■第九章:黒鉄の鬼神
——ギャリッ!!
バットの横薙ぎが壁を削り、火花が散った。 湊は身体を捻ってかわした。
ギリギリだ。腕を動かす余裕すらない。
(やっべ……一撃の“重さ”が人間じゃねぇ……!)
小林は踏み込みながら、バットを持ち替えた。
切り返しが速すぎる。
まるで鉄塊のはずの金属バットが、刀のように“しなる”。
「ええ反応や。さすがやな……ドッジボール上手かったやろ?」
振り下ろし——
湊は腕で受けようとして、瞬間判断を変える。
(受けたら折られるッ!!)
壁へ逃げる。
その“逃げの判断”が正しかった。
——ドォンッ!!!
床がめり込み、鉄骨がむき出しになる。
バットが地面を叩いただけで、クレーターができる。
小林の足音が消えた。
(消え……!?)
次の瞬間——
湊の視界の上から黒い影が落ちてきた。
「かっ——!?」
高所からの“縦叩き”。
湊は咄嗟にカオマン・ガーイの柄の部分で頭を庇いながら転がる。
——ガンッッ!!!
さっき湊がいた場所に、バットが突き刺さった。
コンクリが砕け、粉塵の柱が上がる。
(マジで……なんだよこいつ……!?
動きが軽いくせに、打撃がトラックみてぇだ……!)
「おいガキ。息切れしとるやろ」
湊が息を整えるより早く、小林は間合いを詰めてくる。
一歩で。
ほんの一歩踏むだけで、湊との距離が“ゼロ”になる。
「ほら、もう一発や」
――ブン。
湊は肩をひねるが遅い。
バットが頬を掠め、血が飛んだ。
「っ……!!」
「掠めただけでこれや。本気で当てたら死ぬで?」
小林ははっきり言った。
事実として。
脅しじゃなく、“そういうもんや”と言うように。
(やばい……ギリギリだ……!守るだけで精一杯すぎる……)
もう一撃くる。避けきれない。
さっきより速い。
湊はもう“避けきれない”のを理解した。
(だったら——受けを利用する!!)
湊は左手でカオマン・ガーイを構えた。
刃の内側に仕込まれた電極が青く点灯する。
——バチッ……!
軽いチャージ音。
レールユニットのコンデンサが一瞬だけ唸った。
(いける……! 金属なら通る……!!)
湊はバットの切っ先を“挟む”ようにクリッパーを開く。
見切った。
この角度なら、噛ませれば勝ちだ。
「ッラァ!!」
刃が金属に触れた瞬間、
青白いスパークが弾けた。
——バチィッ!!!
確かな手応え。
クリッパー越しに電撃が流れたはずだった。
金属の表面に触れた瞬間、カオマン・ガーイの刃から“稲妻の様な電撃”が走る。
だが、小林の表情は1ミリも揺れなかった。
バットの軌道は止まらない。
湊は真正面から弾かれ、数歩後ろへ転がった。
「っ……!! なんで……止まんねぇんだよ……!」
湊が腕を押さえながらにらむと、小林は、バットの柄を一度確認するように握り直した。
「……危ねぇなクソガキ。危うく感電するところだったが——」
バットの“グリップ部分”を軽く叩く。
「ラバーで良かったわ。これなかったら、俺その場でピクピクしとったで?」
言いながら、バットの先端をコツンと床に叩いた。完全に余裕の態度だ。
(……ラバー……?グリップが絶縁……だから流れねぇ……!?)
湊は歯を食いしばった。
小林が一歩踏み込んだ。
湊の呼吸が一瞬だけ止まる。
——ガンッ!!
バットの横打ちが腹にめり込み、
湊の身体がくの字に折れた。
肺の奥から空気が絞り出される。
「くっ……!」
「どうした? さっきみたいな“おっそろしい反応”はどこ行ったんや?」
小林の声には余裕しかない。
挑発ですらなく、ただの観察。
湊は立ち上がる。
足が震えている。
なのに、距離は一瞬で詰まる。
——カンッ!!
顔面を狙った打撃を、咄嗟の判断でぎりぎり腕を上げて防ぐ。
腕が痺れ、視界が揺れた。
(これ……ほんとに人間かよ…)
湊は下段を狙う。
薙ぎ払いでバランスを崩そうとするが——
小林は、まるで読んでいたかのように、
片足で軽く受け流した。
「あぁ、悪ぃな。“見切り”得意でな。」
湊の下段狙いは軽くいなされた。
逆に、その隙を突いて小林が踏み込む。
「ほら、下見すぎやガキィ!」
——ブォンッ!!
金属バットの横薙ぎが、風圧だけで瓦礫を散らした。
湊は刃を立て、カオマン・ガーイで受ける。
——ギャリィィッ!!
金属同士が噛み合い、“刃が削れる音”が響く。
火花が散り、湊は歯を食いしばりながら押し返す。
(硬ぇ……! クリッパーの刃が……負けてる……!!)
次の瞬間、小林が重心を沈める。
——縦打ち。
カオマン・ガーイで上へと押し返そうとするが——
小林の腕力が桁違いだった。
刃がきしむ。溶接部が悲鳴を上げる。
——ギギギッ……!
「折れるで」
小林の言葉どおり、湊は耐えきれず左へ転がるように避けた。
——ガンッ!!
アスファルトに叩きつけられ、背中を鈍い痛みが襲う。それでもなお立ち上がり、小林の重い一撃を受け止める。
——ガキィンッ!!
折れかけのカオマン・ガーイで必死に受けていた湊だが、肩で息をしながら小林との距離を取った。
(……まだバッテリーは残ってる……!
だったら——一発だけ、撃てる……!!)
湊は足元を見た。
散乱した瓦礫の中、一本の錆びた釘が転がっている。
(……これでいい!)
カオマン・ガーイの先端レールに釘をスライドさせ、磁力保持のロックをかける。
カシンッ。
内部のコンデンサが唸り始める。
——ビィィィィィ……!!
青白い光が刃の内側から立ち上る。
湊の前腕がじんじん痺れる。
湊は息を吐き——叫ぶ。
「——飛べぇッ!!」
引き金を握る。
——バシュッ!!
釘が青い閃光とともに射出され空気を裂いて一直線に顔へ向かう。
(よしッ——当たる!!)
小林は、ほんの一拍遅れて動いた。
首をわずかに傾けたその瞬間、顔の横を青い閃光がギリギリで掠めた。
頬に細い焼け跡が残る。
同時に、バットがガンッと音を立てて構えられ、飛んできた釘を中央で受け止めた。
——ガギィィン!!
火花と雷光が弾ける。
電撃が金属表面を走り、青い筋を描く。
釘はそのまま、ルシールの側面に深々と刺さった。その刺さった釘だけが、カタカタ震えている。
小林はゆっっっっくりと湊を見る。
「…………おい ガキ」
「……な、なんだよ」
「テメェ、人のバット勝手に釘バットにすんじゃねぇよ」
静かに、冷静に放ったその一言は場を凍らせる。
「……まぁええわ。むしろ威力が上がった。“こいつ”はこの程度で使い物にならんほどヤワやない」
そう言うと、小林は刺さった釘ごと湊に向けて構え直した。
刺さった釘ごと、ルシールが軽く回転する。
バットが揺れるたびに、釘の頭がカタカタと微妙にズレたリズムで鳴る。
「続けよか」
小林は静かに踏み込んだ。
——ブンッ!!
(軌道が……読めねぇ!)
釘が刺さったことで重心がほんのわずかにズレている。
そのせいでルシールの軌道は“曲がったように”見える瞬間がある。
湊は刃を立てて受け止める。
——ギャリィィ!!
刃が削れ、火花が散る。
その刹那——
出ている釘の頭が、湊の頬を掠めた。
——ピシュッ!!
細い裂傷が走り、血が飛ぶ。
「っ……!」
「この釘……ええ働きしとるで。お前が勝手に刺したくせに、こっちが得しとるわ」
「……うっせ……!」
湊は歯を食いしばり、距離を取る。
小林は静かな足取りで迫る。
「ほら、集中せぇよ。集中切れたら、顔ごと持ってかれるで」
釘の頭がカタカタ鳴り、そのたびにルシールの軌道が微妙に揺れる。
湊が左へ避けた瞬間——
またしても釘の頭が軌道を乱し、異常な角度で跳ねる。
「ッ——!」
湊は刃を立てて削り取るように弾いた。
——ガギッ!!
刃と釘が擦れ、火花が飛び散る。
(うわ……やべぇ……!)
どう避けても釘が“避けきれない瞬間”を作る。
湊の頬、肩、腕に細かい切り傷が刻まれていく。
そして——
小林が静かに前へ出た瞬間、湊も息を吐き、覚悟を決めた。
二人が真正面からぶつかる。
——ドッ!!!
湊のカオマン・ガーイと、釘の刺さったルシールが激突する。
——ガギィィィィィッ!!
火花が舞い、金属が悲鳴を上げる。
釘が刺さった部分に凄まじい応力がかかる——
ルシールの表面に、ぱきぱきと蜘蛛の巣状のひびが走る。
同時に、カオマン・ガーイの刃も、根元から限界の軋みを見せ始める。
二人の総力がぶつかった——その一瞬。
——バキィィィィィンッ!!!
ルシールが折れた。
刺さった釘を中心に、まるでチョコバーを折るみたいに、本当に“ポッキリ”と二つに割れた。
折れ口は生々しく、内部の芯までひしゃげている。
小林の手から折れた半分が弾かれ、地面を転がりながらカランッと音を立てて止まった。
その同じ瞬間——
湊の武器も、終わりを迎えていた。
カオマン・ガーイの刃が限界のきしみを上げ、
根元から鋭い破断音を響かせた。
——パキィィィィン!!
刃は青い残光を引きながら宙を舞い、回転しながら後方の壁に“突き刺さった”。
コンクリに深く、斜めに食い込む。
湊の手には、もう折れた持ち手の一部しか残っていない。
互いの武器が同時に壊れた。
二人の間に、一瞬だけ“完全な静寂”が訪れる。
粉塵が舞い、金属臭と血の匂いが混ざり合う。
小林は折れた半分のルシールを一度見下ろし、湊を見た。
「……ええやん。ここからは——素手で十分やろ」
折れた武器を捨てた瞬間、湊の手は自然と“拳”をつくろうとしていた。
だが、その衝動を湊自身が押し殺す。
(……拳じゃない……俺は……)
湊の脳裏で、焦げた鉄板の匂いと、夕暮れのラフィーナのデッキに落ちる赤い光がよみがえる。
あの時、蓮は煙草の火を靴裏で潰し、湊の正面にゆっくりと立った。
「いいか、湊。拳は“殴り切れる奴”の武器だ。速くて、強くて、身体ができてる奴の道具だ」
蓮は拳を握って見せる。
剥がれた皮膚の痕、細かい裂傷、血の跡。それは生身で殴り続けてきた人間の拳だった。
「けどな──お前の身体は、まだ間に合ってない」
蓮は掌を開いた。
風を受けるように静かで、それなのに刃よりも研ぎ澄まされている。
「殴ってみろ」
湊は踏み込んだ。
正面から拳を出した瞬間、それは見えない壁に触れたみたいに“逸れた”。
蓮が軽く掌を滑らせただけで、軌道が綺麗にずらされる。
「……っ!?」
「ほら、もういっちょ」
フックも、ストレートも、蓮の前では“波紋”みたいに外へ流される。
そのたびに蓮の反対の掌が、湊の頬のすぐ手前でいつでも入れられる位置で止まる。
「虎さん──鷹虎さんが掌底を使ってた理由、分かるか?」
蓮は斜め上のアンテナを見上げたまま、淡々と続けた。
「拳よりも“安定”してる。型に忠実だからこそ、どの角度からも攻撃を逸らせる。攻撃だけじゃなく、これ自体が“最強の防御”にもなる。」
湊にはまだ理解しきれなかった。
でも蓮は構わず言葉を続けた。
「それに──」
蓮は湊の胸にそっと掌を当てる。
「この安定は強化スーツやナノマシン拡張との相性もいい。まあ、お前に適性があるかどうかは知らんがな。少なくともフィジカルはカバー出来るだろ」
その言葉が、鷹虎から受けた掌底の如く湊の心臓に深く突き刺さっていた。
湊の拳は、握りかけて——ほどけた。
代わりに、蓮があの日向けてくれた“開いた掌”だけが、掌の中心に静かに宿る。
粉塵が、薄い霧のように二人の間に漂った。
小林は折れた半身のルシールを地面へ落とし、指を軽くほぐす。
関節が一つずつ鳴るたびに、空気が軋んだ。
「……ほな、見せてもらおか。さっきまでの“おもちゃ”抜きの、お前自身の強さを」
掌をそっと前へ。
腰を落とし、蓮に教わった“安定”を骨盤で受け止める。
小林が一歩——踏み込んだ。
その瞬間、世界が歪む。
——ドゴォッ!!
小林のストレートが湊の腕ごと吹き飛ばした。
防御の姿勢のまま、湊の身体は床を転がり、瓦礫へ背中を叩きつけられる。
「ぐっ……! は、ぁぁっ……!」
肺が潰れたように痛い。視界の端が白く弾ける。
それでも湊は倒れない。膝をついたまま、小林の足音を聞く。
小林は淡々としていた。
「悪ぃな。痛ぇやろ?柔道は座学やったけどな、実はボクシングもやっとったんや。オンライン授業でな!!」
湊は、立った。
体重をかけるたび、骨が悲鳴を上げる。
(……逸らすんだ。流すんだ……蓮さんみたいに……!“まともに受けるな”って……!)
小林が沈む。
湊も沈む。
二人の間合いが一気に縮む。
——ガッ!!
小林の拳が頬を掠める。
湊は蓮の教えの通り、掌をスライドさせて軌道を“ずらした”。
しかし——
湊はすぐに理解する。
(重ぇ……! 蓮さんの比じゃねぇ……!)
受け流したはずなのに、肩が外れそうな衝撃が走る。
湊は必死に腰を落とし、掌を返す。
小林の次のフックを、今度は斜め下に弾く。
——バチィッ!!
衝撃が腕を抜けて背骨まで響く。
「ほー……やるやん。形だけの構えやなさそうやな。誰に仕込まれた?」
「……友達、だよ……っ!」
軽口のつもりだった。
でも湊の声は、喉が潰れたみたいに掠れていた。
小林はほんの少しだけ、首を傾ける。
「ほんなら、その“友達”に——ここで恥かかせんなよ」
言い終えると、小林の右拳が沈む。 “殺しに来た”と湊は直感した。
足が震えた。逃げられない。───避けられない。
(受けたら折れる……! まともに受けたら死ぬ……!流せ……流せ!!)
湊は蓮の姿勢のまま、掌を前へ――
小林の拳が迫る。
——轟ッ!!!
湊は、逸らした。
拳は湊の耳横を暴風みたいに通過し、背後の壁を抉る。
破片が湊の背に降り注ぐ。
(いける……! まだいける……!!)
湊は踏み込み——掌を前へ突き出す。
だが、小林の左膝が湊の脇腹にめり込んだ。
——ドスッ!!
「ッ……かっ……は……!!」
息が、肺から全部抜け落ちた。
視界が暗くなる。
膝が笑う。
倒れかける湊を、小林は胸ぐらを掴んで立たせた。
「倒れるのはまだ早いやろ」
小林の目は氷みたいに静かだった。
湊の顔のすぐ横で、拳が握り直される。
(……ダメだ……受けても避けても……
全部、殺しに来る重さだ……!)
血が口から垂れた。
その時だった。
耳の奥で、“あの声”がした。
(……君には、僕の力があるでしょ?)
あの時と同じ声。だが誰の声だかは分からない。
でも、不思議と温かかった。
湊の左目に、赤い光が灯る。
右目には青い光が揺れる。
小林が拳を引く。
湊は——掌を構えた。
湊の左目は深紅に脈打ち、右目の蒼は冷気のように揺らいでいる。
色の違う二つの光が、獣の呼吸と機械の脈動を同時に宿していた。
小林は、その瞳をまっすぐに見て——笑った。
「……ビビったわ。チビるかと思ったで」
血で濡れた額に手をやりながら、声は震えている……いや、違う。
震えているのは恐怖ではなく、“興奮”だった。
「適応はあるやろな〜とは思っとった。せやけどまさか……」
小林は、湊の両目を指差す。
赤と青の輝きが、まるで“世界の相反する二軸”みたいに閃いている。
「異常適応者……だったか」
その一言は、瓦礫の上を流れる風音よりも冷たく重く響いた。
まるで——
“怪物の誕生を祝福する魔王の宣告”
のように。
湊は呼吸を整えながら、小林を睨む。
(異常……適応者……?俺が……?)
でも——
心は不思議なほど静かだった。
小林は拳を握り直し、歯を見せて笑う。
「ほんま、たまらんわ。俺が追い求めとった“適応者”より、はるか上……や」
まるで長年探し続けた答えに触れたような声音で。
「この瞬間に殴り合えるなら……今日ここに来た価値があるわ」
感情が呼吸するかのように湊の眼が、赤と青の光を脈打たせる。その光が胸の奥に鼓動として響く。
身体の限界を越えてもなお、重心は沈むばかりに安定していく。
湊は掌を前へ——。
小林が踏み込む。
——ドガァッ!!!
掌と拳がぶつかった瞬間、空気が爆ぜたような衝撃が走る。
湊の掌底が小林の腕を“下から跳ね上げ”、軌道をねじり殺す。
が、小林の拳が返ってくる。
湊は掌で薙ぐように軌道を逸らし、一歩踏み込み——
——ズドンッ!!
掌底が小林の肋骨に深く突き刺さった。
鈍い音が骨の奥に響きわたり、指先に硬く“ひび割れる感触”が伝わる。
(折れた……!)
確かな手応え——
だが、小林はその場でわずかに身体を折り曲げただけだった。
「……ッッッぐぅぅ……!」
苦痛かと思った。
違った。
——興奮だ。
小林の口角が、獣みたいに持ち上がる。
「折れたな、今の。ひび……どころやないで……ええわ……効くわ……!」
背中を震わせながら、小林は湊の掌を掴む。
——バギィッ!!
湊の右頬へ、小林の拳がねじ込まれた。
「っっっ……!」
脳が揺れ、視界が瞬間だけ真っ白になる。
血が舌に流れ込む。
でも湊は倒れない。
「お前、“流す”のうまいなぁ。せやけど……流しきれてへんぞ?」
小林の左アッパーが沈む。
湊は瞬時に重心をずらし、掌で軌道を外す。
しかし拳の“重さ”までは殺せない。
——ゴッ!!
衝撃の余波だけで湊の肩が跳ね上がり、背後の瓦礫に叩きつけられた。
「ぐぁっ……!」
肺から空気が漏れる。
けれど掌はまだ折れていない。
湊は足を滑らせるように前へ進む。掌底が再び小林の胸元へ。
小林は腕で防ぐ。
その腕の骨が——
——メキィ……ッ!!
細いヒビを刻んだ。
「っ……はぁ……はぁ……! 折れるぞ、それ!!」
湊が叫ぶ。だが小林は涼しい顔で返す。
「折れてるで?」
「……!?」
小林は腕を軽く振った。その動作だけで骨が軋む。
しかし——
「これぐらい、“ウォーミングアップ”や」
完全に正気じゃねぇ。
そう思った瞬間、小林の拳が湊の腹に深くめり込んだ。
——ドスッ!!
「がっ……あぁ……!」
胃の奥まで捻られるような痛み。
そのまま湊は後退しながらも、掌で反撃を返す。
——バシィッ!!
小林の顎を斜めに弾き飛ばす掌底。頬が唾と血を吐き散らしながら弾かれた。首が大きく振られ、膝がわずかに揺れる。
湊は息を荒げながら、掌を構え直した。
「どうした……っ……折れた腕じゃままならねぇだろ……!」
小林は、ゆっくりと顎を手で拭う。
吐いた血を見て、笑った。
「あほんだらぁ。追い込まれた猟犬はオオカミより凶暴なんや」
その声音には、歓喜と殺気と闘争本能が入り混じっていた。
血と鉄の匂いが、湿った地下道にじわりと染みついていく。
足を踏み込むたび、破れた靴底がぬるりと血だまりを撫でた。
——ドッ。
湊の掌が、小林の頬骨を斜めに払った。
裂けた皮膚が散り、骨が歯を噛みしめるような音を立てる。
だが同じ瞬間、小林の拳が顎の下を突き上げた。
——ガッ!!
視界が白く弾ける。
世界の輪郭が震え、重力が左右に流れ込む。
それでも、止まらない。
二人とも、止まり方を忘れたみたいに。
湊の掌が胸郭を打ち抜いた。
小林の膝が腹を折り曲げる。
その反動で湊の肋骨が稲妻みたいに悲鳴を上げ、小林の腕はさっきの掌底で軋んだままぶら下がっている。
痛みは、もう身体の外にある。
どこが壊れ、どこが繋がっているのかも曖昧になっていく。
ただ意識だけが、獣みたいに空気をむさぼる。
血の味が喉をつたう。
呼吸の音が、相手の心臓の鼓動に重なって聞こえる。
——限界なんて、とっくに溶けていた。
それでも。
まだ殴れる。まだ倒せる。まだ終わらせたくない。
「はぁ……っ……はぁ……っ……!」
「……ッは……たまらんな……お前……!」
もう脚は地面に触れているだけ。
踏み出すたび、視界の端が黒くしぼむ。
けれど、最後の一撃だけは——自分が先に放つ。
そう思った瞬間、二人の身体が自然と前へ傾いた。
「——ッらぁ!!!」
「——ぉぉおッ!!」
掌と拳が重なった。
地下の空気が破裂するような衝撃。
瓦礫がまるで風に吹かれる紙切れみたいに舞い上がる。
——ドゴォォォォッ!!!
ふたりの身体が、弾かれた矢みたいに宙を走った。
湊は背中から壁に吸い寄せられた。
小林は反対側の柱にめり込み、そのままずるずると座り込む。
静寂。
死んだように動かない数秒——
それは勝ちでも負けでもなく、ただ一つの事実だけを示していた。
ここまでやっても、互角。
初めに動いたのは、湊だった。
震える手を地面につき、起き上がろうとする——
だが膝が笑ってそのまま崩れる。
次に小林が、血の泡を吐きながら膝立ちになった。
折れた腕をだらりと垂らし、壁を掴んでゆっくりと立ち上がる。
「……両者、死にかけ……か……」
笑っているのに、声だけが震えている。
湊も壁に手をつくが、脚がまるで自分のものじゃない。
(……動け……っ……くそ……!)
その時。
ザザ……ッ……
小林の腰の無線機が鳴いた。
湊には雑音の塊。
だが小林の目の奥だけが、妙に静かに揺れた。
沈黙。
そして、小林は血を吐きながらも薄く笑った。
「……部が悪いわ。俺は帰る。あとは好きにしぃ」
「……ま……待て……まだ——」
「続きは、またや。……いや、続きが“あんのか”知らんけどな」
小林は湊の横を通り過ぎる。
肩が擦れるだけで、湊の全身に稲妻のような痛みが走る。
振り向けない。
ただ呼吸の音だけが、自分の全てみたいに響く。
遠ざかる足音。
その後を追うように血の滴が落ちていく。
出口の影に溶けようとする直前、小林は一度だけ声を残した。
「……お前みたいなんが……異常適応者……なんやな」
その声は闘争ではなく、敗北でもなく、ただ——静かな敬意だった。
湊の胸で、赤と青の光がかすかに脈打っている。
もう一歩も動けないはずなのに、その光だけは、まだ戦っていた。
現在私は山奥にいます
故に電波の影響で更新できないかも……と思いきや
文明は日々進歩してますね
回線が遅いながらに更新しました




