338 殴れ恐怖のはちみつ男!
「ふん、ふふ、ふふん」
ちょうど日付が変わり、『夜明けの日』が始まった、深夜。
その女性はタバコをくわえながら、上機嫌に鼻歌を歌いつつ、王都の裏通りを自宅に向かって歩いていた。
化粧も濃く露出も激しいこの女性は、飲み屋で働いている。
通常であれば、日がのぼるまで開いているような店だ。
彼女も普段は、朝になるまで勤務している。
しかし、この『夜明けの日』。
彼女は、愛しの男性とのデートを予定しているのだ。
だから店主に頼みこみ、早上がりをさせてもらった。
その代償として、『頑張れよ!』などと他の店員や客から盛大に応援され送り出されるという恥ずかしいイベントが発生し、思わず顔が真っ赤になったが。
お相手の男性は大人しく、口数も少ないが......包みこむような優しさを持つ人だ。
派手な外見から偏見を持たれやすい彼女のことも、ちゃんとその内面を見てくれる、誠実な人だ。
出会いの時こそ、お互いに良い印象は持っていなかったが......今ではすっかり、相思相愛である。
そして今回のデートで、おそらく彼は、彼女との関係を一段階、進めようとしてくるだろうということを、彼女は察していた。
つきあい始めてそれなりに時間も経つし、彼は最近こそこそと隠れながら、彼女に贈る何がしかを準備していたからだ。
彼は本当に隠し事が下手なので、彼女は彼の動きをあっさりと見抜いていたが、それを指摘するなんて無粋な真似、するわけがなかった。
彼は、何をしようとしているのか?
そんなことは、推理するまでもない。
きっと。
プロポーズ。
結婚の申しこみだ。
「ふふん、ふふふ、ふふふふふ!」
ふわふわと、夢見心地。
彼女は幸せに、包まれていた。
「............?」
だが、しかしここで。
彼女はふと、その歩みを止めた。
数少ない裏通りの街灯の下で。
ぽつんとたたずむ......怪しい男の姿を見つけてしまったからだ。
それは、ボロ布のようなローブを身にまとい、がりがりにやせこけた、中年の男だった。
男は両手で何やら重そうに、粘度の高そうな液体がなみなみと注がれたバケツを抱えながら、ぶつぶつ、ぶつぶつと、意味の分からないことをつぶやいている。
(こわっ)
本能的にその男の危険性を察知した女性は、なるべく道の端を歩き、男と距離をとりながらその場を通り過ぎようとした。
しかし、その時。
ずっと地面の石畳を見つめてぶつぶつ言っていた男が、急に顔をあげ。
彼女と、目をあわせた。
そして、不気味に、ひきつるように。
......にやりと、その口角をあげたのだ。
「ひっ!?」
恐怖を感じた女性はすぐさま走り出し、その場から逃れようとした。
だがしかし!
「『風よ、強く吹き、押し倒せ!【ウィンドプッシュ】!』」
「あっ!?」
それは、叶わなかった。
何故なら女性は、その怪しい男の放った魔法に襲われ、その場に倒れこんでしまったからだ。
その魔法は、威力の低い非殺傷用攻撃魔法ではあるが、だからと言って、決して一般女性に向けて放って良いものでは無い!
非道な行いだ!
「ぐふ、ぐふふ......貴様、平民の割には、見目の良い女だな」
その怪しい男は、バケツを抱えながら、ゆっくりと女性に近づいてくる。
目を爛々と輝かせ、口からはだらだらとよだれを垂らし続けるその様は、どう見ても正気ではない。
「ひ......ひぃっ!」
女性はその場から逃げ出そうともがくが、恐怖のあまり腰が抜け、体が震えて、うまく動けない!
一歩、二歩。
その男が近づくにつれ強くなるのは、男の体中から漂う酒の匂い......それと、甘い匂いだ。
この甘い匂いは、はちみつの匂いである。
男が抱えるバケツには、大量のはちみつが入っているのだ。
「どうせ、王都は滅ぶ......皆、死ぬのだ......おい、女......貴様を、このオレの、最後の女にしてやろう。王の女だぞ!名誉なことだぞッ!!」
はちみつ男は訳の分からないことを叫びながら、いやらしく笑った!
「きゃあああああーーーっ!!」
女性は恐怖のあまり絶叫をあげる!
その様を嘲笑いながら、はちみつ男が、迫る!
既に二人の距離は、1メートルも離れていない。
はちみつ男は抱えていたはちみつバケツを片手で持ち直し、酒臭い息を吐きながら、ぐふふと不気味に笑って女性に手を伸ばした。
もはや、絶体絶命である。
(誰か......誰か、助けてっ!!)
女性は恐怖で震えながら、心の底から、強くそう願った!
......その時だった!!
ドッ......!
まず聞こえたのは、そんな音だった。
そして目に飛びこんできたのは、小さな少女が猛烈な勢いではちみつ男にとびかかり、その頬を、思いきり殴りつけるという光景だった。
ゴオオオオオオンッ!!
次いで聞こえたのは、そんな音だった。
慌てて音のする方向に顔を向けると、それは、少女に殴りつけられたはちみつ男が吹き飛ばされ、裏通りの石壁に頭からめりこんだために生じた、衝撃音であることがわかった。
くる、くる、くる。
はちみつ男の持っていたはちみつバケツが、遅れて宙を舞い。
どぼり、と。
石壁から、下半身だけを突き出した状態で埋まっている男にぶつかり、その尻をはちみつまみれにした!
「............!」
ここで、女性は再び、視線を目の前に戻した。
今、女性の目の前に立っているのは、黒髪黒目の、少女だ。
(あ......)
女性は、その少女に見覚えがあった。
この子は、以前この裏通りで、お花屋さんごっこをしていた、女の子だ。
だがしかし、以前会った時と比べると、その印象はかなり異なる。
以前の彼女は、スカートにエプロンをつけた、可愛らしい町娘といった恰好をしていた。
今は、違う。
現在の彼女は、その全身に、時折錆びたような赤色が浮かびあがる、どす黒くてとげとげとした、細身の鎧のような装束を身にまとっていた。
そして、まるで蒸気のように、体中からどす黒い靄のような何かを、噴出している。
礼を。
礼を、言わなくては、ならない。
女性はそう思ったが......恐怖のあまり、声にならない。
ぱくぱくと、口が動くだけだ。
そして......そうこうしている間に、事態が動く。
ピカァッ!
ピカッ、ピカァッ!!
突然、大通りの......第一広場の方向から。
尋常では無い量の、紫色の眩しい光が発せられたのだ!
「............」
黒髪黒目の少女は、その光の方向を見やり、少しだけ思案すると......。
ぴょんと、一跳び。
軽々と、建物の屋根へと跳びあがり、屋根伝いに第一広場に向かって、駆け始めた。
「あ......」
瞬く間に、少女の後姿は見えなくなり。
そこでようやく女性は、そんな声を漏らした。
その時、女性の頭の中に、浮かんでいた言葉。
それは、この国の人間であれば、誰しもが知っている英雄の二つ名であった。
黒髪黒目で。
決して、表立っては、語られることの無い。
その、英雄の名は。
「“死神”......!」
もちろん、あの少女が、死神であるわけがない。
だがしかし、思わず。
口をついて、出てきたのだ。
死神と、重ねざるをえないほど。
少女の姿は、恐ろしく、悍ましく。
そして......凛々しく、勇ましかったから。
女性のそのつぶやきは......誰かに届く、こともなく。
静かな静かな裏通りの闇に吸いこまれ、そして消えていった。




