585 escape from 汚泥 begins
「“幸福なる汚泥”コルマリャ......?」
オマケ様が教えてくれた目の前の泥沼の名前を、思わず復唱する。
すると、つぶやくために少しだけ開いた私の口の隙間から、口内に汚泥の臭気が入りこんでくる。
非常に臭い。
不快。
思わず吐きそうになるのを、ぐっと堪える。
<はい。創世期にこの世界へと“落ちてきた”と言われる正体不明の汚泥......それがコルマリャです>
正体不明......。
<どこから来たのか、何を目的としているのか......その一切が謎です>
なんか、怖いね。
<ある時、とある神がコルマリャの正体を探るため、【読心】という権能を用いて、その心の内を探ろうとしたことが、ありますが......>
あります、『が』?
<直後、その神は満面の笑みを浮かべて笑い出し、周囲の制止を振り切ってコルマリャに飛びこみ、そして二度と、浮かびあがってはきませんでした>
そう言われて思い出すのは......さっき見た、三大獄卒ネツゾウの最後だ。
あの男も、『幸福』だのなんだのとブツブツ言ってから、嬉しそうに汚泥にダイブして、死んだ。
<とにかく、周囲の物を際限なく取りこみ広がり続けるという性質、神をも食らうその危険性、そして汚泥の一滴でも残っていれば復活するという不死性から、神々はコルマリャを危険な災厄と認定。先程お伝えした通り、“戦乱大陸”フォラストのちょうど中央あたりに、コルマリャを封印しました>
............。
<しかし、現在では封神が引き継いでいるその封印も完全ではなく、活動性こそ抑えられて周囲に広がることはないものの、コルマリャは神代より変わらず、依然としてそこにあり続けています。周辺住民からは、『帰らずの泥沼』と呼ばれ、恐れられているそうですよ。コルマリャに“呼ばれ”、そこに身投げする人間も、後を絶たないそうです>
............。
<......って、旅行神が配信の中で、言っていました>
やっぱり配信情報の受け売りなのか......!
<配信は、この世の全てを私に教えてくれました>
動画情報への妄信はやめて、なんか怖いから......。
「............」
ともあれ、厄介なことになったと、腕を組み牢の外を睨む。
足元では、私に近づこうとする汚泥がダメージ鉄格子に触れては電流のようなものが食らって弾かれることを繰り返し、鉄格子の向こうでは泥人間たちが、『おいで、おいで』と手招きをしている。
こっちは、檻の中なんだよ。
招かれたところで、行けないよ。
それがわかんないあたり、コルマリャの知能は、非常に低いのかもしれない。
<敵対勢力である三大獄卒たちが既に死んでしまったというのは、脱獄という点においては、プラスに働く要素ですが......>
その三大獄卒を容易く食べちゃった災厄が目の前に陣取ってるっていうのは、プラスの要素を大きく超えてマイナスですね!
ああーーー......もう!
なんでこんなやばいのが、こんな所にいるのさ!
<......何者かが、コルマリャの“分体”をこのデレネーゾ大監獄に運び入れ、解き放った。そういうことなんでしょうが......>
......分体?
<コルマリャは、汚泥ですから。コップですくってそれを瞬時に凍らせれば、別の場所に持ち運ぶことができます。今目の前にいるのは、そうして運ばれて......囚人だの看守だのを飲みこんで成長した状態の、コルマリャの分体なのでしょう>
わざわざ災厄を、運んだ!?
誰が!?
何のために!?
<それは不明ですし、エミーにとっては関係のないことです。目の前に、コルマリャがいる。それでも、脱獄しなくてはならない。それが、全てです。逃げる方法を、考えましょう>
そうは、言われてもさー......!
逃げるって、言ってもさー......!
私は何にもアイデアを出すことのできない頭を抱えて、むーむーと唸った。
唸って、唸って......。
そうすること、概ね5分!
状況が......動いた!
と、言っても。
私がナイスアイデアを、思いついたわけじゃない。
動いたのは、コルマリャだ。
この汚泥......それまではダメージ鉄格子に“触れては弾かれる”という動きを繰り返していたんだけど......突然!
鉄格子に、汚泥を細長く伸ばして作った触手を、巻きつけ始めたんだ!
バチバチッ!!
バチバチバチッ!!
鉄格子から稲妻が走り、コルマリャを焼く!
だけどコルマリャは、お構いなしだ。
焼け焦げようがどうなろうが、次々に鉄格子に汚泥触手を巻きつけ続ける。
むわりと、蒸気と共に耐えがたい悪臭が、コルマリャから発生する......!
もー、臭いよ!
やめてよ!
何やってんの!?
<エミー......これは、まずいかもしれません......!【魔力視】を発動してください!>
ここで脳内に響く、オマケ様の慌てた声。
素直に従い、【魔力視】でコルマリャを睨む。
すると見えるのは、魔力の流れだ。
鉄格子に流れている、稲妻を生み出すための魔力が......え、コルマリャに、流れ始めている!?
<あの汚泥、魔力を吸っています!じきにこの鉄格子は、魔法的な守護を失い、ただの棒きれに成りさがります!そうなれば......!>
コルマリャはついに、私に向かって押し寄せてくる......ってこと!?
脳内でそんな問答をしている内にも、どんどん状況は悪化していく。
バチバチとコルマリャを焼いていた稲妻は、次第にその勢いを減じていく......。
ついには鉄格子から、ミシリという音が、鳴った。
私は、思わず息を飲み。
そして。
「......【黒剣】ッ!!」
型も何も、あったもんじゃない。
ただただ力任せの斬撃を二振り、鉄格子に向かって放った。
右から左に横薙ぎ、次にその少し下を、左から右に横薙ぎ。
コルマリャに力を吸われきっていた鉄格子は、その二振りだけで、あっけなくバラバラに砕けた。
......そして、それと同時に!
まるで波のように、コルマリャが私に、押し寄せる!
「らあああああーーーーーーッ!!」
私はコルマリャの波に向かって勢いよく駆け寄り......それを跳び越えるように、跳躍!
牢から外に飛び出る!
だけど既に廊下は、広がった汚泥が作りあげた泥沼で覆われてる。
そこに着地はできない。
だから。
「【紙魚】ッ!!」
床には降りず、壁にはりつく!
そしてそのまま、その壁を、走る!
コルマリャがやって来たのとは......別方向に向かって!
<エミー!ちなみに、逃げるあては......!>
あるわけないよ、オマケ様!
わかってるでしょ!
でも、だからと言って......。
諦めて、あんな臭い泥沼に身投げをするのは、まっぴらだよ!
私は......生きる!
何が、あっても!
何を、してでも!
全力で壁を走り逃げる私を。
コルマリャは、それまでの緩慢な動きが嘘のように、津波となって押し寄せ、追いかける。
......出口の見えない中、捕まれば即死の鬼ごっこが、始まった!
◇ ◇ ◇
そんな、エミーの様子を。
監獄内に設置された監視カメラのレンズを通して......モニター越しに、観察していた“女”がいた。
「ふむ」
女は顎に手をあて、少しだけ思案すると。
モニターの下に備えつけられたキーボードを......横に置いた分厚い冊子を時折眺めながら、カタカタと叩き始めた。




