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UnChain  作者: 大垣礼緒
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17/20

■第二章:沈黙のノード



 旧・新大久保地域センター。

 現在は《블랙데빌 생활지원센터(ブラックデビル生活支援センター)》と呼ばれている。


 看板の主表記はハングルで、日本語はその下に小さく添えられていた。


 ――結乃の無線の発信源は、ここだった。


 建物の外観は拍子抜けするほど普通だった。

 四階建ての白い庁舎。入口の自動扉が音もなく開き、

 中からは子どもの笑い声と、韓国語まじりのアナウンスが漏れてくる。


 「……ここ、で合ってるのか?」

 サムが端末を確かめながら首をかしげた。

 「発信ログは間違いないわ。結乃さんの信号は、この建物の中から出てる」


 ロビーの天井は高く、光沢のある白床には電子掲示板が整然と並んでいた。

 〈生活支援課〉〈移住登録窓口〉〈ナノ適応サポートセンター〉――

 どの看板も二言語表記で、機械音声が韓国語と日本語を交互に読み上げている。


 市民たちは誰も彼らに注意を払わない。

 ナノ端末で受付を済ませ、空間に浮かぶホログラム用紙に指でサインをして去っていく。

 ただ、空中に漂うデータの光が人々の間を行き来していた。

 「敵の基地っていうより、普通の生活相談所ね。監視もないし、武装もいない。中を自由に回れないからこそ……逆に、厄介よ」

 「ここまでが“罠”って線もあるけどな」


 ふと見上げた天井のカメラは、赤いランプを点滅させながらも、

 どこか“惰性”で動いているように見えた。

 ――まるで“監視しているフリ”だけをしているようだった。


 ロビー奥、相談ブースの向こう。

 「AUTHORIZED PERSONNEL ONLY」と表示されたエリアがあった。

 警備員の姿はなく、扉の横には小さな端末がひとつだけ。


 「……発信源、あそこだ」

 サムが扉に手をかけた瞬間、上方のセンサーが赤く点滅し、金属音を響かせた。


 ――ピッ。

 警備ロボが滑り出てくる。

 白い装甲に“B.D. SECURITY”のロゴ。

 「허가되지 않은 접근입니다(許可されていないアクセスです)」と機械音声が告げた。


 「……あちゃあ、やっぱりか」

 サムが苦笑する。

 つかさが小声で言った。

 「どうするのよ。通してもらえないわ」

 数秒の沈黙。

 つかさがサムを横目で見た。

 「――あんた、一応曲がりなりにも外国人なんだから、移住したての韓国人のフリしなさいよ」

 「曲がりなりにも……って……。それに、俺韓国語なんてほぼわかんねぇよ?」

 「じゃあ、韓国に移民申請に来たタイ人ってことで」

 「……日本で韓国に移民申請しに来たタイ人だなんて、ちぐはぐな……」

 「文句言わない!」


 半ば押されるように、サムは端末の前に立った。

 ホログラムメニューが開き、複数の言語が浮かび上がる。

 《한국어/日本語/English/ไทย/Русский/Tagalog》

 「……おい、親切すぎるぞこれ」

 《タイからの移住者はコチラ》

 「……できるじゃん」

 しかし、登録完了の直前――

 《ERROR:識別コードが存在しません》

 端末の音声が冷たく響いた。

 警備ロボのランプが再び赤に変わる。

 その瞬間、奥の通路から足音が近づいてきた。


 姿を現したのは、一人の職員だった。

 灰色のジャケットに、胸元の識別カード。

 スーツというよりは、清潔な私服――行政職員と民間の中間のような格好だ。

 声は柔らかいが、どこか人工的な抑揚があった。


 「どうかされました?」


 サムの額にじわりと汗が浮かぶ。

 「――あー、えっと……私、フリーの記者でしてね」

 つかさが思わず目を細めた。

 (出た、即興芝居……)

 「手違いで、紛争地帯に流されたことになっちゃいまして。

  で、その、死んだことになってるせいでIDが……その……」

 「……」

 職員の視線が、無表情のままサムの全身をゆっくりと走査する。

 まるで人間ではなく、センサーで読み取っているようだった。


 「同僚から、ここのボスなら何とかしてくれるって聞きまして」

 「……なるほど」

 つかさが小さく顔を覆った。

 (いやいや、どんな筋書きよそれ……)


 沈黙。

 だが職員は眉ひとつ動かさず、淡々と頷いた。

 「わかりました。確認してみましょう」


 こめかみの下、皮膚の内側で微かな光が走る。

 ――体内通信。

 サムの喉が、ごくりと鳴った。

 (……やばい、完全に詰んだ……)


 「どうやら……話は通っているようですね」

 「え?」

 「ではこちらへ」


 つかさが思わずサムの腕を掴む。

 「な、なにそれ、どういう意味よ?」

 「俺が聞きてぇよ……」


 職員は静かに微笑んだ。

 「すみませんが、お連れ様はロビーでお待ちください」


 ロビーの喧騒が、急に遠く感じられた。

 サムの背筋を、冷たい汗が伝い落ちていく。

サムの胸が、ゆっくりと跳ねた。

社長室――という言葉が軽く笑えるほど、部屋は映画のワンシーンみたいだった。黒く艶やかなファーコートが椅子を占め、窓際には薄いブラインドから朝の光が斜めに差し込んでいる。壁には街の古い写真と、新しく鮮明な衛星地図が並んでいた。床には厚手のラグ。空気が、妙に“整って”いる。


目が冷たく光る。声は低く、ゆっくり。彼女が両手をスッと広げると、案内の職員がさっと立ち去ってドアを閉めた。瞬間、廊下の雑踏が遠ざかる。


「はじめまして。私はリ・ヨンヒ。ソファーにどうぞ」


サムは身体をねじってソファに腰掛ける。心の中では「よっしゃ」と小さくガッツポーズした自分と、凍りつくような疑念が戦っていた。――偶然が重なりすぎる。偶然で片付けられない“できすぎ感”。でも今は芝居を続けるしかない。


「えっと、あの……紛争地帯に流されたことになって……その……もう一人、IDを失ったジャーナリストの女性、ここに来てないですか? 黒い飾り帽子を被った……」


サムの言葉が途中でかすれる。目の前の女は一瞬だけ顔を緩めたように見えたが、すぐに冷たい微笑に戻る。


「芝居が下手くそね。それじゃAIには勝てないわよ」リ・ヨンヒがすっと肘掛けに寄りかかる。「あなたたちのことは知ってる。だが我々は争いたいわけじゃない。女の子の身柄は返してあげたいところよ。だが残念、彼女は中南海のボスに気に入られてしまってね。今は中華のアジトにいる。発信器をつけて証拠もある。さて、どうする?」


サムの喉が乾いた。言葉を返す前に、頭の中で選択肢がぐるぐる回る。全部差し出すわけにはいかない。だが嘘も大概にしないと命が危ない。つかさはロビーで待たされている――今は二人きり。時間がない。


「証拠、って……見せてくれるのか?」サムは慎重に訊いた。声を落として、でも確実に。


 ヨンヒはゆっくり立ち上がり、机の端末を軽く叩く。ホログラムに小さなウィンドウが開き、そこに映し出されたのは、確かに見覚えのある無機質な画面と、結乃の短い断片音声。無線のノイズの向こうで、彼女の声が切れ切れに聞こえる。映像は一瞬で切り替わり、見覚えがあるような建物の外観図。


「証拠はこれでいい?」リ・ヨンヒはゆっくり椅子に戻る。「あなた達からは等価交換を要求する。あなた達の“アジト”を教えなさい。位置情報、人数、ナノ遮断の有無。それと―― ‘重要人物’ の名前。私たちの条件はそれだけよ」


 サムは深呼吸を一つして、ゆっくりと口を開いた。

 「……わかりました。ちょっとボスに相談させてください」


 リ・ヨンヒは眉をわずかに動かす。

 「意外とあなた達も組織だった行動をしているのね」

 その声には興味と警戒が半々に混じっていた。


 サムは軽く会釈し、端末を取り出して無線を繋げる。

 「――ボス、聞こえますか?」


 わずかなノイズの後、低く落ち着いた声が響いた。

 『ああ、聞こえとる。……いや、全部丸聞こえや』

 その声を聞いた瞬間、サムの背中の筋肉が緩む。


 『まずええか、サム。俺らの情報は最小限に抑える。

  君らの安全は俺が守るで。……あとは、俺に任しや』

 「了解」

 『音量を最大限にしぃや。相手に聞こえるように机の上に置いてくれ。

  俺の声を、あえて聞かせるんや』


 サムはその言葉どおり、音量をMAXにして机の上に無線機を置いた。

 ヨンヒの視線がわずかに鋭くなる。


 スピーカーからキヨシの声が部屋に響く。

 『あー、あー、聞こえますか?』


 ヨンヒは脚を組み替え、わずかに口角を上げた。

 「ええ、聞こえるわ。ずいぶん遠慮のない挨拶ね」


 『ほんなら話が早い。

  私の名前は中村キヨシ。元大阪キャスターの出身ですわ。

  “ノード”で調べてもろたら、一発で出てくると思うわ』

 「……ふふ。名前の売れた方なのね」


 『まぁな。だいぶ前に辞めてもうたが、まだ名前だけは残っとるらしい。

  姉ちゃん、俺はあんたと直で話したいんや。

  この無線を手に取って、音量を少し絞ってくれへんか?

  互いの呼吸が聞こえるくらいで、ちょうどええ』


 ヨンヒは少しの沈黙のあと、立ち上がって無線機を手に取った。

 「いいでしょう。……朝のコーヒーブレイクにはちょうどいいわ」

 指先が音量ダイヤルをなぞり、部屋の空気がふっと静まり返る。

 スピーカーの音が遠ざかり、サムの耳にはもう何も聞こえない。

 ただ、彼女の口がわずかに動いているのが見える。


 低い声。

 短く、そして慎重なトーン。

 会話は断片的に、途切れ途切れに続いた。


 声は聞こえない。ただ、女の表情が変わっていくのだけは見えた。

 サムは息を呑んだ。――何を話してる? 何が起きてる?

 目の前で、無表情の女がわずかに目を細め、頬の筋肉を動かす。

 ほんの数秒。けれど永遠にも感じられた。


 そして、不意に無線の小さな光が消える。

 ヨンヒはそれを机の上に戻し、深く息を吐いた。

 その顔には、さっきまでの余裕がほんの少しだけ欠けていた。

 声も、わずかに掠れている。


 「……池袋。旧サンセットシティ」

 彼女は一拍置いて、視線をサムに戻した。

 「そこが中華の連中のアジトよ。……そこに、彼女がいる。」


 言葉は平静を装っていた。

 だが、その指先が小刻みに震えているのをサムは見逃さなかった。


 ――ブラックデビルの女が、動揺している。

 その事実が、何よりも雄弁だった。


 サムは無線を拾い上げ、短く頷いた。

 「……助かりました。恩に着ます」

 ヨンヒは微笑もうとしたが、その笑みは途中で途切れた。


 ドアを開けると、冷たい廊下の空気が一気に流れ込む。

 ロビーに戻ると、つかさが待っていた。

 「……遅かったじゃない。中で何があったの?」

 「んー、ちょっと話し合い」

 「一体、どういう……」

 「まあまあ。――行くぞ」

 「どこへ?」

 「池袋。中南海のアジトだ」


 つかさが思わず声を上げる。

 「はぁ? どういうことよ!?」

 「詳しいことは、また後で話すよ。とにかく――まずは蓮さんのところまで戻ろう」


 ロビーの自動扉が開く。

 外の光が差し込み、ふたりの影が床に伸びた。

サムは振り返らない。ただ胸の奥で、さっきの無線の余韻が まだ燻っていた。

――キヨシさん、あなたは一体何を話したんだろうか……。

その問いが、心の奥で 消えきらずに残っていた。



 


 外に出ると、空は鈍く曇っていた。

 通りに停めたトラックのエンジンが、低くうなっている。

 サムとつかさが乗り込もうと手をかけると、わずかに開いた運転席の窓から、煙の匂いが流れ出てきた。


 「おまえら、海鮮チヂミと酒のひとつでも買ってこいよ……」

 行き来できる荷台の方で寝そべった蓮が煙草をくわえたまま、ぼそっと言う。

 「こちとら腹ぺこだっちゅうの」


 サムが運転席から振り返り、笑いながら返す。

 「胃袋の中にいっぱい詰まってます!」

 「なんつぅか、遠慮というものを知らねえなクソ」

 蓮の眉がピクリと動いた。

 けれどその口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。

 つかさは助手席に腰を落ち着け、無線機をちらりと見た。


 サムは地図端末を開き、ぼそりとつぶやいた。

 「行き先は――」


 「全部聞いてたよ。池袋だろ?」

 蓮は煙を吐きながら笑い、前方のAIナビに向かって言う。

 「AI、目的地を池袋――旧サンセットシティ。西側ルート優先で設定」

 《確認しました。出発します》

 淡い音声が返り、サイドランプがゆっくり点滅を始める。

 「向かおうぜ。……どうせ俺は待機組だけどな」

 トラックのエンジンが再び唸りを上げた。

 通りの光がフロントガラスを滑り、街の灰色を照らす。

 ――その行先に、彼らが何を見るかは、まだ誰にもわからなかった。


 池袋――旧サンセットシティ。

 地上から百メートルを超えるガラス塔の影が、曇天の中に滲んでいた。

 かつてはショッピングモールと水族館が併設された複合施設。

 今は「中南海・関東管理局」と呼ばれる、巨大な拠点だった。

 近くの地下駐車場に停めたトラックの隣で、蓮が軽くキャップを直した。

 「何かあったら“海鮮チヂミ”だぞ。聞いた瞬間に突っ込む」

 「まだ言う?」

 「暗号だっつってんだろ。悟られねぇようにな」


 蓮は端末をひらひら振ってみせる。

 「俺は地下で待機してる。サンキで飯でも買ってくるから、任せたぞ」


 サムとつかさは同時に頷き、黒い表演服の裾を整えた。

 この“服”を着るのは二度目だ。

 鶴見の倉庫――

 とっさの判断でロッカーに入り、息を潜め、

 つかさが落としたアンプルの小さな音で全てが狂った、あの夜。

 飾り気はないが、舞台衣装めいた威圧感がある――中南海の“表演服”だ。

 キャップも黒一色で、特徴らしい特徴はない。


 「なんだかんだ持ってきててよかったね、コレ」

 「そもそも“持って帰りたくて持って帰った”わけじゃないけどな……」


 「じゃあ――行ってくる」


 二人はガラス塔の搬入口へ向かって歩き出す。

 静かすぎる“要塞”。


 潜入が、静かに幕を開けた。

 サムは笑い、搬入口のスキャナーに名札をかざす。

 青のランプが静かに点滅し、ドアが音もなく開いた。


 ――誰もいない。

 まるで“空っぽの要塞”だった。

 機械の唸りも、人の声も消え失せ、ただ空調だけが、冷たい呼吸を続けている。


 「妙ね。ここ、本当に中南海の拠点?」

 「間違いない。けど……生きてる気配がない」

 廊下の奥へと進む。

 ガラス張りの研究区画には、空になった培養槽がずらりと並んでいた。

 乾いた液体の跡が壁に白い筋を残し、まるでここだけ時間が止まったようだ。


 そのとき――足音がした。


 角の向こうから現れた男が、懐中灯をこちらへ向けた。

 黒い制服、マスク越しの低い声。


 「……见不到你。哪儿来的?(見ない顔だな。どこの部隊だ?)」


 喉が一瞬だけ固まる。

 だが次の瞬間、サムの耳の奥に“あの音”が蘇った。

 タイの港湾の工場。蒸気の匂い。

 鉄を叩く音と、潮州訛りの混じった怒鳴り声。


 その残響に導かれるように、言葉が自然に口をついた。


 「……橫濱支部的。临时调配。维修组(横浜支部です。臨時配属の整備班)」


 男は数秒、サムの顔を眺める。

 緊張で背中に汗が流れる。

 やがて男は短く鼻を鳴らした。


 「维修组?……那就去东区。冷却管路坏了(整備班か。なら東区だ。冷却ラインが壊れてる)」


 「知道」

 サムが軽く頭を下げ、つかさの腕を引いて歩き出す。

 角を曲がった瞬間、つかさが声を潜めて息を吐いた。


 「……どこで覚えたの、あれ」

 「昔の職場。港の工場さ。半分中国語、半分タイ語の現場だった。これまた外国人あるあるだけど複数言語できる人は一度英語に落とし込むんだ。中国語は文法が英語に似てるからわかりやすくてちょっとかじった」

 「そこまでできるのに、なんで日本来たのよ」


 サムは肩をすくめる。

 「そりゃ日本のアニメが好きだからに決まってるだろ?……まあ、最近は見てる暇もないけど。今や俺の人生そのものがアニメみたいだし」


 「そういうメタいこと言っちゃだめ!!」


 つかさが袖をつねり、サムは痛がるふりをしてみせた。

 だが足取りだけはゆっくりと、警戒を解かない。

 表演服の襟元を直しながら、二人は沈黙した廊下を進んでいく。

 階段を上がるたび、つかさは眉をひそめた。

 ――静かすぎる。


 地下の研究区画までは、空調の唸りや遠くの足音がわずかに聞こえていた。

 しかし地上へ向かうにつれ、気配がすっと薄れていく。

主要な監視カメラがあるポイントだけ、つかさが静かにチャフアンプルを焚く。

 センサーが死に、角のランプが一瞬だけくぐもった赤を灯す。


 しかしそれ以外に警戒らしい警戒がない。


 階段の途中で、数人の中南海構成員とすれ違った。

 しかし彼らは武器を持たず、制服もくたびれ、戦う気配はゼロ。


 サムが目を細める。

 「……民間人ばっかりだ。兵士じゃないね」


 つかさは首を傾げた。

 「どう考えても、ここが“中枢”って感じじゃないよね」


 二人は階段の踊り場で立ち止まる。


 つかさがエレベーターの方を指差し、囁く。

 「……サム。この静けさなら、エレベーターでも行けそう。行ってみる?」


 サムは短く頷いた。

 「逆に階段のほうが怪しいくらいだな」


 二人はエレベーターに乗り込む。

 古い箱は低く軋み、ゆっくりと上昇していく。


 そして――最上階。


 扉が開いた瞬間、二人は同時に息を止めた。


 そこには、磨かれた黒御影石の廊下が真っ直ぐ伸び、

 その突き当たりに、巨大な両開きの扉がそびえていた。


 扉の上には、金色の古い字体でこう刻まれている。


 「王の間」


 サムは喉を鳴らす。

 つかさは深呼吸して、そっと足を踏み出した。

扉を押し開いた瞬間、つかさとサムは足を止めた。


 そこに広がっていたのは――

 戦場の空気とは対極の、異様なほど静かな光景だった。


 巨大な円卓の横にある雀卓。

 積み重なった牌。

 白い湯気を立てる独特な形の急須。


 そして、卓を挟んで対座している二人。


 一人は――見知らぬ老人。

 白髪を束ね、深紅の刺繍入りのローブを身にまとい、

 その瞳は歳を重ねてもなお鋭い。


 もう一人は――結乃だった。


 麻雀牌を指先で弄びながら、ゆっくりと微笑んでいた。


 つかさが声を上げる。

 「――結乃さん!! 下がって!」


 ナース・バスターⅡを構え、サムも即座にガイ・ヤーンを抜く。

 二つの殺気が走った瞬間――


 老人が軽く、しかし場を支配するような声で言った。


 「物騒なものは下ろしてくれまいか。わしはただ、客人と遊んでいただけだ。」

 その余裕。

 恐れも、警戒も、怒りもない。

 まるでサムたちを“想定済み”と言わんばかりの落ち着き。


 サムが低く唸る。

 「どう信用しろって言うんだよ……」


 ガイ・ヤーンの先がわずかに震え、つかさはポーチからアンプルを取り出した。

 しかし、その前に――


 結乃が強い声で二人を止めた。


 「やめて、二人とも!」


 結乃の表情は、驚きではなく“警告”だった。


 「この人は……強い。

  私も少しやり合って分かった。

  でも、私たちと戦う気はこれっぽっちもないわ」


 老人は静かに牌を積み直しながら微笑む。


 「さて、客人――茶でもどうかね?」

老人は、積まれた牌をそっと指先で整えた。

 その動作ひとつで、場の空気が変わる。

 ゆっくりと視線を上げ、サムとつかさを見渡した。


 「……まずは座るがよい。客人を立たせたままでは礼を失する」


 つかさが一歩も動かないまま睨む。

 「礼? 仲間を誘拐しておいてよく言うわね」


 老人は微笑んだ。


 「誤解はあるじゃろうて。しかしまあ、順を追って話そう。」


 卓の横の呼び鈴を軽く鳴らすと、壁際のスライド扉が無音で開いた。


 白い皿がいくつも円卓に並べられていく。

 湯気を立てる点心、香草と肉の温かい香り、椀物。

 つかさの眉がわずかに吊り上がる。


 (……毒かもしれない)


 サムは無言でガイ・ヤーンを握り直していた。


 しかし老人は、二人の警戒を“読むように”笑い、

 箸を取り、最初の皿から迷いなく一口食べた。


 「……ほれ。毒など入っておらぬじゃろう」


 その落ち着きは、まるで未来を先に知っているかのようだった。

 サムとつかさは一瞬視線を交わす。


 老人は湯気の立つ茶器に手を添えながら言った。


 「そうじゃな。自己紹介がまだだった。

  そら、警戒されるのも当然というものよ」


 静かに、しかし響く声で名乗った。


 「我が名は──(ワン)。中南海を統べる者」

 王は結乃に視線を向ける。

 結乃は何かを覚悟したように小さく息を吸った。

 サムは半歩前に出る。

 「……じゃあ、その“王”さまに問いたい。なんで結乃さんをこんなところに?」

 老人は湯呑を口に運び、まるでその質問が“来ることを知っていた”ように柔らかく答えた。

 「急くでない。話すべきことは多い。だがまずは──腹を満たしながら聞くとよい」

  結乃は緊張をほぐすように、

 「この料理、全部私が所望したものよ。変なものは入ってないはず」

 と囁く。

 サムも結乃を信じて最低限の量だけ口に運ぶ。

 王はその様子を横目に見るだけで、一切口出ししない。

 奇妙に静かな食事だった。

 皿の音、湯呑の触れる音、そのわずかな響きだけが、円卓を支配していた。

 円卓の中心に置かれた銀盆から、ぱり、と小さな音がした。

 王が箸を伸ばし、香ばしい皮を一片つまむ。


 「この──北京烤鸭ペキンダックは、わしの大好物でな」

 湯気の向こうで、老人の瞳が細められる。

 「中華の“王様の料理”とも言えよう。王に勝るには、王を食らう。美食は、寡黙でいてはつまらぬ」

 そう言って、皿をサムの方へ押し出した。

 「遠慮はいらん。……食べなさい」

 つかさがサムの脇腹を小突く。

 サムはため息をつき、そっと一片を口に運んだ。

  ……ぱりっ。

 噛んだ瞬間、香りと肉汁が弾けた。

 次の瞬間だった。

 サムの眉が、ほんの僅かに上がり──

 唇の端が、ふっと緩んだ。

 王は嬉しそうにうなずいた。

 「うむ。では──少し、わしの話をしてもよいか?」

 誰も返事をしない。

 だが断るという選択肢もなかった。

 王はゆっくりと姿勢を正し、

 遠い昔を眺めるように語り始める。

 「中東の解放戦線に身を置いておった時期がある。砂ばかりの土地じゃった。理想を声にする者ほど、真っ先に撃たれて消える世界よ。」

 王は軽く、苦いような笑みを浮かべた。

 「そこに一人、妙に眩しいアラブの出の少年がおってな。銃を握りながら、どこまでも未来を語る……。不思議な、男じゃった」

 つかさが聞き返す。

 「仲間……だったの?」

 「ふむ。仲間か敵か──あやつの場合、そのどちらでもあった」

 王は続ける。

 「ある日、あやつはこう言った。『力は奪うためじゃない。未来を作れる者の手に渡るためにある』と」

 「その少年は、今どこに?」

 王は微笑む――が、それはどこか影を帯びていた。

 「異国の地で偉大なる統率者となっておった」

 やがて、全員が茶を一口含んだころ――

 王は杖を手に取り真正面を向いた。

 その仕草だけで、空気が変わる。

 「さて、客人。腹も落ち着いたようじゃし……本題に入ろうか」

 部屋の空気が、さっきまでの柔らかな雑談から一変する。

 「このむすめは、もう“役目”を果たした。それ以上は求めん。

  使い終えれば元あった場所に返すまでである」

 サムが唸るように問いかける。

 「……じゃあ、なんでこんな場所に?」

 王はゆっくりと視線を向ける。

 その瞳の奥に揺れていたのは、敵意ではなく、老いた知略の光。

 「ここが“最もわしにとっても彼女にとっても安全”だったからじゃ。

  そして――わしには、彼女を危険に晒す意思も理由もなかった」

 茶器の湯気が静かに揺れる。

 王の声は低く落ち着いているのに、その一語一語が重石のように響いた。

 「誤解せぬことだ、客人。わしは争いを望まぬ。

  ましてや、今この時にお主たちと火花を散らすつもりは毛頭ない」

 王は茶器を整え、卓の中央に置かれた北京烤鸭の皿を軽く押し直した。

 その動作は、まるで“宴は終わり”と告げる合図のようだった。

 「――行くがよい。娘も、お前たちも、ここに縛られる理由はもうない」

 結乃は椅子から静かに立ち上がった。

 つかさが肩を支え、サムが周囲を一瞥して警戒する。

 老人は三人の姿を見届けるように目を細めた。

 そして、ほんのわずか柔らかく笑った。

 「また、共に食を交わせる日を待っておるぞ」

 その言葉は、脅しでも嘘でも、媚びでもなかった。

 ただ、まるで友人を送り出すような――

 不可解なまでに穏やかな響きだった。

 

 重厚な音を立てながら扉が閉まる。それと同時にカランと乾いた小さな物音がした。

 廊下に出た瞬間、つかさがひそひそ声で言う。

 「……あっさり、すぎない……? 」

 サムは無言で頷いた。

 その眉間に刻まれた皺は、戦場では見せない種類のものだ。

 結乃は歩きながら、少しだけ震える指を握りしめたが、その顔には確かな安堵が浮かんでいた。

 ――間違いなく奪還できた。

 それだけは事実だった。

 だが三人の胸に残ったのは、「助かった」という実感よりも、

 “腑に落ちないあの老人の余裕” だった。

 池袋を離脱した三人は、合流地点の地下駐車場で蓮と落ち合った。

 「無事か?」

 短く確認し合うと、四人はそのまま川崎へ向けて車を走らせた。

 結乃は後部座席で何度も深呼吸を繰り返していた。

 蓮はルームミラー越しに横目で彼女を見つつ、低く呟いた。

 「……あのジジイ、何者なんだ?中南海の王があれほどあっさり帰してくれるとはな」

 サムもつかさも、返事ができなかった。

 ただ“腑に落ちなさ”だけを胸に抱えたまま、車は川崎の市街地へ滑り込んでいく。

 

 しかし――

 異変は、ロゼリア地下車庫の前で待っていた。

 蓮がハンドルを切った瞬間、前方に立ち並ぶ巨大な影がライトに浮かび上がる。

 銀色のフレーム。

 蜂の巣のようなセンサー群。

 アイスブラスト社のロゴ。

 何台ものAI自律走行トラックと装甲SUVが、地下車庫の入口を完全に塞いでいた。

 つかさが呆然と声を漏らす。

 「……な、に……これ……」

 サムは反射的にガイ・ヤーンに手を伸ばした。

 「待って、今ここで戦うのは――」

 そう言いかけたとき、隣から蓮が唸った。

 「……罠、か?まさか――王が……?」

 結乃は顔を青ざめさせて首を振る。

 「違う! そんなはずないわ!私、何も……聞いてない……!」

 慌ててサムが無線を握る。

 『キヨシさん! 聞こえますか!?いったい何があったんです!?』

 数秒の沈黙。

 次いで、キヨシの震えも焦りもない声が返ってきた。

 『大丈夫や。こっちは何ともない』

 しかし、その静けさの裏に異様な緊張があった。

 『……ただ、えらいことが起きた』

 サムと蓮が同時に顔を見合わせる。

 『外におる車両のIDハックは芹沢が担当する。あんたらは全員、ラフィーナの搬入口の駐車場に車止めて、徒歩で戻ってきてくれ!』

 つかさが叫ぶより早く、蓮が深く息を吐いた。

 「……わかった。戻るぞ、全員。」

 サムは結乃を守るように寄り添い、

 つかさはナース・バスターⅡを胸に抱えたまま目を閉じた。

 蓮はバックミラー越しに車列を睨みつけ、低く唸る。

 「……おかしい。あれだけの車両がいてなんも動かねぇなんて……。あいつららしくない」

 結乃は両手を胸元で握りしめた。

 「……ねえ……本当に、ロゼリア……大丈夫なんだよね……?」

 誰も、その問いに即答できなかった。

 ――敵に囲まれている状況なのに、あの“静寂”は何だ?

 息をひそめるように、四人を乗せたトラックは路地裏へと消えていった。

 背後で、AI車両のセンサーが赤い光をひとつだけ瞬かせる。

 まるで“何かを検知した”かのように。

 何も鳴らない。

 動きもない。

 それでも、確かに“こちらに向けられた視線”だけがあった。

  夕焼けに照らされる中、誰も気づいていなかった。

 ――ロゼリアの中で、すでに“何か”が始まっていたことを。




引越し荷物第一波ということで、絶賛ソワソワして寝られない夜を過ごしております。

忘れないうちにと思っていたらこんな時間のアップロードに


遠足前日はなかなか寝られないタイプを、この歳までしっかりこじらせました。


メリットは、そもそも寝られないので寝坊しないこと。


デメリットは、体力がめちゃくちゃ削られることです。


そんなことはさておき。


日々暇に身を任せて生活しているはずだったのに、なんだかんだで忙しく、「どうしたものかなぁ」と思いながら毎日を過ごしております。


やっぱり引っ越しって大変ですね。


子どもの頃はあんなにワクワクしていたのに、社会に出ると金は減るわ、体力はいるわで、もう勘弁してほしいところです。


いつかこの作品が御殿でも建てさせてくれれば……


そんな淡すぎる期待を胸に、今日も段ボールと格闘しております。


それでは、また来週もよろしくお願いします。

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