第15話 対等の取引
腰の袋に、手をかける。
中にあるそれを、指先で確かめた。
乾いた粒の感触。
女の視線が、静かに向けられている。
——分かっている。
ここまで来て、引く気はない。
迷いは、もうなかった。
ゆっくりと袋から取り出す。
掌の上で転がした。
小さな粒。
それを、そのままザイードへ差し出す。
「……なんだ、それは?」
警戒するように、低い声が落ちる。
一度、息を吐く。
そして、真っ直ぐに前を見据えた。
「——取引だ」
「……ほう?」
ザイードの目が、わずかに細まる。
「俺は、ロイク・ヴァルド。この国に隣接する領地の領主だ」
「ああ……森の向こうの、あの土地か」
ザイードは一度だけ視線を外した。
考えるように。
だが、すぐに戻る。
「……それで?」
「これは、ただの種じゃない」
指先で、一粒を押さえる。
「この土地でも育つ作物だ。病にも強い」
ザイードは、何も言わない。
ただ、見ている。
「……本当か?」
声が、わずかに低くなる。
「そんな都合のいい話があるか?」
疑いは消えていない。
だが、完全な否定でもない。
「信じるかは、あんた次第だ」
間を置かず、返す。
「だが——嘘は言ってない」
視線をぶつける。
「そんな嘘までついて、ここまで来るほど、暇じゃない」
空気が、張る。
誰も動かない。
松明の火が、小さく揺れた。
その時——
「……殿下」
横から、控えめな声。
ザイードの視線が、わずかに流れる。
「ヴァルド、と言いましたか」
「ああ」
短く応じる。
「……知っているのか?」
「確か……」
兵は記憶を手繰るように、ゆっくりと口を開く。
「以前、逃げてきた者が話していました」
一瞬、こちらを見る。
「この辺りと同じ土地なのに、一面だけ、緑が広がっていたと」
わずかに、眉が寄る。
「……嘘だと思っていましたが」
言い切ったあとも、納得しきれない顔のまま黙る。
兵の言葉で、ほんのわずかに、空気が変わった。
ザイードの視線が、もう一度落ちる。
掌の上の、小さな粒へ。
「……この国でも育つ作物か」
まだ疑いは残る。
それでも、先ほどとは目の色が違っていた。
「その価値は、あんたが一番わかってるはずだ。この国を変える代物だ」
「それだけで全てが変わるほど、簡単な話じゃない」
ザイードは、ゆっくりと首を振った。
「……我が国の食料問題は、長年の課題だ」
視線が落ちる。
額にかかった赤い髪が、前へ滑り落ち、目元を覆った。
「仮に育つとしても、数はすぐには増えん。結果が出るまで時間もかかる」
ゆっくりと顔を上げる。
「それで——どうやって王位を取る」
——くっ。
息が詰まる。
すぐには増えない。
時間がかかる。
分かっている。
それは、誰よりも。
答えが出ない。
すると——
「今すぐに、結果を出す必要はないわ」
横から、声が差し込まれた。
沈黙を貫いていた女が、口を開く。
「“可能性”を握っているだけでいいのよ」
ザイードの視線が女に向けられる。
「……可能性、だと?」
「ええ」
女は一歩、踏み出して距離を詰める。
「この乾いた土地で作物が育つ。それだけで、貴族も官吏も、無視できなくなる」
ザイードの前で足を止めた。
「この国の食糧を握る王を」
視線をぶつける。
「——誰が、無視できる?」
誰も、口を開かない。
「そこには当然、金も地位も生まれる」
女は静かに、続ける。
「彼らが食いつかないはずがないわ」
ザイードの口元が、わずかに歪んだ。
「……所詮は、利で動く連中か」
女は、わずかに微笑む。
否定も、肯定もせずに。
そのまま、一歩だけ引いた。
「だが——なぜ俺なんだ」
ザイードの視線が、こちらに向く。
「他国のお前にとって、俺も叔父も違いはないはずだ。わざわざここまで来た理由は何だ」
はあ、と息を吐く。
白い吐息が、朝の光に溶けた。
「見てきた」
それだけ、言う。
痩せた畑。
飢えに喘ぐ村。
踏みにじられる人々。
頭の奥に、焼きついている。
「同じ土地だ」
一歩、踏み出す。
「なのに——あんたのところは、まだ生きてる」
ザイードの目が、わずかに揺れた。
「王弟の方は違う。奪うだけだ」
さらに踏み込む。
「いずれ、うちも狙われる」
赤い瞳を、正面から捉える。
「だから選んだ——あんたを」
視線が、ぶつかる。
掌の種を、目の高さまで持ち上げた。
「種は渡す。だが、これは取引だ。施しじゃない。条件がある」
「……条件?」
ザイードの口元が、わずかに緩む。
「種を渡す代わりに、うちの領には手を出すな」
「なるほど……」
ザイードは、額にかかった赤い髪を無造作にかき上げた。
そのまま、距離を詰める。
影が、落ちた。
「随分と俺を買ってくれているようだが……それで、俺に何の得がある?」
わずかに、顎が上がる。
「今ここで奪えば済む話だ。守ってやる義理もない」
「……そうだろうな」
肩をすくめる。
だが、目は逸らさない。
「あんたみたいな奴に、敵うはずもねえ」
一瞬だけ、息を吐く。
「でも——勘違いしてないか」
ザイードの眉が、わずかに上がる。
「……何がだ」
掌の種を、指先で転がす。
「種は渡すと言った」
指先の動きを止める。
「だが——種があるだけで育つわけじゃない」
足元を軽く蹴る。
乾いた土が、ぱらりと崩れた。
「こんな土地で、やり方を間違えりゃ、すぐに駄目になる」
指を折る。
「土も、水も、手入れも——全部だ」
顎で示す。
「あんたのところは、そこが甘い」
ザイードの視線が、鋭くなる。
「……ほう」
「ここまで見てきて分かった。畑の作りひとつ、なってない」
一歩も引かない。
「俺がいなきゃ、この種は続かない」
掌を握る。
種が、きしむ。
「たとえ一度育っても、次には繋がらない」
確信を込めて言い放つ。
すると、ほんの一瞬。
ザイードの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「ふ……なるほど」
腕を組む。
「農業というのは、随分と手のかかるものらしいな」
鼻で笑う。
「ただ植えりゃ育つと思われちゃ困る」
種を軽く掲げる。
「これは、同盟だ。うちの領と、あんたの国——対等な、な」
ザイードは、しばらく何も言わなかった。
ただ、見返してくる。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……いいだろう」
右手が差し出される。
大きく、硬い手。
「俺はこの国のために、お前は領地のために」
赤い瞳が、真っ直ぐに見据える。
「互いの目的のために、手を組もう」
胸の奥が、わずかに詰まる。
握った手の中に、種が食い込んだ。
——現実だ。
そのまま、右手を重ねた。
硬い手が、強く握り返す。
「取引成立ね」
いつの間にか隣に立っていた女が、静かに告げた。
俺たちの間に、割り込むように。
背後から、朝日が差し込む。
山の向こうから昇る朝日が、女の輪郭を白く縁取った。
「まずは——王になってちょうだい」
女は軽い声音でザイードに言う。
「そうすれば、次の話ができるわ」
ザイードは、わずかに首を傾げる。
「……まだ何かあるのか?」
「王になれば分かるわ」
そう言うと、女は踵を返した。
「王になったら、王都のコルヴィス家まで連絡してちょうだい」
「……え?」
思わず、声が漏れる。
——コルヴィス?
だが、女は振り返らない。
歩みを止めることもなく、続ける。
「ああ、それと——帰りの護衛と、領地を守る兵を少し」
ザイードが、鼻で笑った。
「ふ……厚かましい女だな」
「それくらいの価値はあるでしょう?」
あっさりと言い返す。
「それと——あの子も頼んだわ」
護衛の腕の中で眠る少女へ、視線を向ける。
ザイードの表情が、わずかに引き締まる。
「……分かった。必ず、元へ場所へ返す」
二人の会話は、すでに次へ進んでいる。
淡々と。
だが——
「……待て」
思わず、声が出た。
会話を断ち切るように。
二人の視線が、同時にこちらへ向く。
「今……コルヴィスって言ったか?」
喉が、わずかに鳴る。
「あの宰相の家の……」
言葉が詰まる。
「お前、まさか——」
女は、ただ微笑んだ。
すぐに視線を外し、そのまま歩き出す。
「さあ、帰りましょう」
振り返らない。
「次は——王都よ」
「おい!」
背中に向かって、思わず声を張る。
だが、足を止める気配はない。
朝日に照らされた女の影が、長く伸びる。
こちらへと、迫るように。
舌打ちが、こぼれた。
——なんなんだ、あいつは。
女の笑みが、頭に残る。
取引は、終わったはずだ。
それなのに——
まだ、何かが動いている。
知らないまま。
掴めないまま。
引き返すには、もう遅い。




