第10話 奪われるだけでは終わらない
煙が、真っ直ぐに立ち上っている。
「……火じゃない」
即座に、地を蹴った。
一瞬遅れて、背後から足音が重なる。
慌てたように、皆も走り出す。
視線の先——蔵の前に、人影。
その背後には、馬。
四、五騎。
少なくはない。
だが、多すぎる数でもない。
——来たか。
嫌な予感が、確信に変わる。
奥歯を、わずかに噛みしめる。
「……お前ら」
立ち止まり、振り返る。
「ここから先は来るな」
「だ、旦那……でも……!」
「いいから!」
間を置かず、叩きつける。
「いつも通りに隠れろ。音を立てるな」
有無を言わせず、言い放つ。
「——絶対に出てくるな」
皆の足が、止まる。
「……旦那……」
迷いの声が漏れた、その瞬間。
「行け!」
短く、鋭く叫ぶ。
それ以上は言わせない。
そのまま前を向く。
躊躇はない。
速度を上げる。
一直線に、蔵へ向かった。
近づくほどに、声が聞こえてくる。
「どこに隠した」
男の怒声。
わずかに訛った発音。
どこか響きが違う。
「言え!ここに逃げたのは分かってるんだ」
鈍い音。
何かが、打ちつけられる。
葉をかき分ける。
視界が、開けた。
——蔵の前。
見慣れた背が、地面に倒れている。
「……っ」
血に濡れた手が、土を掴む。
まだ、動いている。
褐色の肌をした兵が、その背を踏みつけていた。
砂にまみれた革鎧。
乾いた土地を渡ってきた痕跡が、そのまま残っている。
そのすぐ横に、もう一人。
胸ぐらを掴まれ、無理やり顔を上げさせられていた。
顔の左側が、大きく腫れ上がっている。
「言え!」
拳が振り下ろされる。
骨のぶつかる音が混ざった。
頭が横に弾かれ、口元から血が飛ぶ。
——やりやがったな。
息を、押し殺す。
そのまま、兵たちの前へ踏み出した。
「やめろ」
「あ?」
赤みの強い茶髪。
乾いた陽に焼けた肌。
口元に、歪んだ笑みを浮かべている。
「なんだお前」
「手を離せ」
「……は?」
男が鼻で笑った。
「おい、聞いたか?離せだってよ」
「随分ヒョロいのが出てきたな」
踏みつけたまま、笑い合う。
「ここは俺の領地だ。……その足をどけろ」
「領地だぁ?」
男たちは互いに視線を交わす。
赤茶の男が、掴んでいた手を乱暴に放した。
「ぐっ……」
体が崩れ、地面に叩きつけられる。
その背に、思わず足が出かける。
——行くな。
奥歯を噛み締める。
……今は、動くな。
拳を、わずかに握り直す。
視線を、無理やり引き戻した。
「お前が領主かよ」
「……そうだ」
「はっ、随分と立派なもんだな」
赤茶の男が、肩をすくめながら、一歩踏み込んだ。
「で?」
日に焼けた顔を、すぐ目の前まで寄せる。
「なんの用だ、領主様」
「……だ、旦那……」
足元から、かすれた声が漏れる。
倒れたまま、腕がわずかに伸びる。
視線は、動かさない。
「……何しに来た。目的は?」
「目的?」
男は、喉の奥で笑った。
「分かってるんだぜ?」
わずかに顔を傾ける。
「ここにいるんだろう?」
「逃げた奴だよ。見た奴がいる」
背後の兵が口を挟む。
「匿っても無駄だ」
一歩、さらに詰める。
「……どこにいる?」
動きが、止まる。
視線だけが、ぶつかる。
すると——
沈黙を破るように、蔵の中から声が上がった。
「おい、見ろよ!」
「なんだこれ……!」
「食料だ!」
「こんなにあるぞ!」
一斉に、視線が逸れる。
蔵の方へ。
蔵の脇で、湿った藁がくすぶっている。
細い煙が、真上へと立ち上っていた。
押し開けられた扉の奥から、煙がわずかに滲んでいる。
「げほっ……!」
咳き込む声。
その中から、袋が引きずり出される。
「ちょっと焚きすぎだろ」
「いいじゃねーか。こいつらは出てきたし、ついでにいいもんも見つけたんだ」
「こんなとこに隠し持ってるとはな」
「来て正解だったぜ」
「はっ、面倒だって言ってたのはどこのどいつだ」
笑いが重なる。
「おい」
短く、呼ぶ。
意識が、こちらへ引き戻される。
「それはうちの領地の分だ」
何人かが顔を上げる。
「……お前らの目的は、逃げた奴だな。ここにはいない」
「あ?嘘をつくな。見た奴がいるんだ」
「ここにいなきゃ、どこにいるってんだ」
「嘘じゃない。畑を荒らされてるのはこっちだ」
顎で、畑を示す。
「迷惑してる。森にでも潜ってるんじゃないか」
男たちは顔を見合わせる。
「……本当だろうな?」
「嘘をつく理由がない」
間を置かず、返す。
「……それもそうか。でも——」
赤茶の男の視線が、蔵へ戻る。
パンパンに詰まった袋に、目が止まる。
「こんなの見つけて、タダで帰るわけもいかねえよな?」
にたりと笑った。
——まあ、そうなるよな。
息を浅く吐く。
奥歯を噛み、すぐに力を抜いた。
——熱くなるな。
ゆっくりと視線を上げる。
「……全部持っていく気か?」
「ああ。文句あるのか?」
赤茶の男が、鼻で笑った。
「そうか」
肩を軽くすくめる。
「なら、話にならねえな」
「……なんだと?」
男の目が、細くなる。
手が上がりかけた、その瞬間。
「半分でどうだ」
言葉を差し込む。
「その代わり、うちには手を出すな」
「半分だと?」
「ふざけてんのか」
「最後まで聞け」
低く、遮る。
「全部持っていけば、俺たちは食えなくなる」
一歩、横へずれる。
背後を見せるように。
「畑も回らねえ。実ができる前に、枯れちまう。だが——」
視線をぶつける。
「残せば、次がある」
「……どういうことだ?」
男の眉が、わずかに動く。
「命乞いなら、無駄だぜ?」
——ッチ。
舌の奥で、小さく鳴らす。
ゆっくりと、背後を示す。
「ここには畑がある」
土の方へ、顎を向ける。
「半分残せば、俺たちは生き延びる」
一拍も置かず、続ける。
「畑も回る。……また作れる」
視線を、順に走らせる。
一人ずつ、確かめるように。
「そしたら——また食料が手に入る」
喉が、わずかに鳴る。
「どっちが得だ?」
男たちの視線が、揺れた。
「……」
「お前ら、ガルディアの兵だろ」
「……そうだ」
「正統なる王の兵だ」
後ろの男が、割って入る。
「なら——分かるはずだ」
一歩、踏み込む。
「持ち帰るのが一度きりか。それとも、今後も手に入るか」
静かに問いかける。
「どっちが上に喜ばれる」
誰も、口を開かない。
視線が、畑と袋の山を行き来する。
「……だがな」
赤茶の男が、ゆっくりと口を開く。
「タダで見逃せってか?」
「違う」
即座に切り返す。
「半分は持っていけ。収穫できたら、次も渡す。その代わり——」
わずかに間を切る。
「ここには手を出すな」
男が、短く息を吐くように笑った。
「はっ、おもしれえ。お前、国を売る気か?」
「それでも、領主様か?」
「……なんとでも言え」
短く吐き捨てる。
「こんな土地で、国がどうこう言っても始まらねえ。生き残る方につくだけだ」
男たちの笑いが重なる。
「いいだろう」
赤茶の男が、顎をしゃくる。
「今日は手を引いてやる」
振り返る。
「おい、そこにある半分を、馬に乗せろ」
「おう、分かった」
去り際に、視線を寄越す。
「また来るぞ」
「来るのは構わない。だが——収穫は先だ。……すぐには増えねえ」
「分かってるさ」
男が肩をすくめる。
「お前も相当、悪だな」
笑いながら、背を向ける。
袋を馬に積む音。
土を蹴る音。
それが、少しずつ遠ざかっていく。
やがて——
気配が、消えた。
次の瞬間、駆け出していた。
「おい……!」
膝をつき、肩に手をかける。
「大丈夫か」
「……旦那……すまねえ……」
「いい」
短く返す。
「よく持ちこたえた」
顔を上げる。
「おい、誰か——」
その声を、すっと切るように。
「カルヴィ卿」
女の声が落ちた。
「彼らを運んでちょうだい」
迷いのない声音。
「領主邸でいいわね?」
視線が合う。
状況を、すべて掴んでいる目だった。
***
怪我人をベッドに寝かせる。
ロイクが手当をしている。
血に濡れたままの手で、布を替え、傷口を押さえる。
「水を」
その声に、ニーナがすぐに動いた。
無駄がない。
言葉も、動きも。
私は、それを黙って見ていた。
さきほどの光景が、脳裏に重なる。
彼は、差し出さなかった。
ガルディアの侵入者を。
あの場で。
そして——奪われる前に、条件を切り出し、交渉した。
やられるだけで、終わらなかった。
正しさも、名誉も捨てて。
ただ、この土地を守るために。
生き残るために。
——ずっと、引っかかっていた。
回帰前。
あの戦乱の中で、なぜここだけが最後まで持ち堪えたのか。
小さく、目立たない辺境。
それでも——
生き残った。
……そういうこと。
小さく、息を吐く。
だが、このままでは、同じことを繰り返す。
もう、動き出しているのだ。
ロイクに目を向ける。
彼は淡々と、処置を続けていた。
その背に、すべてを背負うように。
わずかに、眉が寄る。
彼一人に、抱え込ませるつもりはない。
辺境であっても、守るべき民に変わりはない。
それが——
王妃となる者の、務めだ。
「一先ず、これでいいだろう」
ロイクの手が止まる。
「新しい水を持ってきてくれ」
「分かりましたわ」
ニーナが扉へ向かう。
それを見届けると、ロイクは壁際へ寄りかかり、そのまま腰を落とした。
「あなたも——」
声をかけかけた、その時。
「なあ」
ロイクの声が落ちる。
床に目を落としたまま、彼は続けた。
「方法があるって言ったよな」
「……ええ」
短く返す。
「奪われる前に、与える。主導権を握る、か」
息が、わずかに漏れる。
「……それ、さっきと同じだろう」
顔は上げないまま、吐き捨てる。
「結局、差し出すんじゃねえか」
「違うわ」
静かに、遮る。
「さっきは、奪われた。でも今度は——奪わせない」
彼の前に立つ。
「そのための“与える”よ」
ロイクの指が、わずかに動く。
「……本当に」
低く、押し出すように。
「それで、守れるのか。……皆を」
「ええ」
迷いなく答える。
「今なら、まだ間に合う」
沈黙が落ちる。
「……教えろ」
小さな声だった。
それでも、はっきりと耳に届く。
「どうすればいい」
その言葉に、口元がわずかに緩む。
——決まりね。
「もう時間がないわ」
ロイクを見下ろす。
「さっきの兵たち……放っておけば、必ずまた来る。——その前に、動くわ」
「……動く?」
ようやくロイクが顔を上げた。
「ええ」
その視線を受け止める。
「会いに行きましょう。本来、王であるべき者に」
深い緑の瞳が、わずかに揺れた。




