第14話 山の向こうの別世界
夜の山道を、兵に挟まれて進む。
逃げ場はない。
腕には、簡素な縄がかけられていた。
前を行く女は、眠るように力の抜けた少女を抱いたまま歩いている。
足取りは、乱れない。
松明の光が揺れるたび、その横顔が浮かび上がる。
——さっきの笑みが、頭から離れない。
「……おい」
兵に聞かれないよう、声を落とす。
歩みを緩めないまま、隣に寄った。
「さっきの……分かってたのか」
女は、わずかに振り返った。
「言ったでしょう」
それだけで、視線を前へ戻す。
「山は、王子の領域だって」
「……だから捕まった方がいい、ってか?」
「王弟に捕まれば終わりよ」
間を置かず返ってくる。
「でも、王子の兵なら話が通る」
声は変わらない。
淡々と。
「……可能性、だろ」
思わず、語気が強くなる。
「王弟と同じだったら、どうするつもりだった」
女は、一拍だけ間を置いた。
「その時は、その時よ」
あまりにも、あっさりしている。
「……っ、おい——」
食い下がろうとした刹那。
「うるさいぞ。静かにしろ」
鋭い声が飛ぶ。
「っ——」
反射的に、口を閉じる。
歯を噛み、言葉ごと押し殺す。
足だけを、前へ出した。
「心配しなくても、すぐに分かるわ」
前を向いたまま、女が言う。
「王子が、どんな人間か」
くそっ——
思わず、前を行く背を睨む。
……底が知れない。
信用していいのか。
——いまだに、分からない。
だが。
ここまで来て、引き返す選択肢はなかった。
ただ——進むしかない。
足元の地面は、不自然なほど均されていた。
岩が削られ、踏み固められている。
足を取られる場所が、ほとんどない。
周りに兵はいない。
それでも、どこかで見られている気がした。
視線を上げても、何もいない。
だが、一歩進むたびに、その感覚だけが消えない。
——見張られている。
やがて、視界が開けた。
山の向こう。
白み始めた空の下に、陣が広がっていた。
荒野に、無数のテント。
整然と並び、隙がない。
その奥に、建物の影が連なっている。
さらに、その奥。
暗がりの中で、わずかな光が揺れる。
水面だった。
海がある。
思わず、目を細める。
——大きい。
これまで見てきたどの町よりも、明らかに規模が違う。
ここが——西の砦。
「戻ったのか」
山の入り口を固める兵の一人が、声をかける。
「そいつらは?」
「捕縛だ。殿下の元へ連れていく」
「……そうか」
短いやり取りだけで、道が開く。
そのまま、奥へ進む。
視線を巡らせる。
死角を埋めるように、兵が立っている。
動かない。
だが、すべて見ている。
その間を縫うように、煙が上がっていた。
まだ夜が明けきらない中で、あちこちに火が灯っている。
テントの脇。
女たちが鍋をかき回している。
湯気が、静かに立ち上る。
着ているものは質素だが、擦り切れてはいない。
「早いな」
「今日は多いからね」
兵の声に、女たちは笑って応じる。
——違う。
思わず、足が緩む。
改めて、辺りを見渡す。
同じ土地のはずだ。
足元は乾ききった土。
ひび割れ、草一つ生えていない。
水の気配も、緑もない。
——なのに。
視線が、もう一度人の動きを追う。
この違いは、なんだ。
まるで、別の国だ。
思わず、前を行く女に目を向ける。
「すぐに分かるわ。王子が、どんな人間か」
あの言葉が、頭をよぎる。
——分かっていたのか。
知らないと言っていたはずなのに。
くそ、なんなんだ。
ここも、この女も——
思考を断ち切るように、足を止められる。
天幕の前だった。
周囲のものより、ひと回り大きい。
「おう、どうしたんだ?……なんだ、そいつらは」
「捕虜だ。……殿下は?」
「取り込み中だ」
短いやり取りが交わされる。
その時——
「それで、俺を騙せると思ったのか」
天幕の奥から、声が落ちた。
大きくはない。
それでも、空気が一瞬で張り詰める。
「だ、騙すなど……」
今度は、別の男の声。
わずかに掠れていた。
「私は、殿下のお力になろうと……そ、そう。鉱石も船に積み込んで……」
「ほう」
短く、落ちる。
「お前の領地のものか」
「は、はい……」
「随分と気前がいい。だが——その鉱山、もうお前のものじゃないだろう」
「……っ」
「誰の手に渡ったかくらい、分かっている」
「そ、それは……」
「知らないとでも思ったか」
間を与えず、言葉が重ねられる。
「そこまでして、何を引き出すつもりだった」
「そ、それは……」
「連れて行け。誰の指示か吐かせろ」
「はっ!」
「待て!私は——」
布の向こうで、押さえ込まれる気配。
「由緒ある伯爵家の——」
「口を塞げ」
「ン——!!」
布の擦れる音が遠ざかる。
静けさが戻った。
「殿下」
すぐに、別の声が続いた。
「船を調べたところ、鉱石が確認できました。金貨と銀貨も、相当な量です」
「……その金で、動いたか」
「それと——船に残されていた者たちは、皆、ひどく消耗していました。殴られた痕も」
空気が、変わる。
「……何人だ」
「数十人ほど。まともに立てる者は、ほとんどいません」
短い沈黙。
「医者を呼べ。食事も用意しろ」
「ですが……伯爵の手の者です……」
「動けなきゃ、話にならん」
間を置かず、言い切る。
「ああ、それと、積み荷はすべてこちらに回せ。せっかくだ。遠慮なく使わせてもらう」
——ああ。
間違いない。
今までの知識と、ここまで見てきたものが、ひとつに繋がる。
この男だ。
今はまだ、小国に過ぎないガルディアを、まとめ上げ、力を持たせた男。
「……ようやく、会えたわね」
腕の中の少女を、ジラルドに預ける。
視線を上げると同時に、天幕がさっと上がった。
赤い瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。
その奥に、揺るがない意志が見えた。
「ザイード・ヴァン・ガルディア」
視線を逸らさず、告げる。
「話があるわ」
周囲の兵がざわめく。
一斉にこちらへ寄る。
「無礼だ、口を慎め——」
ザイードが、軽く手を挙げた。
それだけで、兵たちの動きが、ぴたりと止んだ。
松明の光を受けて、深紅の髪が揺れる。
額にかかったそれを、無造作にかきあげた。
「……随分と肝が据わった女だ」
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「その肌の色に、その物言い」
視線が、ゆっくりとこちらをなぞる。
焼けた褐色の肌。
松明の光に浮かぶ肩は広く、布の上からでも筋肉の輪郭が分かる。
「アルジェンタの人間だな」
「ええ」
短く、頷く。
「わざわざ隣の国から、何の用だ」
「あなたに、王になってもらうために来たわ」
——予定よりも、少し早く。
「……王だと?」
低い声が落ちる。
わずかに、肩が動いた。
「聞き間違いかと思ったが……違ったようだな」
視線が、鋭く細まる。
「“ヴァン”と、そう言ったな」
「ええ」
視線を逸らさず、返す。
「“偉大なる王”——その名を継ぐに相応しいのは、あなたよ」
わずかに、空気が止まる。
兵たちの呼吸すら、揃う。
「“ヴァン”——偉大なる王、か……」
ザイードは一瞬だけ、視線を落とす。
赤い瞳が、わずかに揺れた。
次の瞬間——
空気が、張り詰める。
その場の空気ごと、言葉が押さえつけた。
「軽々しく口にするな。その名は、認められた者だけが背負うものだ」
息が、詰まる。
だが——引くわけにはいかない。
「私は事実を言っているわ。あなた以外に、相応しい者はいない」
「他国の人間に、何が分かる……!」
言葉が落ちるたび、空気が軋む。
「分かるわ」
躊躇なく、言い切る。
「あなたは機会を待っている。王弟が弱る、その時を」
「……」
沈黙。
だが、否定はない。
「宮廷は王弟の手の中。官吏も、貴族も、すべて」
「——だから、動けない」
ザイードが、短く吐き捨てる。
奥歯が、わずかに噛み締められる。
「首を取るのは簡単だ」
ゆっくりと言葉を押し出す。
「だが、その後はどうする。国が回らなければ、意味がない」
拳が、わずかに握られる。
「混乱するのは誰だ」
短く、息を吐く。
「ツケを払うのは誰だ」
空気が、沈む。
「……民だ」
「それでも——」
少女へ、視線を向ける。
「待っている間にも、民は死ぬわ」
ジラルドの腕の中。
ぐったりとした少女。
「この子は、道端に倒れていた」
視線を戻す。
「兵に村から連れ出されて——歩けなくなった途端、捨てられたのよ」
ザイードの手が、強く握られる。
爪が、掌に食い込む。
——彼も、分かっている。
民が犠牲になっていることくらい。
それでも今は、待つしかない。
待てば、いずれ王になる。
だが、それでは遅い。
私の望む形では、間に合わない。
だからこそ——
「もっと、いい方法があるわ」
「……なんだと?」
ザイードは顔を上げた。
赤い瞳が、鋭く光る。
「あなたが今すぐに、王になれる方法が」
ザイードが、鼻で笑った。
「それを信じろと?」
わずかに首を傾ける。
「いきなり現れた他国の女の言葉を?」
「ええ」
即答する。
「信じるかどうかは、あなたが決めればいい」
視線がぶつかる。
逸らさない。
「口だけじゃないわ——手土産もある」
ロイクへ、視線を送る。
彼は一瞬、息を詰めた。
だが、すぐに腰の袋へ手をかける。
袋の中のそれを、確かめるように握り締めた。
それでいい。
——ここからは、あなたの役目よ。




