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第四話 アクアマリンの涙

 アパートから帰った夜。

 シャワーを浴びても、火照りが消えない。

 背中に残った体温。

 耳元にかかった吐息。

 布団に入っても、目が冴える。

 隣では健司が寝息を立てている。

 しばらく迷ってから、香澄はそっと肩を揺らした。

「……ねえ」

 健司がうっすら目を開ける。

「なに……?」

「久しぶりに……どう?」

 自分の声が、思ったより小さい。

 健司は一瞬きょとんとした後、目を閉じた。

「今日は疲れてるんだ。悪い、寝かせてくれ」

 それだけ言って、すぐに寝息に戻る。

 取り残された静寂。

 胸の奥が、ひどく虚しい。

(私は、何を埋めようとしてるの?)

 天井を見つめながら、香澄は目を閉じた。


 料理教室の日。

 エプロン姿の慧一を見つけた瞬間、胸が跳ねる。

 来ている。

 来ないでほしいと思ったはずなのに。

 手本を見せ、淡々と説明をする。

 包丁の持ち方、火加減、塩のタイミング。

 いつも通り、生徒たちの間を回る。

 慧一の前に立ったとき、彼が小さな声で言った。

「この前は……すみませんでした」

 香澄の心臓が強く打つ。

「もう、しません」

 まっすぐな目。

 反省の色。

 その言葉に、ほんの一瞬、がっかりした自分がいた。

 謝ってほしかった?

 違う、本当は別の言葉を。

 あれは本気でした、と。

 そんな言葉を、どこかで期待していた。

 ぞっとする。

「大丈夫。気にしないで」

 平静を装う。

 でも、胸の奥で自分を責める。

(何を期待しているの、あなたは先生でしょう)


 それ以降。

 慧一は、生徒として接した。

 質問も丁寧に、距離も守って。

 香澄も、先生として応じる。

 それは正しい形。

 安心する。

 でも同時に、どこかが冷える。

 あの日の熱は、なかったことのように消えていく。

 それに安堵しながら。

 それに、寂しさを感じながら。


 数ヶ月後。

「最近、慧一くん来ないわね」

 片付けをしながら、香澄は何気なく彩乃に聞いた。

 彩乃は少し驚いた顔をしたあと、ああ、と笑う。

「言ってませんでしたっけ?」

 胸が、ざわつく。

「慧一、この前プロポーズされて。今度、結婚するんです」

 一瞬、音が遠のく。

「お相手、私と年の近い職場の上司なんですけど、バリバリのキャリア志向で。結婚しても仕事続けるって」

 彩乃は肩をすくめる。

「で、子どもできたら慧一が家庭に入るって言ってるんですよ」

 軽い調子。

「別に主夫にさせたくて料理教室誘ったわけじゃないんだけどね」

 苦笑する。

「まあ、慧一の人生だし。二人で選んだ道なら、私が口出しすることじゃないですけど」

 香澄は、ほんの一瞬だけ目を伏せる。

 胸の奥が、静かに締めつけられる。

 あのベッド、あの吐息、あの体温。

 全部、もう自分とは無関係の未来に続いている。

「……そう」

 声が、少しだけ掠れた。

「慧一くんに、おめでとうって伝えて」

 彩乃はにこっと笑った。

「伝えますね」

 教室の窓から入る光が、やけに明るい。

 香澄はエプロンの紐を結び直す。

 胸の奥の小さな痛みを、誰にも気づかれないように。


 一ヶ月後。

 あの日の夜を、何度も思い出す。

 背中の体温、耳元の吐息。

 視界に入った、あのベッド。

 もし、帰らなかったら。

 もし、振りほどかなかったら。

 何度も頭の中でやり直しては、最後の一線を越えた自分を想像してしまう。

 そのたびに胸が熱くなり、同時に、冷える。

 悶々とした日々が続いていた。


 ある日の料理教室。

 片付けをしていると、彩乃がふと思い出したように言う。

「そういえば昨日、旦那さんジュエリーショップで見かけましたよ」

 香澄は手を止めた。

「……え?」

 健司とジュエリー。

 どうしても結びつかない。

 ネクタイ売り場ならまだわかる。

 工具店なら、もっとしっくりくる。

「もうすぐ結婚記念日ですよね?」

 彩乃がいたずらっぽく笑う。

「ひょっとして、香澄さんへのプレゼントじゃないですか?」

「まさか」

 思わず苦笑する。

「あの人が、そんな気の利いたことするとは思えないわ」

 でも、心のどこかが、小さく揺れた。


 帰り道。

 彩乃の言葉が、何度もよみがえる。

『そういえば昨日、旦那さんジュエリーショップで見かけましたよ』

 ふと、別の考えが浮かぶ。

(若い女性への、贈り物では?)

 その瞬間。

 胸の奥に、怒りが湧き上がる。

 私は、ずっと家庭を守ってきた。

 食事を作り、洗濯をして、直人を育てて。

 その私に対して、それ?

(問い詰めてやる!)

 そう思った瞬間、あの夜の記憶が、閃光のように走る。

 背中の体温。

『もう少し、一緒にいてもらえませんか?』

 もし本当に健司が誰かに贈り物をしていたとして。

 私は、責められるの?

 私は、何一つ揺らがなかったと、言い切れる?

 怒りが、急速に萎む。

 代わりに、重いものが胸に沈む。


 その夜。

 健司はいつも通り帰ってきた。

「ただいま」

 声も、顔も、変わらない。

 香澄と直人はすでに夕食を済ませている。

 直人は自分の部屋へ戻った。

 香澄は健司に料理を出す。

 向かいに座り、何気ないふりをして聞く。

「どう?」

 健司は箸を動かしながら。

「うまい」

 いつも通りの言葉。

 問い詰める言葉は、喉まで出かかったまま消える。

 食事を終え、健司は風呂へ。

 出てきたあと、いつものように「寝る」と言うのだろうと予想する。

 けれど。

「仕事が片付いたから、明日は早く帰る」

 そう言って、寝室へ向かった。

 香澄は、その背中を見つめたまま動けなかった。


 翌日。

 二十年目の結婚記念日。

 どうせ、覚えていない。

 そう思いながら、料理を作る。

 少しだけ、いつもより手の込んだもの。

 期待なんてしていない、していないはず。


 夕方。

 スマホが鳴る。

 健司からのメッセージ。

《もう少しで家に着く》

 こんな連絡、普段はない。

 胸がざわつく。

 直人が帰ってきて、テーブルの料理に手を伸ばす。

「こら、待ちなさい。もうすぐお父さん帰ってくるから」

「なんか今日豪華じゃね?」

「……記念日だから」

 直人が「へえ」と笑う。

 玄関の音。

「ただいま」

 振り向く。

 健司の手には、花束。

 思考が止まる。

 無言で、差し出される。

「……何で?」

 間の抜けた声が出る。

「ちょうど、二十年だからな」

 照れくさそうに、視線を逸らす。

「それから、これ」

 もう一つ、ジュエリーショップの紙袋。

 震える手で開ける。

 中には、アクアマリンのネックレス。

 香澄の、誕生石。

 覚えていた。

 知らない女性なんかじゃない。

 私のため。

 視界が滲む。

 涙が、こぼれる。

 歓喜なのか、安堵なのか。

 それとも、罪悪感なのか。

 わからない。

「……あなた、ごめんなさい」

 ぽつりと出た言葉。

 健司は眉をひそめる。

「泣くやつがあるか」

 ぶっきらぼうに言って、香澄を抱きしめる。

 十九年ぶりに感じるような、確かな腕、安心する匂い。

 その光景を見ていた直人が、少し呆れた顔で言う。

「イチャつくなら、俺がいない時にしてくれよな〜」

 一気に空気がゆるむ。

 香澄は涙を拭き、笑った。

「さあ、ご飯にしましょう」

 二十年、簡単じゃなかった。

 でも、ここにあるものは、確かに本物だと。

 初めて真正面から思えた。

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