目の前には、大小さまざまな作物。


無意識に、土を指で掴む。


指の間から、さらりとこぼれ落ちた。


「やっぱり、ここじゃったか」


聞き慣れた声。


振り返らない。


地面に座り込んだまま、前を向く。


「昔っから、何かあるたびにここに来る。変わらんのう、ロイク坊は」


「……もう、坊じゃねえ」


間を置かず、返す。


握った土に、わずかに力がこもる。


「坊はいつまでたっても坊じゃ」


爺は気にした様子もなく言って、隣に腰を下ろす。


土が、わずかに沈む。


湿った匂いが、ふわりと立ち上がった。


「……行くんじゃろう?」


返事はしない。


ただ前を見たまま、視線だけがわずかに揺れる。


それでも爺は続けた。


「いつか来るとは思っとった」


静かな声だった。


「坊は、ここで収まる玉じゃねえ」


「……他に行きたいなんて、思ったことはねえ」


「……そうか」


それ以上は踏み込まない。


ただ、少しだけ目を細める。


「初めて会った時も、そんな顔をしとったのう」


小さく笑う。


「病気じゃからと預けられてのう。この豆みてえに小さかったのに——よう生きとった」


「そこまで小さくねえ」


間髪入れず返す。


だが、声に力はない。


「ほっほ」


爺は笑うと、畑へと視線を向けた。


つられて、そちらを見る。


並んだ作物。


風に揺れる葉。


その下で、土が静かに息をしている。


「せがれも、ようここで土をいじっとった」


ぽつりと呟く。


「種がどうじゃ、水がどうじゃと……儂にはさっぱりじゃったがのう」


「爺は適当すぎるんだ」


「ここにいる者は、皆そうじゃ」


あっさりと返す。


だが——


「じゃがのう」


わずかに、声が落ちた。


「坊が来てから、変わった」


風が、葉を大きく揺らした。


「せがれの見よう見まねで始めたもんを、坊が拾って、繋いだ」


指先で、土を軽くなぞる。


「形にして、崩れんように整えた」


「……」


言葉が詰まる。


「だからな」


爺は、ゆっくりと顔をこちらに向ける。


「お前がいなくなって、すぐにダメになるほど——儂らはやわじゃねえわい」


皺に刻まれた顔の奥で、目だけが強く光った。


「……」


胸の奥に引っかかっていたものが、わずかにほどける。


消えたわけじゃない。


それでも、さっきまでとは違っていた。


「逃げるんじゃねえ」


爺の声が続く。


「見捨てるわけでも、忘れるわけでもねえ」


風が止む。


葉の揺れが、静かに収まった。


「使いに行くんじゃ。お前が、ここで積んできたもんをな」


言葉が、静かに落ちる。


「坊の家は、ここじゃ」


ゆっくりと。


確かめるように。


「ここは、お前が育てた場所じゃ。たとえ離れても——変わらん」


「……ああ」


短く、返す。


それ以上、言葉は出なかった。


指先の土が、音もなく崩れた。


***


朝。


まだ誰も起き出していない時間帯。


屋敷の中は、静まり返っている。


自室の机の前に立つ。


その上に、一冊の帳面を置く。


擦り切れた革表紙。


何度も開き、何度も書き足したもの。


ぱらりと、ページをめくる。


種の種類。

水の引き方。

土の癖。

誰に、どこを任せるか。


全部、書いてある。


もともとは——

育ててくれた夫婦が残した、走り書きだった。


それを拾って、足して、直して、まとめた。


指先で、最後のページをなぞる。


そこにも、昨日書き足したばかりの文字。


——あの爺なら、問題ねえ。


静かに、本を閉じた。


机の中央に置く。


小さく息を吐いて、扉に手をかける。


外の光が、差し込んだ。


屋敷を出る。


ひんやりとした朝の空気。


その中に——


女の姿があった。


昨日まで砂にまみれていた髪は、乱れひとつない。


銀の髪が、さらりと頬にかかる。


淡い色のデイドレス。


その裾の先で、磨かれた靴が静かに光っている。


——最初に会った時と、同じだ。


何も変わっていない。


女は何も言わず、ただこちらを見ている。


「……領地のためだ」


絞り出す。


「知った以上、見過ごせねえ」


視線は逸らさない。


「水脈の件が終わったら、すぐに戻る」


女の目が、わずかに細まる。


「ええ、構わないわ」


口元だけで、笑う。


「今は、それで」


それ以上は言わずに、踵を返す。


「さあ、行きましょう」


その視線の先。


領地の入り口。


見慣れない馬車が、すでに停まっていた。


御者がこちらに気づき、姿勢を正す。


「……いつの間に」


準備が良すぎる。


まるで——最初から決まっていたみたいだ。


女の背中を見る。


小柄なはずなのに、やけに大きく見えた。


——戻れなくなる。


そんな感覚が、胸の奥に引っかかる。


だが。


足は、止まらない。


乾いた地面を踏みしめる。


あのしわがれた声が、背を押す。


「……逃げる気はねえ」


口の端が、わずかに歪んだ。


そのまま、前へ踏み出す。


——黙って従うと思うなよ。

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