第十三章 故郷の味(おまけパート)
川崎ロゼリアの朝は早かった。
地下中を甘ったるい異国の香りが漂う。
その中にまるで異国の地へ降り立った時のような、鼻をくすぐる香辛料の香り。
その匂いは換気用ダクトを伝い、地上へまで漏れ出している。
どこかの配管が軋む音の中、グツグツと煮えたぎる鍋の音が微かに聞こえる。
子守唄よりもずっと小さなその音は、本来なら凪いだ浜辺の波音のような安らぎを与えるはずだった。
そして――。
「よぉし!」
静寂をぶち壊す声。
湊は毛布の中で顔をしかめた。
サムの気合いに満ちた声は、時として平穏を揺るがす。
今日はなんだか嫌な予感しかしない。
「みんな起きて! 今日は特別な日だから!」
「……なんだよ朝っぱらから……」
寝ぼけ眼のまま起き上がり、声のする方へ向かう。
ポタリ、ポタリ。
地下水が天井から落ちる廊下を進み、食堂区画へ辿り着くと、そこには満面の笑みを浮かべたサムが立っていた。
妙に機嫌がいい。
それがまた不安だった。
「特別な日?」
後ろから現れたつかさが、寝癖でピヨピヨと跳ねたアホ毛を押さえながら首を傾げる。
「うん!」
サムは胸を張った。
「今日はチュラロンコーン大王記念日だからね!」
沈黙。
誰も分からなかった。
「……えっと……何の日?」
湊が率直な感想を述べる。
「タイの祝日!」
「へぇ」
「だから腕によりをかけていつもと違うご飯を作ったよ!」
サムがそう言って鍋の蓋を開ける。
その瞬間。
モワァッ――。
立ち昇った赤い蒸気に、湊は思わず一歩後ずさった。
「なんか目が痛ぇ気がするんだけど」
「気のせい気のせい!」
「いや絶対気のせいじゃないだろ」
「朝から火災現場みたいな匂いしとると思ったら犯人お前か」
欠伸をしながらキヨシが現れた。
髪は寝癖で好き勝手な方向を向いている。
その後ろから、蓮もゆっくりと姿を見せた。
「……うるせぇんだよ。朝っぱらからよぉ」
起きて三秒で不機嫌そうだった。
サムはそんな反応など気にも留めず、誇らしげに鍋を指差す。
「今日は特別仕様だからね!」
鍋の中では赤い液体がグツグツと音を立てていた。
具材らしきものは見える。
だが、全体的に赤い。
何もかも赤い。
湊は鍋を覗き込みながら首を傾げた。
「これ、本当にカレー?」
「カレー!」
「なんでこんな赤いんだよ」
「レッドカレーだからねぇ!」
「レッドカレーってこんな色してんのか?」
そのやり取りを見ていたキヨシが鍋に顔を近づける。
そして数秒後。
黙って一歩後ろへ下がった。
「……目ぇ痛ぇ」
「でしょ!?」
湊が思わず叫ぶ。
「そうかなぁ? これでもプリックは抑えめだけども」
サムは笑顔だった。
その笑顔が一番不安だった。
蓮も鍋の中を覗き込む。
「赤いが……美味そうじゃねぇか」
いたって平然としている蓮に、湊が思わず聞いた。
「この匂い嗅いで平気なんですか?」
蓮は口角を吊り上げる。
「ああ。実戦じゃ催涙スプレーなんざ日常茶飯事だ。唐辛子程度、屁でもねぇやね」
キヨシがすかさず割って入った。
「アホ抜かせ。日本の唐辛子とちゃうんやぞ」
蓮は鼻で笑う。
「こんなんでやられて教官が務まるかよ」
そんな中、食堂の奥から芹沢が姿を現した。
腰の工具入れはパンパンに膨らみ、歩くたびにガシャガシャと音を立てている。
油で黒く汚れた手には更に大きな工具箱。
どうやら朝から何かを弄っていたらしい。
「お、できたのか?」
「できた!」
サムが満面の笑みで答える。
芹沢は鍋の匂いをひとつ吸い込むと、あっさり言った。
「いい匂いじゃん」
その瞬間。
食堂の空気が止まった。
「……え?」
湊が聞き返す。
「ん?」
「それだけですか?」
「え、あ、うん。なんで?」
芹沢は本気でそう言っていた。
サムだけが嬉しそうに両手を上げる。
「でしょぉ!?」
まるでようやく理解者を見つけた子供だった。
「やっぱり分かる人には分かるんだよ!」
「いや、分からん」
湊は即答した。
「俺も分からん」
キヨシも続く。
「私も」
つかさも続いた。
満場一致だった。
「ひどくない!?」
サムが抗議する。
しかし蓮だけは腕を組んだまま頷いていた。
「まあ匂いは悪くねぇよ。案外うめぇやつだ」
やがてその大鍋は食卓へと運ばれてくる。
赤かった。
なんならさっきよりも赤かった。
湊はそれを見た瞬間、そっと皿を差し出す。
「俺、少なめでいいよ」
「ほな俺も」
即座にキヨシが便乗した。
サムが不満そうな顔をする。
「えー」
「いや、見た目がもう危険物やんか」
「引火しないよ!大丈夫!」
その横でつかさが立ち上がる。
「先に水用意しときますよ?」
「多めで頼むわ……」
キヨシが真顔で答えた。
「そんな辛くないから!思ったほど辛くないから」
サムが頬を膨らませる。
しかし蓮だけは鼻で笑った。
「俺は腹減ってるから多めで頼むわ」
「おっ!」
サムの顔が少し明るくなる。
「分かってますねぇ!」
「こんなに美味そうなんだ、食うに決まってるだろ」
そう言って蓮は皿を差し出した。
サムは嬉しそうにルーをよそう。
並々と。
明らかに他より多かった。
それを見ていた芹沢も工具箱を脇へ置く。
「まあ俺は普通でいいぞ」
「おお!」
サムの表情が一気に晴れた。
「いただきます」
それぞれがスプーンを手に取った。
湯気が立ち上る。
赤い。
どう見ても赤い。
カレーとは本来こういう色だっただろうか――そんな疑問が全員の頭をよぎっていた。
最初に挑んだのは湊だった。
恐る恐る一口。
もぐ。
数秒。
動きが止まる。
まるで時が止まったようだった。
「どう?」
サムが期待に満ちた顔で身を乗り出す。
湊は何も言わない。
ただ静かに水へ手を伸ばした。
ゴク。
ゴクゴク。
ゴクゴクゴク。
飲み干す。
そしてもう一度カレーを見る。
その眼光は親の仇を見るかのような鋭い眼差しだった。
「辛ぇ」
短い感想だった。
「でしょうね」
つかさが頷く。
まだ食べていない。
それでも分かった。
匂いだけで分かった。
これは人類に与えられた試練の類だと。
続いてキヨシがスプーンを取る。
もぐ。
もう一口。
さらにもう一口。
額に汗が滲み始める。
「これは……」
サムが身を乗り出す。
「美味い」
顔が輝いた。
だがその輝きは長く続かない。
「美味いけど辛すぎてきっついわ……」
そう言いながらコップを掴み、水を流し込む。
「なんやこれ……」
「だから言ったじゃん」
つかさが呆れた顔をした。
そのつかさも意を決してスプーンを持つ。
そして一口。
数秒後。
静かに涙が流れた。
「つかさ!?」
「だ、大丈夫……」
大丈夫ではなかった。
目は潤み、鼻まで赤くなっている。
「辛い……」
「そんな辛くないって!」
サムだけが納得していなかった。
その頃には、食堂の空気そのものが辛かった。
鼻が痛い。
目も痛い。
なぜ食事でこんな戦場みたいなことになっているのか。
誰にも分からなかった。
ただ一人を除いて。
蓮である。
もぐ。
もぐ。
もぐ。
無言。
ひたすら無言。
額からは滝のように汗が流れている。
首筋もびっしょりだった。
だが止まらない。
むしろ加速していた。
「おお……」
湊が思わず感心する。
「やっぱすげぇな」
「流石自称元教官やな」
キヨシも頷いた。
蓮は何も答えない。
ただ食う。
まるで何かと戦うように。
いや実際戦っていたのかもしれない。
そして。
皿が空になる。
蓮は水差しを掴んだ。
ゴクゴクゴクゴクゴク――。
一気だった。
もはや飲むというより流し込んでいる。
空になった水差しを机へ置く。
コン。
静かな音が響く。
サムが嬉しそうに聞いた。
「どうだった?」
沈黙。
蓮は俯いたまま動かない。
肩だけが微かに震えている。
数秒。
さらに数秒。
そして。
「ふっざけんなァァァァァァ!!!!」
食堂が揺れた。
全員が飛び上がる。
「辛すぎだろぉぉぉぉぉ!!!」
ガンッ!!
机がひっくり返る。
椅子が吹き飛ぶ。
「舌が痛ぇ!!なんだこれ!!」
「カレーだよ!?」
「兵器だろォ!!」
完全にキレていた。
今までの無言は我慢だったらしい。
蓮は立ち上がる。
そして勢いのまま扉を蹴り飛ばした。
ドゴォン!!
「頭おかしいだろこれぇぇぇぇぇ!!」
そのまま廊下へ消えていく。
遠ざかる叫び声だけが残った。
「水ぅぅぅぅ!!」
「舌ァァァァァ!!」
「クソォオオオオ!!」
ドップラー効果の如く声が遠ざかる。
静寂が訪れた。
食堂にはひっくり返った机と転がった椅子。
そして赤いカレーだけが残されている。
そんな惨状の中で。
一人だけ。
芹沢は変わらなかった。
もぐ。
もぐ。
もぐ。
何事もなかったように食べ続ける。
「こんなに美味いのにな」
サムの顔がぱっと明るくなる。
「ですよねぇ!」
ようやく理解者を見つけた顔だった。
「分かってくれるの芹沢さんだけですよ」
芹沢は首を傾げる。
「そんな辛いか?」
一同。
「辛い」
即答だった。
芹沢はしばらく考える。
スプーンを止めたまま。
数秒後。
「あー」
芹沢は悪びれもせず言う。
「そういや俺、ナノ制御のテスト中で痛覚遮断したままだったわ」
沈黙。
数秒。
キヨシが顔を覆う。
湊が天井を見上げる。
つかさが深いため息を吐く。
「おいぃぃいいぃぃぃ!!」
怒号だけが、地下食堂に虚しく響いた。
久々の更新となりましたが、こうしてまた一話書き上げることができました。
ここのところ少しずつ調子を取り戻しつつあり、この調子で本編や同人作品の執筆も進めていけたらと思っています。
正直なところ、創作と向き合うのが苦しい時期もありました。
それでも皆さまからの評価や感想に何度も背中を押していただいています。
いつも本当にありがとうございます。
私事ではありますが、今回の体調不良をきっかけに、近いうちにふるさとへ戻ることを考えています。
そのため今後しばらくは引っ越しや各種手続きなどで慌ただしい日々が続きそうです。
このお話はいつかバイク旅エッセイで書こうとは思ってます。
以前ほどの更新頻度は難しくなるかもしれませんが、物語そのものを止めるつもりはありません。
焦らず、自分のペースで少しずつ進めていこうと思っています。
これからも『UnChain』をよろしくお願いいたします。




