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最終話 ありがとうの夜景

 十年後。

 香澄と健司は、ハワイに来ていた。

 健司がまだ現役の頃、何気なく言ったのだ。

「定年したら海外でも行くか」

 その約束を、ちゃんと覚えていた。

 香澄の首元には、あのアクアマリンのネックレス。

 淡い水色が、南国の光を受けて静かに揺れている。

 直人は家を出て、彼女と同棲中だ。

 実家に顔を出したとき、香澄が聞いた。

「もう一年経つのに、結婚しないの?」

「まあ、そのうち」

 健司に似た、どこかのんびりした返事。

 料理教室も、まだ続けている。

 生徒は少し入れ替わったけれど、台所に立つ時間は変わらない。


 二人はあちこちを巡った。

 ワイキキの浜辺を歩き、ダイヤモンドヘッドに登り、ノースショアで海を眺め、カカアコの街並みを散策した。

 若い頃なら、もっとはしゃいだのかもしれない。

 今はただ、隣にいることが心地いい。


 最終日前日。

 タンタラスの丘。

 ホノルルの夜景が、宝石のように広がっている。

「きれいね」

「ああ」

 短い返事。

 香澄は、夜景ではなく健司を見る。

 皺が増えた。

 体重も増えた。

 頭頂部は、少し寂しくなった。

 けれどそれは、劣化ではない。

 人生を、一つ一つ積み重ねてきた証。

 出会った頃、健司は趣味でフットサルをしていた。

 社会人サークルに入り、週末は汗を流していた。

 交際中、香澄は応援に行ったこともある。

 結婚し、直人が生まれ、健司はフットサルをやめた。

 それからは仕事一筋。

 趣味にお金を使うことも、自分の時間を優先することもなかった。

 かつて香澄は思っていた。


――自分が一人で家庭を守っている。


 家でくつろぐ健司を見て、何もしていないと腹を立てたこともある。

 でも違った。

 この人は、外で戦っていた。

 家庭を守るために。

 その事実が、今さらのように胸に染みる。

 小さく、言葉がこぼれる。

「ありがとう」

 健司が振り向く。

「何か言ったか?」

「ううん、なんでもない。それより、帰ったらどうするの?再雇用の話、来てるんでしょ?」

 健司は夜景を見たまま言う。

「うーん。蓄えもあるしな。今までおまえとの時間もあんまり取れてなかったし。もう無理して働かなくてもいいかなと思ってる」

 香澄は目を丸くする。

「あなた、仕事が大好きなんだと思ってた」

「やり甲斐はあったけど、別に好きってほどじゃないぞ」

 意外な答え。

 香澄は健司のお腹を軽くつまむ。

「それなら運動でも始めて、このお腹の肉を少しは落としたら?これ以上太ったら体に悪いわよ」

 健司が笑う。

「おまえの作る料理がうまいからだろうが」

 その言葉で、旅行中のことを思い出す。

 レストランで、香澄が。

「これ美味しいわね」

 と言っても、健司は。

「そうか?」

「まあまあだな」

「あまり好みじゃないな」

 と、素直な感想を言う。

 一度も、「うまい」とは言わなかった。

 その時、香澄はようやく理解した。

 この人の「うまい」という三文字は、簡単に外で使う言葉じゃない。

 あれは、二十年、三十年と積み重ねてきた、私への最大級の賛辞だったのだと。

 料理だけじゃない。

 日々への感謝、信頼、愛情。

 全部まとめた、ぶっきらぼうな三文字。

 夜風が、ネックレスを揺らす。

 今度は、こぼれ落ちた言葉じゃない。

 ちゃんと、届くように。

「あなた」

「ん?」

「ありがとう」

 健司は少し照れくさそうに目を逸らし、

「ああ」

 とだけ言う。

 それだけで十分だった。


 タンタラスの丘から見える街の灯り。

 空に瞬く星。

 情熱ではなく、穏やかに、澄んだ水のように。

 二人の時間は、これからも流れていく。




─完─

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