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第三話 鍵

 その日は、他の生徒が急な用事で来られなくなり、

 キッチンにいるのは慧一だけだった。

 広い作業台が、やけに静かだ。

「今日はマンツーマンですね」

 慧一が笑う。

「そうね。贅沢でしょ?」

 冗談めかして返すが、心臓が少し落ち着かない。

 意識しないようにすればするほど、かえって意識してしまう。

 包丁を握る慧一の横顔。

 真剣な目。

 以前よりずっと危なげのない手つき。


「できました」

 皿を差し出す。

 焼き色もきれい、盛りつけも悪くない。

「だいぶ上達したわね」

 本心だった。

「先生のおかげです」

 まっすぐな笑顔。

 胸が、どくんと鳴る。

 その呼び方が、やけにくすぐったい。

「ねえ」

 香澄は、ほんの少しだけ息を整えて言った。

「みんなと同じように、香澄って呼んでいいのよ」

 一瞬、間があく。

「じゃあ……香澄さん、で」

 爽やかな笑顔。

 その響きが、耳の奥に残る。

 さっきより、距離が近い気がする。

 落ち着いて。

 ただの名前。

 ただの生徒。

 香澄は深呼吸する。

「ちゃんと家でご飯食べてるの?」

 話題を変えるように聞く。

「うーん……腕は上がったんですけど、仕事から帰ると疲れて。インスタントか惣菜が多いですね」

「せっかく覚えたのに」

「作る気力が残ってなくて」

 少し照れたように笑う。

 その顔を見て、口が勝手に動いた。

「それなら、私が作りに行ってあげようか」

 冗談のつもりだった。

 軽い気持ちで言ったはずだった。

「え、いいんですか?」

 慧一の目がぱっと明るくなる。

「本当に助かります」

 本気の顔。

 あっ違う、と言いかけて、言葉が出ない。

「じゃあ、今度の料理教室のときに家の合鍵持ってきますね」

 軽やかに決められてしまう。

「……うん」

 断れなかった。

 どうして。


 帰り道、胸がざわつく。

 安請け合いしすぎたんじゃない?

 今からでも断るべき?

 でも、何て言うの?

 冗談だったなんて、大人として無責任じゃない?

 ぐるぐると同じ考えが回る。


 次の料理教室の日。

「香澄さん、これ」

 慧一が封筒を差し出す。

 中に、小さな金属の重み。

「合鍵です。香澄さんの都合のいい日で、いつでもいいので」

 疑いもなく、善意を信じた顔。

 その笑顔がまぶしくて、断る言葉が、また出てこない。

 封筒を受け取る。

 手のひらに、現実の重みがのしかかる。

「……わかった」

 自分の声が、少し遠く感じた。

 ただ料理を作るだけ。

 深い意味はない。

 そう自分に言い聞かせながら、

 香澄は封筒をエプロンのポケットにしまった。

 その小さな鍵が、

 何かを開けてしまうとも知らずに。


 家を出る前、香澄はいつもより少し明るい声を出した。

「今日は料理教室の生徒さんと少し話があるの。帰り、遅くなるかもしれないわ。夕飯は冷蔵庫に入れてあるから、温めて食べてね」

 健司はテレビを見たまま「ああ」と気のない返事をする。

 それを見ながら、香澄は胸の奥で小さく呟く。

(何も、悪いことをするわけじゃない)

 ただ、念のため。

 何かあってもいいようにではなく、誤解されないために。

 そう、自分に言い聞かせながら家を出た。


 スーパーの袋を両手に提げ、アパートへ向かう。

 袋の中身は、明らかに多い。

 肉も、魚も、野菜も。

 副菜も、汁物も、作ろうと思えば三日は持つ量だ。

「……少し、多かったかしら」

 小さく呟く。

(でも、慧一くん、若いものね。きっとよく食べるわ。多い分は作り置きにすればいいし)

 足取りが、少し軽い。


 ドアの前に立つ。

 鍵穴を見つめながら、心臓がうるさい。

 大丈夫。

 慧一くんにとって、私はただの先生。

 二回り近く年も離れているし、恋愛対象になるわけがない。

 そう。

 だから、何も起きない。

 だから安全。

 自分に言い聞かせ、鍵を差し込む。


 部屋に入る。

 一歩踏み込んで、深呼吸をする。

 ふわりと漂う、柔軟剤と若い男の生活の匂い。

 胸の奥が、かすかに熱くなる。

(何を期待しているの!)

 自分を叱るように、もう一度深呼吸をした。


 料理は、夢中になれば早い。

 気がつけば、テーブルには皿が並びすぎていた。

 メインが二品。

 副菜が三品。

 汁物に、和え物、簡単なデザートまで。

「……やっぱり、多かったわね」

 苦笑しながら、夕食分だけを残し、

 残りを保存容器に丁寧に詰めていく。

 まるで、家族のためのように。


「ただいま」

 慧一の声。

 テーブルを見た瞬間、目を見開く。

「……すごい」

 その一言に、胸が熱くなる。

「何が好みかわからなかったから、色々作ってみたの」

 本当は、好みなんて関係ない。

 ただ、作りたかっただけ。

 慧一は一品ずつ丁寧に味わい、その都度きちんと感想を言う。

「これ、出汁が優しいですね」

「この火入れ、ちょうどいい」

 健司は「うまい」としか言わない。

 比べてはいけないのに。

 心のどこかが、満たされる。

 そして、慧一が笑顔で呟く。

「こんなに美味しい料理を、毎日食べられる旦那さんと息子さんは、幸せですね」

 その言葉で、香澄の胸に冷水が落ちた。

 今までの自分が、一気に露わになる。


 料理を口実にして。

 先生という立場を盾にして。

 家庭があることを免罪符にして。


 浮かれていた。

 ずっと、自分を正当化していた。

 私は何も間違っていないと。

 頬が熱い、恥ずかしい。

 慧一は何も知らない顔で笑っている、それが余計に苦しい。

 食事が終わる。

 香澄はバッグから合鍵を取り出し、机の上にそっと置いた。

 もう来ない、そう決心する。


「それじゃ、帰るわね」

 玄関へ向かい、靴を履こうとした、その瞬間。

 後ろから、腕が伸びる。

 抱きしめられる。

 背中に、体温。

 心臓が跳ね上がる。

 視界は、開けたまま。

 リビング。

 並んだ皿。

 そして、開きっぱなしの寝室のドア。

 見えてしまう。

 整えられていないベッド。

 シーツは少しだけ乱れ、枕元には読みかけの本。

 床には脱ぎっぱなしのTシャツ。

 生活の匂いが、そのまま置かれている空間。

 もし、このまま、足がそちらへ向いたら。

 あのシーツの皺を、自分がさらに乱すことになるのだろうか。

(このまま、身を任せたら……)

 喉が乾く。

 慧一の唇が、耳元に近づく。

「……もう少し、一緒にいてもらえませんか?」

 低い声。

 いつもと違う、男の声。

「……ダメ、ですか?」

 吐息が耳に触れ、ぞくりとする。

 力を抜けば、このまま。

 ベッドが、視界に入る。

 想像してしまう。

 名前を呼ばれるかもしれない。

 触れられるかもしれない。

 求められている。

 若く、魅力的な男に。

 胸の奥に、女としての誇りが灯る。

(まだ、私は……)

 でも。

 不倫。

 家庭崩壊。

 離婚。

 慰謝料。

 次々と浮かぶ現実。

 さっき、決意したばかりなのに。

「……ごめんなさい」

 振りほどく。

 息が荒い。

 逃げるように部屋を出た。


 帰り道。

 足は震えている。

(行かなければよかった)

 でも、一線は越えなかった。

 安堵と、後悔。

 家族には遅くなるかもと言ってある。

 あのまま、残っても。

 誰にも、すぐには知られなかったかもしれない。

 ほんの少しの後悔が、胸を刺す。

 そして、求められたという事実。

 まだ、女として見てもらえたという高揚。

 それを誇らしく思ってしまう自分がいる。

「……最低ね」

 小さく呟きながら、夜道を歩いた。

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