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UnChain  作者: 大垣礼緒
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■第四章:暁の中に

 ロゼリアの朝は、やけに白かった。

 ラフィーナのデッキエリア──

 かつて駅前の巨大な商業施設として使われていた吹き抜けの広場は、

 いまはただ静かに、朝の光を受け止めていた。

 頭上には鉄骨フレームの骨組み。

 その隙間を埋めるように張られた強化ガラスが、薄い膜のように空を遮っている。

 東側のガラスキャノピーから差し込む朝日は、

 荒廃した街のビル群に反射して“二度目の光”になり、デッキの床を淡く照らした。


 そこに、影が三つ並んでいた。

 つかさは両拳を胸の前で握り、深く呼吸を整え、

 サムは手首バンドを締め直し、

 湊はデッキ全体を見渡しながら、静かに肩を回している。


 その三人を横目に遠巻きで煙草をくわえた蓮と戦闘スーツ姿の采女が何やら何やら話していた。


 そのときだった。

 デッキの奥、停止したエスカレーターから、

 金属が靴底で擦れるような キィ……ン という低い音が響いた。

 朝の白さを背負うようにして、

 伊藤玄馬が姿を現した。

 肩や腕にはいまだ包帯が巻かれている。

 だがその歩みは、痛みを誤魔化すようなものではない。

 ──まっすぐで、迷いがない。

 階段を一段ずつ踏みしめるたび、拍車のフリントがかすかに鳴る。

 キン……キン……

 朝日が背後から差し込み、玄馬の影が長く伸びる。

 湊が思わず息を飲む。

 サムは顔を上げ、つかさは手の拳をきつく握り直した。

 玄馬は三人の前に立つと、煙草も何も持たず、

 ただ静かに言った。

「──皆の者おはよう。キヨシさんから聞いている通りだと思うが、今日から強化訓練を行うことになった。そこで三人には戦闘教官として采女、大杉、そして俺がつく。大杉は鬼教官として有名だ」

 その瞬間、蓮が遠巻きに煙草を口から外して、

 片眉をわずかに上げた。

「……おい伊藤。いつから俺が“鬼教官”になった」

「大杉さんの下から逃げ出した部下が全員伊藤さんのところに行くぐらいには鬼教官よ」

 采女が淡々と補足した。

 戦闘スーツ姿のまま、背筋だけで空気を切り裂くような気迫を出している。

「湊…俺ら毎朝やってたけどそんなことねぇよな?」

湊は元気よく手を挙げ

「蓮さんは十分鬼教官です!」

「おい!!」

 蓮の声がデッキに響き、

 つかさが肩を震わせて笑いを堪え、

 サムは思わず「まぁ……そうだよね」と小声でつぶやいた。

 笑いがふっと収まり、

 デッキの空気が再び朝の白さを取り戻す。

 玄馬がゆっくりとサムへ歩み寄った。

「──サム」

 名前を呼ばれた瞬間、

 サムは背筋を僅かに伸ばし、反射的に息を呑んだ。

 敗北の記憶が、胸の奥でじわりと疼く。

 玄馬は無駄な言葉を挟まず、

 腰のホルダーからひとつの金属具を外した。


 拍車スパー──。

「予備のやつだ。お前に授けよう。俺と戦火を交えた君はこいつにフリントが仕込まれていることを知っているだろう。ガイ・ヤーンと合わせることできっと業火は天をも焦がすだろう」

 玄馬はそれを軽く回し、

 サムの胸元へ向けてふわりと投げた。

 金属が空気を裂きながら回転し、

 サムの掌へ吸い込まれるように落ちた。

 冷たさ。

 重み。

 焼け焦げの残り香。

 一瞬で、あの日の炎が脳裏に蘇る。

 ──負けた。

 それでも、生かされた。

 サムは強く握りしめた拍車を見つめたまま、低く問う。

「……なんで、俺に?」

 玄馬は少しも迷わず答えた。

「火をまとった拳を前にして、退かず、伏せず、目を逸らさん奴は少ない。“火に嫌われん者は炎を育てし”だ。言葉の通り、火がお前を助ける時が来る。必ず」

 サムは拍車をしばらく眺めたあと、

 ゆっくりと自分のエンジニアブーツに取り付け始めた。


 金属と革が噛み合う音。

 バックルを締める指の震え。

 かつて自分を焼いた“敵の武器”が、今は自分の足にある──

 その事実に胸がざわつく。


「……じゃあ、どうすんだ? まずは」


 サムが問いかけると、玄馬は短く答えた。


「かかとだ。一度、地を叩け。拍車の“火輪かりん”を回すんだな」


 サムは深く息を吸い、

 デッキの床に右脚をわずかに構える。


 そして――


 ギンッ!


 乾いた金属音が響いた瞬間、拍車のフリントが火花を撒き散らし、そこから一瞬、鋭い火柱が立ち上がった。


 赤――

 いや、青みがかった白炎が噴き上がり、空気を切り裂く。


「……っ!!」


 サムの瞳が一気に見開かれた。

 畏怖と興奮がないまぜになった表情。

 拳を握りしめたまま、言葉が出ない。


 つかさがうしろで思わず肩を跳ねさせる。


「ちょっ、ちょっと待って!今の何!? 火柱!? 」


 だが玄馬は微動だにせず、淡々と頷く。


「……良い“熱”だ。

 火が嫌う足運びじゃない」


 サムはまだ上がった熱を見つめたまま、

 ゆっくり口を開いた。


「……すげぇ……本当に、俺にも……火が……」


「そうだ。火は嘘つかん。踏みしめた者の“覚悟”にだけ応えるんや」


 玄馬の低い声が、朝のデッキに落ちた。


 サムは無意識にもう一度、かかとを軽く鳴らした。

 そこにはもはや恐怖の影はなく、ただ新しい武器を手にした少年のような純粋な光があった。


「これ、ガイ・ヤーンに纏えるように芹沢さんに加工してもらえばもしかして……」

 デッキの脇に置いてあった古い無線機が、不意にノイズを鳴らす。

『んあ?あー、そのカウボーイのおっさんからはこの話聞いてたからな、もう加工済みだぜ?試してみな?』


「ちょっと、芹沢さん……やめてくださいや。質実剛健でって言ったじゃないですか!!」

焦った玄馬が答える。

 すかさず蓮が片手で、冷静につっこんだ。

「いや、お前……質実剛健の意味わかってねぇだろ」

「大杉、お前は全くそういう八丁畷な……」

「それは川崎にあった地名だ!!」

声がデッキに響き、冷たい朝の空気がほんの少しだけ温かくなった。

 サムは火の残光を見つめ、ゆっくり笑う。


「……へへ。じゃあ俺も、その……“八丁畷な感じ”で行ってみようかな」

「だから地名だっつってんだろ!」


 蓮のツッコミが飛び、サムがぎゃははと笑う。

 玄馬も、肩をすくめながらも口角をわずかに上げていた。


「──そろそろいい?」


 静かな声が、背後から落ちてきた。


 つかさがビクッと肩を揺らす。

 振り返るまでもなく、その声の主はわかっていた。


 采女だ。


 戦闘スーツに身を包み、腕を組んだままこちらを見ている。

 その目は氷のように澄んで、どこか怒っているような、いや、最初から“感情を持つ必要がない”顔だった。


「次はつかさちゃんよ」


「えっ……き、急すぎ──」


「急も何もよ、あなた私に一度敗北してるのよ。戦場での迷いは死ぬわ」


 言い切る声音に一切の起伏がない。つかさの足がぴたりと止まった。


 蓮が煙草を口に戻しながら、ぼそっと呟く。


「……つかさ、がんばれ。俺でも采女さんとの組み手は……まーじで嫌だった」


 サムが心配そうに手を振る。


「い、生きて戻れよ……!」


「ちょっと!!縁起でもないこと言わないでよ!!」


 つかさが振り返って怒鳴るが、その声にはすでに震えが混じっている。


 采女は一歩だけ前に出て、つかさの眼前で止まった。


「構えて」


「いや、まだ心の準備が──」

 つかさが言い切るより早く。


 パスッ。


 乾いた衝撃音だけがその場に落ちた。


「いっ……!」


 つかさの身体がわずかに折れる。

 誰も目で追えなかった。

 采女の指先が、つかさの脇下の一点を正確に撃ち抜いていたのだ。


「点穴はこうやって突くのよ」


 采女はまるで埃でも払うように、指先を軽く払った。


「ほら、立ちなさい。

 銃だけでは近場の敵に対処できないわ。

 “間合いを奪われた瞬間に死ぬタイプ”なの、あなた」


 つかさは脇腹を押さえながら、涙目で立ち上がる。


「な、なんでそんな容赦ないのよぉ……!」


「容赦? ……必要?」


「必要ですぅぅぅ!!」


 デッキが一瞬静かになる。


 その場にいた全員が、つかさの叫びとは裏腹な“采女の遠慮ゼロ”っぷりに呆然としていた。


 蓮は煙草を落としかける。


「……やっぱこの人、こえぇ……」

采女がさらに指を構えたその瞬間――横からぬっと影が差した。


「ほう、君は銃も扱うのか……」


 玄馬だった。

 采女の“追撃”を止めるように、つかさの前へ一歩踏み出す。


「……ひっ……!」


 涙目のつかさが小さく跳ねる。


「……非殺傷型のテーザー銃で、アンプルを変えれば麻酔や睡眠弾なんかも撃てますが。

 とは言っても……オートエイムですが……」


 玄馬の目がカッと開いた。


「なぬ!!」


 デッキの空気がビリッと揺れる。


「オートエイムでは、戦闘慣れしている兵士には一瞬で見切られてしまうぞ!!これは……マニュアルで銃を撃つ訓練も必要だな!!」


「ひっっっ!!?」


 つかさの声が裏返った。


 そこへ蓮が、煙草を咥えたままぼそり。


「あー……そいつな。銃の盟主なんだ。実は、そこそこうるさいぞ」


 玄馬がビシッと指を伸ばしてつかさを指す。


「まずは素撃ち(すうち)!そして照準感覚の矯正!その後は“点穴の突き方と間合い”を学ばんといかん!!」


「ひぃぃぃぃ!!」

 采女も横から静かに言う。


「つかさちゃん、覚悟して。今日一番キツいのはあなたよ」


「えっ!?初手で痛手を負わされたのにまだやるんですか!?!?!」


「もちろん」


 つかさの顔が絶望の色で塗りつぶされる。


 サムが小声で湊に囁く。


「……なぁ湊、つかさ死なないよな?」


「……わ、わからん」


 蓮は煙を吐きながら言った。


「死にはしない。が、二人が本気になったってことは地獄を見るだけだ」


「全然励ましになってない!!」


 つかさの悲鳴がロゼリアの朝空に吸い込まれていった。


──渋谷ミカルエ


 かつての商業施設は、いまやアークロイヤルが運営する

 “無秩序な楽園”として生まれ変わっていた。


 屋台が並び、電子タトゥー屋が光り、

 偽ブランドのホログラムが空中に浮かぶ。


 喧騒の渦を抜け、専用エレベーターを上がった最上階。


 そこだけ、空気が変わる。


 床は深紅のカーペット、

 壁には中東風の装飾、

 無駄に豪華な黄金の椅子。


 その椅子に、足を組んで座る男がいた。


 マジェンタ・デ・シェイロ。


 サングラス越しに下界を見下ろし、口元に退屈そうな笑みだけを浮かべている。


 最奥の扉が開く。


「いやはや……相変わらず繁盛してますね、マジェンタさん」


 黒いスーツのソ・ミョンソクが姿を現した。


 マジェンタは指先で金の指輪をくるりと回しながら、

 こちらを見るでもなく言った。


「で?今日も“うちに兵を出せ”って話か?四社協定がどうのこうの言ってた割には、アイスなんとかさん潰して、ド派手にやったじゃないの」

 ソファの脇の自動扉が静かに開き、

 銀のトレイを持った男が姿を現した。


「お待たせしました、ボス。……おふたりも、いかがです?」


 Şinbisalシンビサル

 アークロイヤルの“堅物な整備屋”で通っている男だが、その実、裏の切り札でもある。


 深紅の液体が揺れるグラスを、まずヨンヒへ、そしてミョンソクへ。

 優雅な手つきで差し出す。


「仕事の最中ですが、せっかくですからいただきましょう」


 ミョンソクは愛想のない笑みで受け取り、グラスを左手で軽く持ち上げた。


 ……そのときだった。


 ミョンソクの右手が、ふとスラックスのポケットに触れた。


 その“指の角度”を見た瞬間、シンビサルの表情から笑みが消える。


 次の瞬間、床が弾けたように音を立てた。

 シンビサルの足が振り上がり、竜巻のような蹴りがミョンソクの腕に叩き込まれる。


 ミョンソクは反射的に受け身を取り、

 身体を半回転させながら後方へ跳ぶ。


 落ちたワイングラスが、

 まるでスローモーションのように垂直落下し――


 パリン。


 深紅がガラス片に散り、静かな室内にだけ小さな雨音のように響いた。


「……何をするんですか」


 ミョンソクが低く問う。

 受け身の姿勢のまま、片膝をついている。


 シンビサルは構えを解かず、

 ただ肩越しにマジェンタへ確認するように視線を送った。


 マジェンタは、やれやれといった調子で笑みを深めた。


「お、やるのか?

 徹底的にやっちまいな……って言いてぇとこだがな」


 赤ワイン入りのグラスをゆっくり回しながら続ける。


「ここ、俺の部屋なんだわ。これ以上、汚すんじゃねぇぞ」


 軽口のようでいて、

 その瞳の奥だけは妙に冷たい。


 その瞬間だった。


「やめなさい、ミョンソク」


 ヨンヒがワイングラスを片手に、ミョンソクの前に一歩進んだ。


 声は穏やかだが、“絶対に動くな”という命令が含まれているように見える。


 ミョンソクは唇を噛み、視線だけで状況を計算するように周囲を確認した。


 シンビサルはまだ構えを崩さない。いつでも動けるよう臨戦態勢のまま周囲を見渡す。

 

 マジェンタは最初から退屈な茶番程度にしか見ていなかった。


 ミョンソクは目を伏せ、ゆっくりと立ち上がった。


「……失礼しました。ただ、資料端末を取り出そうとしただけですよ」


 シンビサルは鼻で笑った。


「資料ですか。飲み物を受け取ってる最中に失礼な方ですね」

 ヨンヒは静かに溜息をつき、グラスを卓に置いた。


「……ミョンソク。ここはこの方たちのお家よ。他所様の家で無礼な行動はやめてちょうだい」

 

 ミョンソクは肩を落とし、シンビサルから視線を逸らす。


「誤解を招いたのなら謝りましょう。ただ、こちらも急いでいるのです。時間が惜しい」


 それを聞いた瞬間、マジェンタが鼻で笑う。


「急いでるのはわかるけどよぉ。

 だからって“こっちが急ぐ義理はない”よなぁ?」


 指輪をコツンとテーブルに叩きながら続ける。


「──アークロイヤルは兵を出さねぇ。そもそもうちに兵隊なんて居ねぇんだっつうの。その話、何回言や分かんだよ」

 マジェンタは椅子の背にだらしなく体を預け、

 サングラスの奥で笑う。


「うちは“自分の食い扶持は自分で稼ぐ”チームだ。

 おたくらみたいな大国の企業みたいに正規兵なんて持ってねぇし、

 持つ気もねぇのよ」


 ミョンソクは静かに眉をひそめた。


「……正規兵を持つ気はない…ですか?」


 その声音には、わずかに探るような響きが混じっていた。

 ヨンヒは微かに眉を動かし、マジェンタは相変わらず笑んでいる。


 ミョンソクは視線だけを横にずらし、シンビサルをもう一度チラリと盗み見た。


 その瞬間──


 シンビサルの足元の重心が、わずかに沈む。

 完全に崩していたはずの構えが、“即応の構え”へと滑るように戻る。


 空気がひりつく。


 ヨンヒがすぐに気づき、ミョンソクの手首を軽く押さえた。

手首に触れたヨンヒの指は柔らかいのに、そこには「これ以上動くな」という明確な指示があった。


 ヨンヒはゆっくり一礼し、マジェンタへと視線を向ける。


「……ご無礼な真似を申し訳ございません。

 代わりと言ってはなんですが、本日はマジェンタ様に“ひとつ情報”をお届けに上がりました」


 その声音は艶があるのに、奥は鋭い。

 マジェンタの笑みが、ほんのわずかに深くなる。


「ほぉ……情報ねぇ。で、どんな“色”をしてる情報なんだい?」


 ヨンヒはスーツの内ポケットから薄型の資料端末を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。


「こちらをご覧ください」


 端末に映し出されたのは一枚の人物データ。

 古い官公庁のデータでスーツ姿の男。

 ファイル名には──


《中村 キヨシ》


 ミョンソクが無言でマジェンタへ画面を傾ける。

 マジェンタはサングラス越しに眺め、ひとつ鼻を鳴らして笑った。


「あぁ?こいつか。懐かしいじゃねぇか。大阪で見たことがあるな、確かに。……それがどうした?」


 ヨンヒは一拍置いてから告げた。


「彼が──川崎を牛耳っています」


 空気が変わった。


 マジェンタの笑みが、初めて動きを止める。

 グラスを揺らしていた指もぴたりと止まった。


「……ほーう?」


 ヨンヒは静かに続ける。


「空白の跡地を支配しているのは若い少年達だと思われていましたが、

 その背後にいるのはこの男です。

 元・大阪情報統制部隊キャスター

 中村キヨシ。

 あなたも一度は、その“やり方”を見たはず。かなり厄介なお話かと」


 マジェンタはゆっくり姿勢を正し、サングラスを外した。

 深紅のカーペットの上で、彼の瞳だけが冴えたように輝く。


 ヨンヒは一歩踏み込み、静かに告げた。

「もしあなたが“川崎港”を手に入れたいのなら──この男は、きっと邪魔になるはずです。ですが、私も中華の連中も大国を背後に持つがゆえに派手なことはできないのです」

 室内が、ぴたりと静止した。

 マジェンタは赤ワインを揺らしながら、鼻で笑う。

「ほぉん……。で、俺に“あいつをどうしろ”って言うわけだ?」

「いいえ」

 ヨンヒは首を振った。

「あなたに求めるのは、前に出ていただくこと──ただそれだけです。

 成果を上げてくだされば、我々は**

 ――川崎港の“利権”を差し上げましょう。**

 赤ワインが、グラスの中で揺れる。

 マジェンタは、ゆっくり身を乗り出した。

「利権……ねぇ。船も、物流も、税の監視もナシで?」

「すべて。違法船の出入りも、取引も、我々は目をつぶりましょう。あなた方の好きにして構いません」

 シンビサルの呼吸が、ほんのわずかに変わった。

 彼はマジェンタの背後に立ちながら、場の空気を測り続けている。

「ただし……一つだけ条件があります」

 マジェンタが笑う。

「なんだってんだ?」

「川崎港の一角に、我々の“通信基地”を置かせてください。監視もしない。干渉もしない。

 ただ──情勢を読むための“耳”がほしいだけです」

 マジェンタはグラスを回しながら、ゆっくりと天井を見上げた。

「なるほどなぁ……。うちの兵は出さねぇ。だが前に出れば、港は好き放題……か。

 アンタらの得は“基地局ひとつ”で済む、と」

「ええ。お互い、悪くない取引でしょう?」

 数秒の沈黙。

 ミョンソクは横目でシンビサルを再び盗み見る。

 シンビサルの足はわずかに前へ──まだ“臨戦”を解いていない。

 そして──

「……悪くねぇなぁ。

 悪くねぇよ、姉ちゃん」

 マジェンタが、ニヤリと笑った。

「港は喉から手が出るほど欲しかったんだ。

 そいつをくれるってんなら──前に出る理由くらいには、なる」

 ヨンヒは軽く頭を下げた。

「ご検討の上で、お返事を。ただ……“時間はあまり残されていません”。」

 彼女は最後にミョンソクへ視線だけ送った。

 ミョンソクが端末から古い無線機を取り出し、両手でマジェンタに差し出す。

「連絡の際はこちらを──」

 マジェンタは受け取った無線機をひとつ回し、軽くシンビサルへ顎をしゃくる。

「……調べとけ。妙な細工があると面倒だ」

 パキン、と内部パーツを外す乾いた音。

「……ぱっと見は“触ってない”。使われ方も素直。悪意の匂いはしませんね」

 淡々としていながら、確かな職人の手つきで分解と確認を進める。

 ヨンヒとミョンソクは深く一礼し、静かに部屋を後にした。

 扉が閉まる。

 しばらくして──

 床の隅から清掃ロボットが滑るように現れた。

 ガラス片を、ひとつ、またひとつと静かに吸い上げていく。

 まるで“誰にも気づかれぬうちに、何かが始まってしまった”ことを象徴するかのように。


 ミカルエ最上階から落ちるように降下するエレベーター。

 鏡面パネルに、ヨンヒとミョンソクの姿がぼんやり揺れていた。

 扉が閉まると同時に、喧騒は完全に遮断される。

 密室に、ふたりの呼吸だけが残る。

「……少し芝居が過ぎたんじゃない?」

 ヨンヒが静かに問う。

 ミョンソクは鏡越しに自分の右腕を見下ろした。

 シンビサルの蹴りを“受けたふりだけをしてつけた”浅い痕。

「必要な演出ですよ」

 淡々とした声。

 部屋で見せていた頼りなさは、どこにもない。

 ヨンヒは横目で彼を見て、静かに頷いた。

「……ええ。あなたが“愚鈍”に見えるなら、それでいい」

「そうですね。これで条件はすべて整いました」

 エレベーターが一階に到着する。電子音が鳴り、重い扉が左右へ開く。

 ミョンソクは足を止めずにそう言い、まるで街の喧騒へ溶けるように歩みを進めた。



今日は朝からキス釣りに行っておりました


早起きすると時間感覚がよくわからなくなりますね


まだ朝なのに気分は真昼間。


ここから釣れたキス共を捌くとなると憂鬱です。



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