第一話 結婚記念日
目覚ましが鳴る前に、香澄は目を覚ました。
まだ薄暗いキッチンに立ち、炊飯器の蓋を開ける。ふわりと立ちのぼる湯気。味噌汁の出汁を温め、卵を焼く。鮭をグリルに入れ、小松菜を刻む。
十九年、繰り返してきた朝。
寝室のドアを少し開ける。
「あなた、朝よ」
布団の中で健司が身じろぎする。
「……あと五分」
「毎日それ言ってる」
呆れたように言いながら、どこか慣れたやり取りだった。
次に直人の部屋をノックする。
「直人、起きなさい。遅刻するわよ」
「起きてるって」
本当に起きているのか怪しい返事が返る。
三人で囲む朝食は、静かで規則正しい。
「今日は、帰りが遅くなる」
健司が新聞をめくりながら言う。
「俺、部活」
直人はスマホを見たまま。
「そう。気をつけてね」
湯呑みにお茶を注ぐ。
湯気がふわりと揺れる。
食器を洗い、テーブルを拭き、二人を玄関で見送る。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
ドアが閉まると、家の中が急に広くなる。
掃除機をかけ、洗濯物を干し、料理教室のノートを広げる。
来月のメニュー案を考えながら、ペンを走らせる。
春野菜のキッシュ。
鶏肉のバルサミコ煮。
誰かに「おいしい」と言ってもらえる瞬間を思い浮かべながら、味を組み立てる。
昼は一人で簡単に済ませ、午後は買い物へ。
夕方にはまたキッチンに立つ。
包丁の音、煮立つ鍋、油の弾ける匂い。
直人が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり。手、洗って」
二人きりの夕食。
「ねえ、今度の土曜、一緒に買い物行かない?」
「えー、やだよ。友達と約束あるし」
即答だった。
「そう」
笑ってみせる。
仕方ない、と自分に言い聞かせる。
しばらくして健司が帰宅する。
「ただいま」
「おかえりなさい。すぐ出すね」
温め直した料理を並べる。
「どう?」
何気ないふりで聞く。
健司は一口食べて言う。
「うまい」
それだけ。
「そっか」
悪い言葉じゃない。
でも、それ以上の何かを、ほんの少しだけ期待してしまう。
期待している自分に、気づかないふりをする。
十九年目の結婚記念日。
夫と二人を送り出したあと、香澄は少しだけ背筋を伸ばした。
ローストビーフをじっくり焼き、前菜を丁寧に盛りつける。
ソースもいつもより時間をかけて煮詰めた。
テーブルクロスを替え、ワインを冷やす。
特別なことをしたいわけじゃない。
ただ、覚えていてくれたらいいと思った。
夕方、健司が帰ってくる。
「ただいま」
リビングのテーブルを見て、少し驚いた顔をした。
「……今日は何かのお祝いか?」
一瞬、胸が静かに沈む。
「ううん。ちょっと頑張ってみただけ」
それ以上は言わない。
ワインを注ぎ、向かいに座る。
健司はローストビーフを一切れ口に運ぶ。
ゆっくり噛んで、飲み込む。
「うまい」
今度は、香澄が聞く前に言った。
自分から。
少しだけ誇らしげな声だった。
香澄は微笑む。
「……そう」
でも、胸の奥で小さな棘が刺さる。
(また、うまい……)
この人は、いつも同じことを言う。
時間をかけた料理も、手間を惜しまず仕込んだソースも、新しい食材で工夫した一皿も、全部「うまい」の三文字で終わってしまう。
嬉しいはずなのに、どうしてこんなに物足りないのだろう。
健司は何も知らない顔で、二切れ目を口に運ぶ。
ワインの赤が、グラスの中で静かに揺れた。
その揺れに、香澄は自分の心を重ねていた。
駅から少し離れた住宅街の一角にあるレンタルキッチン。
白いタイル張りの壁と、大きな作業台。
少しだけ火力の強いコンロ。
ここが、香澄のもう一つの居場所だった。
「今日は春野菜のキッシュを作りますね」
エプロン姿の香澄の前に立つのは、六人の生徒たち。
全員、近所の顔見知りの女性たちだ。
子どもが同級生だったり、自治会で顔を合わせたりする距離感。
「香澄さん、このくらいでいい?」
「香澄さん、塩はどのタイミングでしたっけ?」
名前で呼ばれることにも、もう慣れている。
会費はレンタル料と食材費のみ。
料理教室は香澄の趣味だ。
それでも、こうして誰かが真剣に話を聞き、自分の言葉を求めてくれる時間は特別だった。
オーブンから焼き上がったキッシュの香りが広がる。
「わあ、きれい!」
「お店みたい」
その声に、胸の奥がふっと温かくなる。
家庭の食卓とは違う、きちんと伝わる場所。
片付けを終え、生徒たちが帰り支度を始めたころ、彩乃が声をかけた。
「香澄さん、ちょっといいですか?」
「なに?」
「弟をここに連れてきてもいいですか?」
「弟さん?」
「一人暮らししてるんですけど、料理が壊滅的で。私も毎回作りに行けなくて」
彩乃は困ったように笑う。
「男なんですけど、大丈夫ですか?」
香澄は少しだけ考えて、すぐにうなずいた。
「もちろん、やる気があるなら大歓迎よ」
「よかった、伝えておきます」
そのときは、特別なことだとは思わなかった。
ただ、生徒が一人増える。それだけのこと。
一週間後、料理教室のドアが開く。
「こんにちは」
彩乃の後ろに、背の高い若い男性が立っていた。
「弟の慧一です」
慧一は一歩前に出て、軽く頭を下げる。
「慧一です。よろしくお願いします、先生」
まっすぐに、にこりと笑った。
その瞬間、周りの空気が少しだけ変わった気がした。
他の生徒たちは「香澄さん」と呼ぶのに、
彼だけが「先生」と言った。
ほんの小さな違い。
それなのに、なぜかその呼び方が耳に残る。
(ずいぶん、かわいい子が入ってきたな)
直人よりは年上のはずなのに、どこか無防備で、素直な目をしている。
「こちらこそ。よろしくね、慧一君」
香澄は自然に微笑んだ。
まだこの時は、息子の友達を見るような、そんな感覚だった。
ただ一人、新しい生徒が増えただけ。
本当に、それだけだった。




