330 (白縁)焦燥 11時44分
「......故に、だ。コンプライアンスの遵守という概念は、我々暗殺者にとっても決して無視すべきものではないということだ。ははは、もちろんイリーガルな仕事こそが我々のミッションであるからね、全てにおいて、というわけにはいかないが。だからこそ、私は思うんだ。『我々が、スタンダードになれないかな?』ってね」
「はー、へー、ふーん」
路地裏を歩きながら、両手をせわしなく動かし、陶酔したかのように己のビジョンを語り続けるアンビシャスを先導しながら、ナイフハンドは適当に相槌をうっていた。
彼女はもともと、このアンビシャスと相性があまりよろしくない。
難しい言葉を聞いていると、いらいらして殺したくなってくる性質なのだ。
だからこそ彼女は本部を離れ、アーシュゴーへと赴任していたのに。
(ま、良いや。一時の我慢だ)
先導しているが故に、彼女の表情はアンビシャスには見えない。
だからナイフハンドはあくびを噛み殺しながら思いきりしかめ面をしたまま、アンビシャスの案内を続けていた。
「さ、着いた......と」
さて、少しの間迷路のような路地裏を歩き、彼らがたどり着いたのは寂れた廃教会だ。
壁には穴が開き、屋根からは草が生えている。
とてもじゃないが、人の生活感は見受けられない。
「ふむ、ここが?」
「はいっす。今の拠点っすよ......『いやあ、酷い雨だった』」
ナイフハンドはパンの袋を抱えつつ、妙なことを口走りながら、廃教会のぼろぼろの扉を潜った。
本日の天気は、晴れ。
故にそれは、何らかの符丁である。
「............」
アンビシャスはその符丁を聞き、一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐにいつもの笑顔を浮かべ、それをごまかした。
彼はその符丁が、気に入らなかった。
何故ならそんな符丁なんて、彼は知らなかったからだ。
つまりそれは、この地に派遣している暗殺者連中が、独自に定めたものだ。
(同一組織内での、規格の多様化、複雑化......生じるディスコミュニケーションと、組織内不和......これは是正すべきか、否か......いずれは考えるべき課題ではある、か)
将来の組織像へと思いを馳せ、一瞬立ち止まったアンビシャスだが、ナイフハンドはそんな彼を気にもとめず、どんどん先へと進んで行く。
アンビシャスは頭を振って思考を打ちきり、急いでナイフハンドを追った。
◇ ◇ ◇
アンビシャスは、焦っていた。
余裕綽綽とした、やり手の経営者然とした雰囲気を醸し出してはいるが、その実非常に焦っていた。
何故なら今、『紫ノ二ツ輪』本部は、とある暗殺依頼の失敗が原因で、壊滅状態だからだ。
彼の子飼いの部下たちは、皆死んだ。
至急の組織立て直しが、必要なのだ。
だがしかし、だと言うのに。
彼が本部から組織の第二拠点とも言えるこの場所までたどり着くまで、非常に時間がかかってしまった。
その理由の一つが、アンビシャス自身が抱えてしまった、トラウマである。
暗黒トゲトゲ岩石マン。
理外の、バケモノ。
草の茂み、岩の影、あるいは......ゴミ捨て場。
いつもいつも、と言うわけでは、ないが。
少しでも、人が隠れられそうな場所を見つけると、アンビシャスは......とてつもない恐怖に、襲われるのだ。
『あそこに、暗黒トゲトゲ岩石マンが、潜んでいるのではないか?』という、恐怖に!
そして、頼りにしていた手駒たちがなすすべなく蹂躙され皆殺しにされた、とある冬の日の出来事の記憶が、フラッシュバックするのだ。
もうそうなると、彼は体の震えが止まらなくなり、まともに行動できなくなる。
そんな状態でも、切り札の異能【戦獣変身】を使って戦意を高揚させれば、無理やり体を動かすことはできる。
しかしこの異能は肉体的な消耗が激しい。
一度使えば、一、二週間は動けなくなる。
故にこの異能を使った方が、トータルでの移動速度は遅くなる。
と言うか、道中何度か暴発して狼男形態に変身してしまい、実際かなり、そのせいでアーシュゴー国王都への到着が遅れた。
そして理由の二つ目が、現在のアーシュゴー国の状況である。
この国は少し前に、魔族の介入が原因で、大規模な政変があった。
国民にはある程度情報を伏せているようだが、アンビシャスのような闇社会の住人からしてみれば、その隠蔽はお粗末なものだ。
少し調べれば、情報はすぐに集まる。
とにかく、政情が不安定であるために、現在この国では、衛兵連中が非常に気をはっている。
もともとアンビシャスは暗殺者。
必然的に、お尋ね者の身だ。
動きづらくてしょうがない。
最後に三つ目の理由だが、それは彼が今たどり着いた、この拠点の場所である。
アーシュゴー国内の拠点は、もともと別の場所だった。
それが勝手に、変えられていたのだ。
これにはアンビシャスも、酷く困惑した。
おそらく、先ほど述べた政変も影響し、場所を変えざるを得ない理由があったのだろうが......とにかくそのせいで、アンビシャスは王都にたどり着いてからもしばらく、『紫ノ二ツ輪』構成員と、接触することができなかったのだ。
探して、探して、探して......ようやく探し当てたのが、ナイフハンドであったというわけだ。
とにかく。
組織を立て直すためには、このアーシュゴーの第二拠点の暗殺者連中を早急に彼の指揮下におくことが必要だ。
しかし先述した3つの理由があって、それはかなり、遅れている。
故に、アンビシャスは、焦っていた。
だから、致命的なミスを犯した。
以前の彼であれば、決して犯すことの無いはずの、ミスを。
......彼は、将来の組織運営について頭を悩ませている暇など、無かったはずなのだ。
彼は、考えるべきだった。
警戒するべきだった。
『いやあ、酷い雨だった』。
この符丁の......意味について。




