彼と彼女の不毛な口論
手を握った奈月は何を言うでもなく私をじっと見つめてくる。私が再びソファへと座るのを待っているのだと思う。
私はしばらく、奈月を見つめてしまって声を出すことも、その場所を離れることも出来なくなってしまっていた。
「……離してくれないかしら?」
数秒経ってから、私は声を出す。気を緩めれば今にも涙が出てしまいそうな、きっと酷く弱々しく震えた音が奈月に聞こえただろう。
いつもなら私がこうやって言えば「ご、ごめん……」なんてしょんぼりと落ち込みながら手を引っ込めるのだろうけど、奈月は手を軽く握ったままだ。
……優しい握り方。振りほどこうとすればきっとすぐに離れていってしまう。
私を止めたいという決意と、怪我をさせたり握った跡をつけたくないという気持ち。
握り方だけでこいつが考えている事が想像できてしまって、心配になってしまうくらい素直な人間なんだと改めて感じさせられる。
「ごめんね。……でも、話をしないと麗さんが遠くに行っちゃう気がしたんだ」
「……自分の部屋に帰るだけよ」
そうは言ったけれど、きっと部屋に戻ってしまえば、そこから私は奈月と距離を取ることを決め込んでしまうだろう。
奈月もその事が分かっているのか、そう言った私の手を掴んで離さない。
私はその姿に根負けしてしまって、もう一度ソファへと腰を落とす。
奈月に背を向けるようにして、子供のように拗ねて呟きを漏らす。
「……少しだけ、聞いてあげる」
「……うん!」
何が嬉しいのか奈月の声はさっきまでの落ち着いた諭すようなものから、跳ねるような嬉しそうな声で答える。
私は奈月から背を向けたまま、けれど決して声を聞き逃さないように自分に落ち着くよう言い聞かせながら話を聞き始める。
「僕ね、麗さんが言ったように自分の事を最低だって思いながら、麗さんに好きだって言ったんだ」
「……そうなのね。……まあ、どうでもいいわよ」
どうでもいい、なんてはずは無い。
……だって、私はこいつの事が好きなのだから。
奈月は声を落として喋り続ける。
「きっと昨日はどうかしてた、って言いたいけどね。そんな事ないって改めて思うんだ。……麗さんの事、好きだから」
「……最低ね」
私の口から思ってもいない昨日の焼き直しのような言葉が出てくる。
……奈月が立場上、私に気を使ってくれた事も考えず、ただただ意地を張って吠えるだけ。
「……分かってる。これがエリスへの裏切りだって事。二人以上の女の子に平然と好きだって言ってのけるなんて最低な人間のする事だって、分かってる」
「だったら、なんでよ……! わかってるんだったら、なんで……!」
なんで、私なんかに好きだって言ったの。
視界がにじむ。頬を涙がなぞっていく。
奈月の言葉を受けて、胸が痛くなる。
「……言った通り。麗さんの事が、好きだから」
「嘘! そんな訳……そんなの、嘘よ!」
気付けば、立ち上がって奈月に思いっきり怒りをぶつけていた。
「私が、あんたに好かれるはずなんてない!」
滅茶苦茶だ。本人の言葉を勝手に捻じ曲げて、押しつぶそうとする。
そんな身勝手な言葉を思いっきり奈月にぶつけてしまっていた。
奈月と顔が合う。一瞬、驚いたように目を軽く見開いたけれど、すぐに私の方を見て、続きを話し出す。
「……麗さん、エリスに似てるんだ。嘘がつけないところとかさ、ゲームが好きなところとか。負けず嫌いなとこもそうだし、優しいところもそうだ」
「だから好きって? ……何よそれ、代役って事じゃない」
無神経にそうやって苛立ちをぶつける。……だいたい、私が優しいなんてそんなの、おかしいだろう。
奈月は私の言葉に苦笑を浮かべて答える。
「確かに。エリスの代わりだって考えてたのかもしれない。言われて初めて気付いたよ。……やっぱり、クソ野郎だね、僕は」
「……そう、最低の男よ。……大体、私みたいな性格の悪くてうっとおしい女、あんたの想い人とは似ても似つかないでしょう?」
現に今、奈月の喋る一言一句にいちいち文句をつけている。
これを性格が悪いと言わずして、何と言えるのか。
……だけど、その言葉を聞いて奈月は落ち込みながらも心なしか嬉しそうな声音で答えてくる。
「……はは。やっぱり、麗さんはエリスとは違うんだ。……うん、やっぱり違うよ。僕は麗さんにエリスを重ねてるわけじゃないんだ」
「……なんでそう言えるのよ」
まるで人に好かれる理由なんてない私の事を、なんでそんな、楽しそうに話すのよ。
「だって、麗さん。無理してでも相手をしてくれてるもん。……ずっと足が、震えてる。……エリスなら、不快に思った時点で知らんぷりしてる」
「……気のせいよ。貧乏ゆすりが酷いだけ」
「その事もね、同じ事を言われたらエリスなら絶対に認めるんだ。……それも一つ、違うとこ」
奈月は落ち着いた声音になって話し続ける。
「……こんな話、麗さんとは関係ないはずなんだよね。僕は麗さんの婚約者で、ほかに恋人も好きな人もいないはずだもの」
「そうね、あんたの勝手な妄想じゃないの?」
……悪態をつく時だけはすらすらと言葉を並べられる。
なんでこんなに意地っ張りなんだろうか。
こいつがその子を大事に思っていたことくらい、私にだって分かるのに。
私の言葉に奈月は声を落としながらも喋る。
「そうなのかもしれない。けど、僕には一年半、エリスと過ごした記憶があるから」
そういうと、奈月は突然さっき消したゲームの電源を再び入れる。
無言でコントローラを操作すると、トレーニングモードを開いた。
そこでなぜか嬉しそうに電気ネズミのキャラクターでステージ上を縦横無尽に駆け回らせる。
あのキャラを使った事があるから分かるけれど、移動技が思った方向に行かないのですぐ使うのをやめてしまった。
しかし、奈月はその技を正確な方向に、さらにはそれを続けながら喋り出した。
「これさ、エリスと一晩中練習したんだ。それも一回だけじゃなくて三回くらい。これが出来るようになるだけで十五時間くらいかかったんじゃないかな」
「暇だっただけじゃない。……まあ、凄いとは思うけど」
「あはは、確かにもっとやるべき事なんていくらでもあるもんね。……えっと、何が言いたかったんだっけ」
そう言うと、手を止めて奈月は少し考えるような素振りを見せた。
「……ああ、そうだ。エリスがいた証拠は全部消えてしまった。……けど、これは僕が彼女と一緒に過ごした証明なんだ」
「……それを私に聞かせて、何を言いたいのよ?」
「ええっと……」
奈月は言い淀む。
……さっき話とは関係なく楽しそうにゲームしてたから、分かんなくなったんじゃないのかしら?
なんて私が思って声を掛けようとしたその時、奈月が声を上げる。
「そうだ、だからね。麗さんが謝る必要なんて必要ないって話」
そんな、文脈を無視した発言が飛び出してきた。
私はどういう理由でそうやって奈月が考えたのか分からず聞き返す。
「……何を言ってるの?」
「あ……ごめん。意味不明だったかな」
「そうね。だって、昨日のは全面的に私が悪いもの」
「そんなことないよ」
「……慰めならいらないわ」
そうやって私が言うと奈月は首を横に振ってくる。
「……ううん、違うよ。昨日の事は麗さんが許してくれるなんて身勝手な事を考えた僕のせいだもん。だから、二人の女の子を自分本位に好きになってしまった僕のせい」
そこから、奈月は明るい声で話し出す。
「僕は逃げたかったのかもしれないね。エリスも、麗さんも裏切れない自分の立場から、逃げたかったんだ」
「裏切れないなんて、大げさよ。……だって、婚約者なんて形だけじゃない。無かったことになんて簡単に……」
婚約者を裏切れないなんて、そんなこと考える必要なんてない。……別に、お互いがお互いを好きってわけじゃないんだから。
「会ってすぐにでも、相手を嫌いになって、相手に嫌われれば何も起こらなかったはずなんだ」
「……だったら、なんで好きなんて言ったのよ! 私なんて、無視して蔑ろにすればよかったのに!」
「……相手が麗さんじゃ無かったらそうしない理由も無かったかもしれないね」
「私があんたの想い人と繋がるための道具だからかしら?」
「……随分と自虐的だね、違うよ。……麗さんが、僕にとって魅力的だったからだ」
「……バカにしてるのかしら? 私はいいところなんて何一つ無いのよ。能力も人格も容姿も、全部。魅力的なんてわけないじゃない」
そうやって私が言うと、奈月は真剣な表情になって見つめてくる。
……思わず目を逸らす。
その一瞬の間隙に差し込むようにして奈月は喋る。
「……そうだね。確かに、好きだとは言ったけど、どこがとは言ってないもんね。……じゃあ、麗さんが僕から離れたいって言うなら最後、君に惚れたバカのセリフを聞いてほしい」
そう言った奈月はあるはずのない私の魅力を喋り始めた。




