第11話 それでも、行く
机の上に、地図を広げる。
指先で、一点を示した。
「ここよ」
ロイクの視線が落ちる。
「……西の砦か」
わずかに、眉が寄る。
「どうして正確な場所が分かる」
視線は地図のまま。
「彼が言っていたでしょう」
淡々と返す。
「ガルディアは西に人が集まる」
「ああ、東は何も育たねえ」
私は、小さく頷いた。
指先を、ゆっくりと滑らせる。
「ここは要所の一つ」
線をなぞる。
「王弟のいる首都から距離を取りつつ——」
わずかに指を止める。
「南は海に面している」
もう一度、指を動かす。
「押さえるには、ちょうどいい場所よ」
「……」
ロイクは何も言わない。
だが、視線だけが動く。
地図から、私へ。
真っ直ぐに。
探るように。
——疑っている。
当然ね。
けれど、詳しく話すつもりはない。
視線を受け止めたまま、地図へ目を戻す。
やがて——
小さく、息が落ちる。
観念したように。
ロイクは視線を切り、再び地図へ目を落とした。
「行くなら——こっちだ」
指が動く。
迷いなく、線をなぞる。
「国境沿いの森を抜ける。ここなら、人目につきにくい」
さらに指を動かす。
「この山を越えれば——砦だ」
「急いで準備しましょう。夜に移動すれば、少しは目立たないわ」
「……お嬢様、本当に行かれるのですか?」
ニーナの声は静かだった。
栗色の瞳が、わずかに揺れる。
「私もご一緒に——」
「いいえ」
小さく首を振る。
「ニーナはここに残って。怪我人の世話を任せたいの」
「ですが……」
言葉が、喉で止まる。
「お願い」
距離を詰め、視線を合わせる。
ニーナの肩が、かすかに揺れた。
やがて——
目を伏せ、息を吐く。
「……承知いたしました」
顔を上げる。
「お嬢様を信じております。必ず、お戻りください」
「ええ。待っていて」
視線だけを残して、頷き合う。
その時。
「——お待ちください」
背後から、低く声がかかる。
「何かしら、カルヴィ卿」
振り向く。
いつも動かない男の表情に、困惑が滲んでいた。
「本気……ですか?」
言葉を選ぶように、間が落ちる。
「ガルディアに向かうなど……。これは遊びでは済みません」
「遊びだなんて、思ったことはないわ」
「では、本気で国境を越えると?」
わずかに、首を振る。
理解できない、とでも言うように。
「……いつまで続けるおつもりですか。お父上がどう思われるか——」
「父は関係ないわ」
言葉を、遮る。
「私はやるべきことをやっているの」
一歩、近づく。
「嫌なら、帰りなさい」
「お嬢様……」
わずかに、声が揺れる。
「私は帰らない。やるべきことがあるの」
そう言い残し、背を向ける。
「ニーナ、準備するわ。手伝ってちょうだい」
「……はい!」
間を置かず、返事が返ってくる。
扉へ向かいながら、足を止めずに言う。
「日が落ちたら出発しましょう」
「ああ……」
ロイクの視線を受けたまま、部屋を出た。
***
蔵の中を見渡す。
荒らされた跡。
踏み荒らされた床。
燻された煙の匂いが、まだ残っている。
棚の一番上に積まれた袋に、視線が止まった。
すぐさま駆け寄ると、手を伸ばし、口をほどく。
中身を確かめ——
小さく、息を吐いた。
「……持っていかれてねえな」
袋の中には、種類ごとに分けられた種。
指でつまみ、転がす。
乾いた感触が、指先に残る。
「来年の分だったが……」
手の中の種を見つめる。
「……そうも言ってられねえか」
脳裏に、あの女の声が蘇る。
「ただの食料じゃない。領地を守る——武器よ」
指先の種を、ゆっくりと握り直す。
「……武器、か」
小さく、呟く。
——これで、本当に守れるのか。
答えは出ない。
それでも——
視線を落としたまま、しばらく種を見つめる。
そして、種を袋へ戻した。
口を結び、きつく縛る。
「……やるしかねえ」
短く吐き出す。
立ち上がって、蔵を出た。
沈みかけた夕日が、地面を赤く染めている。
長く伸びた影が、足元に絡む。
——もうすぐ、出発だ。
「ロイク坊」
聞き慣れた声に、思わず口をつく。
「坊はやめてくれって言ってるだろう、ファビオ爺」
振り向く。
そこには、いつもの爺の姿。
そして——その隣。
「お前……」
痩せ細った、褐色の男が立っていた。
肩は落ち、背中は丸い。
だが、足だけは踏ん張るように地面を捉えている。
「……どうしてだ」
震えた声。
「兵が来たんだろ?……俺みたいなよそ者、差し出せばよかっただろ」
一瞬だけ目を伏せた。
「差し出しても、同じだ。どうせあいつらは、全部奪っていく」
男が、言葉を失う。
喉が鳴り、視線が揺れた。
「……でもよ」
俯く男に、声を落とす。
「ここはどうだ」
男の目が、わずかに動く。
「あ……ああ」
戸惑うように、周囲へ視線を走らせる。
「皆、優しくしてくれる。こんなとこ……初めてだ」
泥にまみれた手。
爪の間に詰まった土。
その手は、もうこの土地の連中と変わらない。
「そうか」
短く、頷く。
「戻りたいか」
男が、はっと顔を上げる。
「俺たちを差し出してでも」
「そ、そんなことしねえ!」
声を荒げる。
「あんたは俺を助けてくれた!そんな真似……できるわけねえだろ!」
息が荒い。
それでも、目は逸らさない。
その様子に、わずかに目を細めた。
「なら、いい」
小さく、息を吐く。
「……心配するな」
爺が、横から口を開いた。
「ここは任せておけ」
「ファビオ爺……」
視線が、ぶつかる。
「行くんじゃろう?」
しわに埋もれた目が、真っ直ぐこちらを射抜く。
隠し事など通じないかのように。
「ああ……」
「い、行くって……」
男が、慌てて口を挟む。
「どこに行くつもりだ?」
目を見開く。
「まさか、兵のところにか……?」
「西の砦だ」
「なっ……」
男は言葉を詰まらせる。
「なんで、砦なんかに……道は、兵だらけだぞ……」
「それでも、行く。——それしか道はない」
「——っ」
男は何も言えない。
ただ、立ち尽くす。
「……そうか」
その隣で、爺がゆっくりと頷いた。
「随分と……大きくなったのう」
目を細める。
「ここに来た頃は、あんなに小さかったというのに」
「いつの話をしてるんだ……」
肩をすくめる。
「もう坊じゃねえって、いつも言ってるだろ」
「ほっほ」
小さく笑う。
「どれだけ体が大きくなろうと、坊は坊じゃ。ずっと変わらんわい」
「……そうかい」
短く返す。
静かな空気が流れる。
畑の方から、作業を終えた声が上がった。
笑い声が、風に乗って流れてくる。
気づけば、影が畑を覆い始めていた。
「爺……」
「ああ、分かっとる」
言葉を重ねる前に、返事が返ってくる。
その言葉に、ゆっくりと背を向けた。
「……ザ、ザルハド山には気をつけろ!」
背後から、絞り出すような声が飛ぶ。
「小競り合いが続いてる……!王弟派も、目を光らせてるはずだ」
「ああ」
振り返らず、片手を上げた。
そのまま、歩き出す。
領主邸へ向かうと——
すでに、あの女がいた。
髪は高く結い上げられ、装いも簡素だ。
だが、立ち姿だけは崩れない。
視線が、ふと足元で止まる。
場違いだったはずの靴は、土にまみれて黒く染まっていた。
「来たわね」
一瞬だけ手元の袋に目をやるだけで、女は何も言わなかった。
その背後で、護衛の男が無言で立つ。
気配を殺したまま、動かない。
——結局、付いてくるのか。
「行くのはこの三人だ。いいな?」
「ええ。これ以上は足手纏いよ」
きっぱりと言い切る女に、思わず目を向ける。
「お前が一番場違いなんだよ……」
「何か言ったかしら?」
「……いや」
一つ、息を吐く。
「馬は二騎しかいない」
「十分よ」
「お前……馬は乗れるのか?」
「当たり前でしょう。行くわよ」
そのまま馬小屋へ向かう。
女はためらいなく、一頭の手綱を取り、軽く踏み切って鞍へ上がった。
その身のこなしに、思わず目を見張る。
「カルヴィ卿は私の後ろに。あなたは先導して」
「ああ……」
鞍に足をかけ、体を預ける。
視界が一段、上がる。
森の奥。
光の届かない闇が、口を開けていた。
その先を、ただ見据える。
「行くぞ」
手綱を強く引いた。
馬が踏み出す。
そのまま、森へと入った。
闇の奥へ。




