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UnChain  作者: 大垣礼緒
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■第六章:狼群の咆哮

 それぞれが配置についた。

 夜の川崎の街は、まるで息を潜めた巨大な獣のようだった。


 人が住めなくなった街。

 壊れた街灯、剥がれた標識、ひしゃげたフェンス。

 それらが風に揺れ、重なる影が長く伸びている。


 ――ヒュー……オォォ……。


 風が廃墟の隙間を通るたび、地下まで届く低い音が響いた。

 湊には、それが獣の遠吠えのように聞こえた。


 湊は一人、使われなくなった地下道で待ち構えていた。

 コンクリートの壁には、過去の避難誘導の塗装が剥げ、足元には水たまりと錆びた鉄くずが散らばっている。


 気配は、まだない。


 だが――静かすぎた。


 右手をゆっくり握る。

 掌の鼓動が、ほんのわずかに早い。

(……落ち着け。まだ来ない。焦らすのがあいつらのやり方だ)


 深く息を吸って、吐く。

 冷たい空気が肺を通り抜けるたび、意識のどこかで“死の匂い”を感じた。


 遠くで何かが爆ぜる音がした。

 だがここには、まだ襲撃の影は落ちてこない。


 静寂が、ひたひたと湊にまとわりつく。


『湊、そっちはどう?』

 サムの声は落ち着いていたが、背後で風か金属か、何かが擦れる音が混じっていた。


「いや、全然来ない。そっちは?」


 一瞬だけ沈黙。  その“短すぎる間”に、湊の胸がざわつく。


『……来たわ。メガネの男』


 今度は采女の声だった。

 囁きよりも小さい、けれど確かに張り詰めた声。


 湊は息を止めた。


「東野……か?」


『ええ、間違いないわ。さっきまでタンクの上にいたのに……気づけば正面に立ってた』


 采女は淡々としているようで、その声色の奥には警戒が潜んでいるように思えた。

『こっちも来やがった。かなりおしゃべりな青髪野郎だ。初手から掠めてくるからビビったぜマジで』


 蓮の声は荒れていない。

 だが、普段ののらりくらりとした軽さが一切なかった。

 声色だけで、相手の質の悪さが伝わってくる。


(蓮さんでさえ、こんな声……)


 湊は喉の奥が乾くのを感じた。

『こっちは白髪の男よ。話は……通じなさそうね』


 つかさの声が割り込む。

 震えてはいない。けれど、息が少し早い。

 何かを見て、判断し、警戒を最速で“仕掛けた”時の声だ。


(つかさも……始まったんだ)

『……こちらも来ている。敵はまだ不明。嫌な匂いが鼻腔をくすぐるな』


 玄馬の声は低く、静かだった。


 湊の眉間に皺が寄る。



 誰が近づいているのか、全く特定できない。


『サム……そっちは?』


 湊が問いかける。


 沈黙。

 風の音だけが長く吹き抜ける。


『……速い。

 足……じゃないな。何かを引きずってる音がする。

 複数……か?いや……違う……』


 サムの声も正体を掴みきれていない。


 湊の胸がざわつく。


『全員、気をつけろ――』


 蓮が言いかけた瞬間、


 プツッ。


 蓮の無線が途切れた。


「蓮さん!!――」


 返答は、ない。


 つかさの無線も、同じように。


 ――ジ……プツ。


 ただのノイズを残して沈黙した。


『玄馬さん!?』


 湊が強く呼びかける。


 返ってきたのは、呼吸音がひとつ。


 ――スッ……。


 それすらすぐ途切れた。


『湊……』


 サムの声が最後に一度だけ聞こえる。


『……気をつけろ。“誰かは分からん”が……来た』


 その言葉を最後に、サムの無線も静かに消えた。


 プツン。


 夜の川崎が、完全に沈黙する。


(みんな……始まったんだ)


 湊は深く吸い、ゆっくりと吐いた。


 地下道の奥。

 闇の向こうで――空気が揺れた。


(……来る)


 その時、


 ――コツン。


 石が誰かの足先で転がった音が、冷たい刃のように湊の背を走った。


 ――夜の川崎の“静寂”は別の場所で破られていた。


 瓦礫だらけの高架下。

 折れた支柱に影が一本寄りかかり、蓮は息を潜めている。


(……来る気配だけはすんのによ)


 耳の奥で、何かがふっと消えた。

 風の流れすら止まったような、異様な静寂。


 ――その直後。



「すみませーーん!!こっちに“おる”って聞いたんですけどぉ!!誰かいませんかぁぁ!?!?」


 甲高い関西弁が高架下に響き渡る。


(ベラベラよく喋る鬱陶しいやつだなぁ!)


「なんかね!“罠があります”みたいな吸い殻がいっぱいあるけどね!!禁煙ですよ〜!ノースモーキング!!私は横綱ではありまへん!!いや相撲キングってエドモンドか!!」


(いや、古いな)

 声が反響し、三方向から同時に聞こえる。

 その跳ね返り方に、蓮は一瞬で気づく。


(……音の返り、計ってやがる)


「ほな!!返事ないならこっちから行くでぇぇぇ!!!」


 反響音の“濃度”が跳ね上がった。


 その直後――


 ダダダダダダッ!!


 青い閃光のような弾道線が、蓮の隠れていた柱を容赦なく削る。


「おっ!!動いた動いた!!

 兄ちゃんええ体しとんな〜!何食うたらそんな筋肉つくん?

 プロテインか!?やーー言うてんのか!?

 なんでそんな端っこおんねん!こっち来た方がよう見えるで!!」


 蓮は身を起こしつつ、冷や汗を落とした。


(イタズラに喋ってるようで……全部“計算”か。このままではあいつのペースに巻き込まれちまう)


 蓮は柱の陰で一度だけ息を整える。


(……なら、“喋らせた方が”位置取りは読みやすい)


 そう判断した瞬間、

 蓮はちょっとだけ肩をすくめ――


 堂々と、敵の前に姿を現した。


「なぁ、ひとつ聞いていいか」


 陣内の動きが止まる。


「その青い髪……どこで染めたんだ?教えてくれよ」


「出てきた!!やっと出てきた!!ようこそ〜〜〜って……おっちゃんかいな!!」


「悪かったな。で、髪だ。教えてくれ」


「いやいやいや!!まず挨拶やろ!?なんで開口一番美容トークやねん!!どんだけ〜言うてな」


「礼儀より先に興味が勝つ性格でな」


「クセ強ぉっ!!……まぁええわ。その髪な、ワックスとスプレー混ぜ――ってなんで俺がレクチャーしてんねん!!」


 蓮はポケットから飴を取り出し、ポイと差し出す。


「飴ちゃんいるか?関西人はこれで黙るって聞いたけど」


「飴ちゃん!?いやミルク味か!?ミルク味か!?……っておい喋らせてぇな!!!!」


 蓮は飴を自分の口に放り込み、包み紙を指で丸めた。


「うるさいやつだな。まあいい。ひとつ聞いていいか?」


「ええよ!!なんぼでも聞け!!

 その代わり――あんたの首はもうてくけどな。

 喋れるうちにおしゃべりしよや、おっちゃん」


 蓮は飴をコロッと舌で転がし、ゆっくりと相手を見据えた。


「お前らの目的はなんだ?」


「いやいや、何言われましてもね?わしらの商売、エンタメ業ですやん。おっちゃんも聞いたことあるやろ?“川崎行ったら強いのおるで〜、投げ銭ごっつ貰えるで〜”言うてたから来たんですわ」


「その情報の出処は……?」


「たしかラー……ラー油?いやラード?そんな名前のやつやった気がするわ。

 大阪の“キャステイラ”とかいうトコのあんちゃんぶっ殺す時に聞いたけど、

 正味ようわからん!」


 蓮の眉がピクリと動く。


「……ラーメン屋でも経営しとるんか。

 ついでにデザートも出してくな!……しまった!」


 気づいた時にはもう遅い。

 自分でツッコんでしまったことに、蓮は内心で頭を抱える。


「おっ、ええツッコミするやん?」


 その一言と同時――


 マシンガンの銃口が火を噴いた。


 ダダダダダッ!!


 蓮は跳ねるように身体を捻り、柱の陰へ飛び込む。

 だが一発だけ、右頬を掠めていった。


 熱い線が走る。


(くそ……完全に“喋り”に意識を持っていかれた)



 一方、廃ビルの中層階トラックバースでは、別の戦いが静かに幕を開けようとしていた。


 白髪の男は、段差を一段だけ上がり——

 その瞬間、つかさとの距離が一気に縮まった。


 男の顔は、死人のように白い。

 まるで血の気が抜け落ちた石膏の彫像。

 表情は無く、目元だけが妙に湿って光り、獲物ではなく“被写体”を見るように細められている。


「……うん。いいねぇ、光の入り方」


 声は妙に抑揚がなく、“淡々とした毒舌”に近い調子だった。


 つかさは一瞬、言葉の意味が分からなかった。


(……光?)


 田中はゆっくりと首を傾け、まるで照明スタッフのように空間を眺める。


「階段のライト、壊れてるから……影の落ち方がね。うん、“絵”になるよ。今日の回……当たりだわ」


 “回”。

 まるで配信か、番組のような言い方。


 その手元で、

 ――ピッ。

 電子音が鳴る。


 小型ドローンが、闇からスッと浮上した。

 レンズが光り、つかさの顔を捉える。


(撮られてる……!?)


 つかさは一歩後退した。


 田中はにこりともせず、


「今の顔……はい撮れた。そういう、ちょっと“怯えた”感じのショット……助かるんだよねぇ……。いやほんと、生放送でも編集でも使いやすいから」


 つかさの背中が強く粟立つ。


(この人……楽しんでる?人を殺すのを、“演出”として見てる……?)


 ドローンがさらに一機、また一機と浮かぶ。

 どれもレンズがつかさへ向けられている。


「でね、えー……自己紹介。ボク、田中尚也って言います。はい。今日は爆発担当。あと、記録と構図と、死亡シーンの演出。全部やります」


 つかさはどんどん息が浅くなる。


(爆発……担当……?)


 田中はポケットから金属片のような物を取り出し、それを指でコロコロと弄びながら続ける。


「でさぁ……君、“逃げるタイプ”でしょ?うん。分かる。足の運びがね、逃走型。でもね……」


 少しだけ口角が動いた。

 笑っている……ように“見える”。


「逃げる人を追うのがね……一番画になるんだよ」


 次の瞬間。


 ――カチッ。


 つかさの真横で、古パレットの裏がわずかに光った。


(爆弾——!!)


本能で悟ったつかさの身体が反射で横へ跳ねた。


 ――ボォン!!


 パレットが火花と共に吹き飛び、金属片が蛇のような残光を描いて空を裂く。


 衝撃波が背中を叩き、

 つかさは転がりながら起き上がった。


(……殺す気じゃん!ほんとに……!)


 だが田中は——

 それでも一切表情を変えなかった。


 ただ、肩の高さで指を一度だけ鳴らし、


「……うん。いい反応」


 そして、まるで “料理の好み” を確認するみたいな口調で続けた。


「じゃあさ……今日は“野性的な爆弾”で行こうよ」


 つかさの眉が一気に吊り上がる。


「野性的……って何……!?」


 田中は淡々と、しかしどこか誇らしげに答えた。


「ほら……動物って、軌道とか……読めないでしょ?爆弾もね、ちょっと暴れてくれた方が“画”が強いのよ。うん……編集で助かる」


 その直後――


 ――パスッ。


 何かが足元で弾けた。


「っ!」


 小規模な爆発。

 派手さはないが、破片が鋭い。


 一歩踏み込もうとしたつかさの膝横を、錆びた釘がかすめていく。


(距離……詰められない。まるで地雷源よ。これ)


 田中の指が再び動く。

――パパンッ!!

 通路の脇、破れた段ボールの裏、荷台の下……複数箇所で小爆発が立て続けに起きた。


 釘、ガラス、木片。

 あらゆる破片が“壁のように”つかさの近づく進路を潰していく。


(近づけない……!爆弾の規模を小さくして、妨害に全部使ってる……!)


 その様子さえ“収録モニターを確認する技術者”のような顔で見ていた。


「うん……君いいね。その……“傷つきながらも走る”感じ。すっごい助かる」


 つかさの背筋が凍る。


(この人……本気で……“演出”してる!)


 爆風が再び吹き荒れ、釘が床に散る。

 つかさは奥歯を噛み締め、それでも前へ踏み出した。


「いいねいいね、もう一撃!次はちょっと……デカイの行くよ?」

どこか抑揚が無いトーンの中に高揚を感じるその声とともにまたスイッチが押される。


 ——つかさの悲鳴のような衝撃音が遠くで鳴り、破片が飛ぶ金属音が地下の空気にかすかに届く。


 サムは廃倉庫の裏路地、ちぎれた鉄骨の並ぶ薄闇の中で立ち止まった。


 足元には長く伸びる“引きずり跡”。

 地面の砂利を、何か重い物が擦った線だ。


(……まただ。引きずる音……距離は近い)


 “ズズ……ズリッ……”という音だけが静寂の中で濁った呼吸のように響く。


 風が止まった。

 すぐ近くで、何か大きな塊が地面に触れた気配。

 そして――

「……はぁーっ……重っっったいんですよこれぇ!!!」

 突然、裏路地いっぱいに響く大声。

 サムは肩をビクつかせた。

(デカい……声……)

「いやマジで!これ毎回肩外れそうなんスよ!!

 兄ちゃーーん!!誰かおらんのぉぉぉ!?!?」

 次の瞬間、角の向こうから現れた。

 オレンジ髪の男。

 汗だくで、バズーカをズリズリ引きずり、肩で息をしながら笑っている。

「うおっ……!」

 サムが小さく声を漏らした時、オレンジ髪がピタッと動きを止めた。

「お?今なんかおったよな!?“びくっ”って音したよな!?

 おるよな!?なぁ!?いるなら返事しよや兄ちゃん!!」

 サムは仕方なく、影からひょこっと顔を出した。

「はいはい、いますよ。ここに」

「出たぁぁぁぁ!!!!兄ちゃん!!!なんでそんな爽やかなん!?ハーフ&ハーフってやつか?あ、それはピザか!ピザじゃなくてピッツァか!え?敵やんね?敵やんな!?敵ってこんな感じなん!?イケメンなん!?ずるくない!?!?」

 サムは額を押さえた。

(やっぱり……変なタイプの相手だ……でも、ノリは悪くないな……)

 オレンジ髪は胸を張り、バズーカを叩きながら名乗った。

「JPSの遠藤修造!!“爆撃担当”でーーす!!今日も8.6秒でぶっ放しまぁぁぁぁす!!!」

 サムはぱっと顔を明るくした。


「8.6秒のリズムなら任せて!ラコーンなら踊れるよ?」


「ラコーンってなんなんですかぁぁぁぁ!!どこの国のダンスやねん!!初耳や!!」


 サムは真顔のまま続ける。


「すごく……腰にくる踊り。8.6秒あれば、二往復できる」


「説明せんでええ!!踊らんでええ!!撃つで!?撃つでホンマに!?」


「うん、いいよ。やってみて?」


「なんでそんな素直やねん!!ノリ良すぎるやろ兄ちゃん!!」


 遠藤は地団駄気味にバズーカを構え、深呼吸した。


「ほな行くで!?“爆撃の構え……壱の型ぇぇぇ!!”」


「KAMAE?……ダンスの名前?」


「違うわぁぁぁ!!!!」


 砲口が赤熱し、空気がビリつく。

 サムも姿勢を低くし、踊るような軽いステップで重心を整える。


(来る……今度こそ本物だ)


「8.6ッッ!! 秒ォォォォ!!!爆撃開始じゃあぁぁぁぁ!!!!!」

爆撃の火花が途切れた、その一瞬。


 サムは煙の中から、すっと姿を現した。


 爆風を受けた形跡もなく、ただ軽く息を吐いているだけ。


「……なんで……なんで無傷なん……?」


 遠藤の声に震えが混じる。


 サムは首をかしげた。


「いや……さっき言ったでしょ?リズムに乗れば、踊れるって」


「踊る言うてるやん!!爆撃中に踊るなや!!!」


 遠藤がバズーカを雑に構え直した瞬間。


 サムが、ふっと笑った。


「あ、そうだ。さっき“ラコーン”って言ったけど——」


 足が静かに流れた。


 その動きは、柔らかく、円を描くようで。

 けれど、どこか“戦いの軌道”を感じさせる。

 腰を落とし、片手を地面につく。

 もう片方の足が後ろへ滑り、円運動の軌道に乗った。


「残念。……カポエラでした」


 次の瞬間。


 ——バシィィィィッッ!!


 衝撃音が裏路地の空気をひっくり返した。

 サムの回し蹴りが、“煙を切り裂く輪”になって遠藤のこめかみを正確に捉える。

 遠藤の身体が、重い武器ごと横へ吹っ飛び、地面を転がっていく。


「ぐ……っ、な、なんなん……兄ちゃん……一体なにじんなん……?」


 サムは立ち上がりながら、足についた土を軽く払った。


「なにじんかだって?」


 遠藤が息を呑む。

 サムは片足を後ろへ滑らせ、さっきよりも深く腰を落とした。

 地面に掌が触れる。


 ——体が、また円を描き始める。


「微笑みの国からやってきた——」


 その瞬間、空気の質が変わった。


 爆撃担当の遠藤でさえ、“怖い”と感じる種類の静けさ。


「……技能実習生だ!!」


 ズドォォッッ!!


 地面を抉るほどの勢いでサムの踵が振り抜かれ、遠藤の胸を正面から撃ち抜いた。

 大柄な遠藤が、バズーカごと再び吹っ飛ぶ。

 鉄屑の山に叩きつけられ、粉塵が舞い上がる。


「ぐはっ……!!? な……何の技能なん……それ……?」


 声にならない声。

 遠藤の目は完全に泳いでいた。


 サムは静かに姿勢を戻し、軽く肩で息をしながら答えた。


「日本人に負けないダンスの技能!!……かな?」



——夜風が、屋上を撫でて通り過ぎる。

 采女は廃ビルの屋上に身を潜め、壊れたタンクの陰から下を覗いていた。

 それでもここだけは、不気味なほど静かだった。


(来るなら……ここ。絶対に)


 その確信を裏付けるように、視界の端——タンクの上に“影”が立っていた。

 采女は息を呑み、そちらに視線を向けた——

 ——瞬き。その一瞬で影は消えていた。


(っ……!)


 風が止まったような静寂。肌がざわりと粟立つ。

 そして。


「……こんばんは」


 耳のすぐ横。

 采女の心臓が跳ねた。

 振り返れば、そこにいたのは——さっきの影の男。


 東野。


 穏やかすぎる目つき。

 笑っているのか無表情なのか、判断できない薄い笑み。


「ビックリしました?……あぁ、ごめんね。驚かせるつもりは……まぁ、ちょっとあったんですけどね」


 采女は一歩後退する。


「いつ……そこに」


「ん〜……見てたでしょ? タンクの上。あそこね。うん」


 東野はタンクの上を指さし、それから当たり前みたいな顔で采女に視線を戻す。


「あなた、ええ動きすると思ってたんですよ。綺麗なお姉さんやなぁって。……ほんまに」


 声は柔らかいのに、

 言葉の温度だけが曇ったガラスみたいに冷たい。


「でもね、ターゲットなんですよ。女の人に手ぇあげんの、好きじゃないんですけどね……仕事やから」


 ふわりと笑った。


 笑っているのに、まるで生気を感じない。


「……ほな、始めよか。僕、こう見えても——リーダーなんでね」


東野はただ静かに笑っていた。


 采女は一秒も置かずに前へ踏み込んだ。

 迷いのない動き。

 指先で一点を突く——“点穴”。


(これで沈む……!)


 その瞬間、東野の左手がふわりと上がった。


 軽く、払うように。

 まるで蚊でも追い払うみたいに。


 ——パシィン。


「……あぶな」


 采女の指は、空を切った。


(っ……!?)


 東野は本当に“見ていただけ”の顔をしている。

 表情に力がない。

 ただ反射だけで采女の攻撃を弾いたような、そんな自然さ。


「ええ指してるけど……ちょっと殺す気ありましたよねぇ。そういうの、怖いなぁ」


 声は穏やか。

 けれど“怖い”と言いながら、目が少し笑っている。


 采女は一度距離を取った。


(……近距離は危険。反応速度が……人の域じゃない)


 壁際まで下がると、東野はポケットに手を突っ込んだ。


「ちょっと待ってね、うん……あった」


 取り出したのは——

 小瓶にぎっしり入ったピスタチオ。


「ピスタチオ、好きでねぇ。こういう時……落ち着くんですよ。うん」


 それを普通に一粒、口に放り込む。


 そして、殻を指ではじいた。


 軽く。

 スナップだけで。


 ——パシュッ!!


 何かが空気を裂く鋭い音。

 采女の横のコンクリートに、弾痕のような穴が深々と穿たれていた。


(予想外の……威力。ここまで強いとは……。)


 ピスタチオの殻一つで——壁に銃弾のような跡。


「これね……案外、飛ぶんですよ。角度さえ合わせれば……まあ、こう。うん」


 東野はもう一粒、殻を弾いた。


 ——パシュッ!!


 さっきより明確に、采女の頬の横を掠めて通る。

 冷たい汗が背中を伝う。


(速度……読めない……!いや、“投げて”すらいない……指のスナップだけで……これ……!?)


「指圧、上手なんやろ?マッサージ師かなんか?」


 東野は静かな声で続ける。


「ほら、もうちょっと来てくれないと、コリがほぐれないよ」


 薄い笑み。動きの予兆なし。

 でも次に何をしてくるかわからない“怖さ”だけが濃くなる。



 下のデッキにピスタチオの殻が、ひらりと落ちてきた。


 闇に溶ける緑の欠片は風に揺れ、まるで“この先を告げる合図”のようだった。

 その瞬間、玄馬の視界の端で——紫色の影が跳ねる。


「礼二ぃ!! いったんでええか!? 二丁でいくでぇ!!」


 甲高い声が夜の鉄骨を震わせた。

 中津川 剛。見た目は年下の弟みたいなのに、これでも兄の方だ。


 彼はもう二丁拳銃を抜き、獣みたいに肩で息をしている。


「兄ちゃん、落ち着け……いや、もう遅いか」


 黒髪にひげの男——中津川 礼二が、静かな吐息を漏らす。

 弟なのに、異様なほど落ち着き払った風情。


「ほらぁ!!おっさん!! いくでぇッ!!」


 剛の腕が跳ね、二丁拳銃が火花を噴いた。


 ——ダダダッ!!


 弾丸が夜の空気を無秩序に裂く。

 狙いなどないようでいて、すべてが“殺しの勘”に従った乱射。


(……たいぎい撃ち方だな)


 玄馬の足元で、炎がかすかに鳴った。

 拍車から滴る火花が、床を滑るような軌跡を描く。

 炎が生む浮力に乗り、玄馬は紙一重の位置を正確に踏み外していく。


 ——ギン。


 拍車が高く鳴ったその一瞬で、礼二がすでに玄馬の死角へ回っていた。


「兄ちゃんの弾、よう見てましたね。……ほな、斬らせてもらうで」


 月光の下で、礼二の握るトマホーク——**“金ちゃん”**が線を描く。

 それは刃物の軌道ではない。

 鋼でできた無音の死神の手。


 背後では、剛の野太い声が跳ねる。


「ほらあぁ!! こっちは“良ちゃん”や!!切れへんけど……当たったら終わりやでぇ!!」


 二人の影が同時に迫る。

 刃と破壊。静と動。

 双子ではないのに、双子のような歩調。


 玄馬はほんのわずかに肩を揺らした。


 笑ったのか、炎の揺らぎだけが答えていた。


「……炎陣全解《えんじんぜんかい》」


 低く呟いた瞬間——

 玄馬の身体が、内側から焼けるような音を立てた。

炎が皮膚から“漏れる”のではなく、炎の中に肉体が沈んでいく。


 空気の色が変わる。

 二人が踏み込むより先に、夜が赤く塗り替えられた。


「火炎で——燃えつくせ」


 炎が玄馬の周囲で輪を描き、地面を舐めるように走り、兄弟の斬撃と殴撃を飲み込むように迎え撃った。

 玄馬の身体を包む炎が、夜の空気を捩じ曲げ、熱が周囲の金属を震わせた。遠くの空気さえ揺らぐ。


 普通なら、誰だって一歩は退く。

 だが——


「すげぇぇぇぇ!! 燃えてんで!!おっさんが!! おっさんが燃えてんでぇぇぇ!!」


 剛が満面の笑みで叫んだ。


「兄ちゃん、ちょっとは落ち着き?キャンプファイヤーとちゃうねんから……いや、キャンプファイヤーより燃えてるけど」


 礼二の突っ込みは冷静すぎて逆に怖い。


 二人とも、“一切”怯えていない。

 むしろテンションが上がり切っている。


 玄馬の喉から、低い呼気の音が漏れた。


「……なら、燃えながら行くぞ。“炎魔大殴(えんまだいおう)”」


 足元の炎が弾け、玄馬が一気に距離を詰める。

 その拳は、ただの殴撃ではない——

 炎の噴出と筋力強化が同時に乗った“爆殴”。


 ——ズドッ!!


 空気が爆ぜ、兄弟の間で火柱が跳ね上がる。


「うおぉお!? ちょまっ礼二!!これアカンやつちゃう!? アチィィィィッ!」


「兄ちゃん、下がれ。こいつ、温度が常識やない」


 礼二は声を抑えたまま、玄馬の肩越しに“死角”へ滑り込む。


(速い……!)


 玄馬が拳を横へ振り抜けば、礼二のトマホーク“金ちゃん”が炎越しに閃き——


 ——キィンッ!!


 火花を散らしながら、玄馬の腕へ浅く切り込んだ。

 同時に、背後では剛の声。


「ほらほらほらぁ!! 次は“良ちゃん”ターーン!!」


 鈍い衝撃が、玄馬の背中を抉るように叩きつけた。

 “殴打特化”のトマホークが重い。

 炎を纏っていなければ、肋骨が砕けていた。


「……っ、ぐ……!」


(同時か……! 一方を意識すれば、もう一方が刺し込んでくる)


 玄馬が一歩踏み込めば、礼二がステップで死角へ回り込み、金ちゃんの刃が脇腹へ食い込む。

 玄馬が振り返れば、剛のトマホーク“良ちゃん”が叩き付けられ、爆風のような衝撃が脚を鈍らせる。


「兄ちゃん! 当たってるで!!これめっちゃ効いてるで!!」


「そら効くやろ。打撃やし。……ほなもう一発行くでおっさん?」


 二人はまるで遊んでいるかのように掛け合いながら、しかし攻撃だけは容赦もブレも一切ない。


 玄馬の足元には、焼けた石片と踏み抜いたコンクリが散らばった。


(……厄介だ。剛の乱撃で“視線”が乱されて…礼二の斬撃で“本命”が刺さる……)


 炎が揺れ、玄馬の呼吸が少しずつ荒くなっていく。

 ダメージは浅い。

 ただし——蓄積すれば確実に効く類の傷。


 兄弟は、完全に理解していた。


「礼二……これ、ワンチャン勝てるんちゃう?」


「……黙っとき。相手は怪物や。せやけど——ちょっとずつ削れば、倒れへん怪物はおらん」


 二人の声は軽い。

 軽いのに、底の方に“猟兵の本気”がある。


 玄馬は炎の中で、ゆっくりと肩を回した。


「……おもろい!!豪炎心焦がすまで付き合えよ、中津川兄弟!!」


 夜が、また一段赤くなる。


――コツン。


 転がった小石の音が、静まり返った地下道に不気味なほど響いた。


(歩いてる……隠れる気ゼロかよ……)


 余裕のある足取り。

 強い相手が来る時の“あの感じ”。


 続いて、金属が何かに触れる音。


 ――ギリ……ギン。


 引きずっているわけじゃない。

 肩に担いだバットの先が、壁の鉄管を無造作に叩いているだけだ。


 闇に“輪郭”が浮かぶ。

 人影なのに、人の重さではない。


 そして目。

 光を吸ったような黒が、一直線に湊を捕らえる。


 最後に、声。


「……よォ」


 低く、乾いた声だった。


 小林佑治が、闇から抜け出してくる。


 長い黒髪。

 細身なのに異様に落ち着いた立ち姿。

 肩に担いだバットには、複数の凹み。


「ちぃと迷ったわ。お前、歩き方が軽いから音拾いにくくてな」


 小林はゆっくりとバットを下ろし、柄を握り直す。


 ——ギィン。


 金属の響きが、地下の空気を震わせた。


「一応名乗っとこか。JPS所属……小林佑治や」


 丁寧な声なのに、温度は感じない。


「ガキに名乗るんもどうかと思うけどな。……お前だけは向き合っとかなアカン気ぃする」


 湊は無意識に拳を握った。


「なんで……俺なんだよ」


「さぁな」


 小林は淡々と答える。


「せやけど、気配や。お前……他とは少し違う匂いがする」


 それだけ言うと、小林の表情は変わらないまま。


 ただ、バットの先だけがわずかに湊へ向けられた。

 小林は湊との距離をゆっくり一歩ずつ詰めながら、バットを軽く横に振った。

 コンクリートに細い粉が落ちる。ただ振っただけなのに、空気がきしむ。


「ただのバットやと思うやろ?」


 湊の眉がわずかに動く。


「……違うのかよ」


「違う。こいつは“ルシール”や。血に飢えとる」


 バットの表面に刻まれた凹みを、指でなぞる。


「吸血バットや。よう噛むで、こいつ」


 冗談のように言うのに、声には一切の揺れがない。


 湊は息を呑む。

(ヤバい……本気で言ってる目だ……)


「こう見えて、剣道やってたんや」


 バットを構え、わずかに膝を折る。


「“剣道小林”なんて呼ばれとったでな」


 湊は重心を落とす。本気だ。本物の“型”だ。


「柔道もやっとったで」


 一瞬だけ目線を外す。


「まあ……これは座学だけやったけどな」


 ――その瞬間。


 バットの先端が、完全に湊へ向いた。


 ほんの数秒前まで“向けかけていた”だけのものが、明確な敵意の線となって結ばれる。


 湊の心臓が跳ねた。


(来る――!)


 逃げるか、構えるか。

 脳が判断するより先に、胸の奥で“何か”が震えた。


 ドクン。


 熱ではない。痛みでもない。


 ――光だ。


 服の隙間から、淡い青の光が漏れた。


(な……んだよ……これ……!)


 自分の身体から出ているはずのない輝きに、湊は一瞬目を見開く。

 だが、小林の反応は――もっと速かった。

 黒い瞳孔が、獣のように細くなる。


「…………それや」


 かすれた声だった。淡々としているのに、熱が滲んでいた。


「お前の胸ん中で光っとる“それ”。俺はな……そいつと戦いたかってん」


「は……? 何言ってんだよ……!」


 湊は後ずさる。

 だが青い光は、脈動するように強まり続ける。

 理由もわからないまま、胸に手を当てた。


(止まれ……っ、やめろ……!なんで光って……なんで……!)


 湊の混乱を、小林は一瞥するだけで読み取った。

 そして――微かに口角を上げた。


「分かってへんのはお前の方やろ。その“匂い”……その反応……ずっと探しとったんや」


 小林は足を一歩、前へ。


 ――コツン。


 踏み出した先の小石が跳ね、壁に当たって乾いた音を立てた。


「ほな――始めよか」


 瞬間、空気が裂けた。

 小林のバットが、風の弾ける音を伴って横薙ぎに振られる。

 湊は反射的に身体を捻る。


 遅いはずの一撃が、視界の端では高速に見えた。


(――ッ速ぇ!)


 バットの軌道が、髪の先をかすめる。


 風切り音だけで皮膚が痛む。


「逃げんでええ。――そいつのおかげで、今日一番の相手や」


 小林はもう笑っていた。


 湊は拳を握り直す。

 胸の青い光が、鼓動に合わせてまた明滅した。


 地下道の闇の中、湊と小林の衝突が――ついに幕を開けた。


ワタリガニがいっぱい取れました


いやぁ面白いものですね

ただ、しかし……


あとの処理がこれまためんどくさい


釣りや採集なんかに行くと


それだけで体力消耗するのに


帰って手をつける頃にはもうフラフラ……


全自動にならないかなぁ……


AIよ、もっと発展してくれと願うばかりです


さて次週も土曜日更新予定です

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