第ニ話 料理教室
慧一の初めての料理教室の日。
「え、これどうやって持つんですか?」
ボウルを不安定に抱えたまま、真顔で聞いてくる。
生地を混ぜれば粉が飛び散り、卵を割れば殻がきれいに入る。
「ちょ、ちょっと待って、慧一君」
思わず笑いが漏れる。
「そんなに力いらないの。もっと優しく」
「優しくって難しいですね」
本気で困っている顔が、どこか可笑しい。
彩乃が隣でため息をつく。
「だから言ったでしょ。壊滅的なんですって」
香澄は首を振る。
「大丈夫よ。最初はみんなそんなもの」
まるで、昔の直人を見ているようだった。
何度言っても同じところで失敗して、それでも真剣で。
手のかかる子ほど可愛い、そんな感覚だった。
別の日。
「慧一君、手順が逆」
「え?」
ソースを煮詰める前に具材を入れてしまっている。
「料理ってね、順番が大事なの。ひとつ飛ばすと、ちゃんとした味にならないの」
「順番……」
慧一は真面目な顔でうなずく。
「仕事も一緒ですよね」
「そうね、きっと」
素直に受け止めるところが、悪くない。
また別の日。
「うわ、焦げた!」
フライパンから煙が立ちのぼる。
「火、強すぎ」
香澄は素早くコンロを止める。
彩乃が呆れ顔で言う。
「ほらね。目離すとこれなんですよ」
「……すみません」
肩を落とす姿が、少し情けない。
「大丈夫。焦げたら次は火を弱めればいいだけ」
香澄は自然にフォローしていた。
気づけば、他の生徒より慧一の様子をよく見ている。
少し目を離すと、何かやらかす。
だから、ついそばに立つ。
手取り足取り、教える。
何度かそんなやり取りを重ねた。
そして、何度目かの教室。
「包丁、貸して」
慧一の手元を見ると、指の位置が危なっかしい。
「それじゃ、いつか指切るわよ」
「え、ほんとですか?」
「ほんと」
香澄は背後に立ち、そっと慧一の手に自分の手を重ねた。
「こうやって、猫の手にして」
指先を内側に入れる。
包丁を持つ手に、自分の手を添えて動かす。
「力入れすぎないで。前に押すように」
すぐ近くに、若い体温がある。
シャンプーの匂いが、ふと鼻をかすめる。
トントン、と一定のリズムで包丁がまな板を打つ。
「……できた」
慧一が振り向く。
距離が、近い。
「ありがとうございます、先生」
その笑顔は、前より少し自信がついていた。
まっすぐで、嬉しそうで。
その瞬間、ほんの一瞬だけ。
胸が、小さく跳ねた。
(え?)
自分でもわからないほど、微かな感覚。
すぐに、打ち消す。
ただの反射、ただの母性、息子みたいなもの。
「上手になったじゃない」
いつもの調子でそう言う。
けれど、その夜、包丁を握る自分の手を思い出していた。
あの体温が、指先に残っている気がして。
香澄は、それを深く考えないようにした。
料理教室を重ねるごとに、慧一は少しずつ上達していった。
「先生、今日は焦がしてません」
得意げに差し出されたフライパン。
「ほんとね。火加減、覚えた?」
「たぶん」
たぶんと言いながらも、前より自信がある顔をしている。
最初はボウルもまともに持てなかったのに。
包丁の持ち方も危なっかしかったのに。
気づけば、香澄は無意識に慧一を目で追っていた。
今日はちゃんとできているか。
手順を間違えていないか。
……違う、それだけじゃない。
慧一が来る日は、少しだけエプロンを整える自分がいる。
鏡を見る時間が、ほんの少し長くなる。
そんな自分に気づいて、胸の奥がざわつく。
ある日の教室。
「先生、見てください」
きれいに焼き色のついた鶏肉。
「完璧」
思わず笑顔になる。
「やった」
慧一は子どものように笑った。
その顔を見て、胸の奥が温かくなる。
同時に、少しだけ寂しい。
もう、手取り足取り教えなくてもいい。
目を離しても、大丈夫。
それは喜ばしいことのはずなのに。
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
(成長を喜べなくてどうするの)
香澄は心の中で自分を叱る。
これは母親の気持ち。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう言い聞かせる。
夜。
風呂上がりの健司が、ソファに寝転んでいる。
Tシャツは腹のあたりが少し持ち上がり、膝を立てた姿勢はだらしない。
缶ビールを片手に、テレビを見ている。
その姿を見た瞬間、不意に昔の記憶がよみがえった。
結婚前。
健司が趣味でやっていたフットサルの社会人サークル。
汗に濡れたTシャツ。
引き締まった腕。
走るたびに揺れるサラサラの髪。
試合後、息を切らしながら笑った顔。
あの頃の健司は、まぶしかった。
今、目の前にいるのは……。
少し出たお腹。
薄くなり始めた頭頂部。
動きの鈍い体。
同じ人のはずなのに、時間は容赦なく形を変えていく。
「あなた、だらしないからちゃんとして」
つい、口に出る。
「え? 自分の家なんだからいいだろ」
健司は面倒くさそうに言う。
「誰も見てないんだし」
その言葉に、香澄は何も返せなくなる。
(誰も、見てない……)
その一言が、なぜか胸に引っかかった。
いけない。
比べてはいけない。
健司と慧一君を、並べて考えるなんて。
十九年一緒にいる人と、数か月前に出会った若い生徒を。
そんなの、間違っている。
わかっているのに。
風呂上がりのだらしない姿と、包丁を握る真剣な横顔が、頭の中で勝手に重なってしまう。
香澄はキッチンに立ち、グラスを洗う。
水音で、思考を消そうとする。
けれど、消えない。
胸の奥で、何かがゆっくりと形を持ち始めていた。




