2話:リサルの心変わり
リサルはサンドロスの背中を睨みながら、声を上げた。
銀髪が揺れ、赤い瞳に苛立ちが宿る。
「教えてくれてもいいじゃん。
なんで自分のこと、話さないの?」
サンドロスは足を止め、ゆっくりと振り返った。
フードの下から、静かな視線が少女を捉える。
「それは……」
その瞬間――
ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
村の中央にある鐘楼から、重い音が響き渡った。
鳥が一斉に飛び立つ。
直後、村の端から叫び声が上がった。
「襲撃ィィィィ!」
ドイルの声だ。
門番の男が、槍を握りしめて走ってくる。
サンドロスは音のする方へ視線を移した。
表情は変わらないが、わずかに肩の力が抜ける。
リサルは眉を寄せた。
「襲撃?」
サンドロスは淡々と答える。
「たまにあるんだ。魔物の群れが来たりな」
そう言い終わるや否や、サンドロスは歩き出した。
だが――村人たちの反応は、予想外だった。
誰も慌てない。
薪を運んでいた魔人がそのまま作業を続け、
子供たちは笑いながら遊びを再開し、
人間の女性がスープをかき混ぜながら「またか」と呟く。
平然と、日常が続いている。
リサルは呆然と立ち尽くした。
「え? 襲撃きてるのに……随分と平然としてるのね」
その時、子供たちが駆け寄ってきた。
人間の男の子と、角の生えた魔人の少女。
二人とも目を輝かせ、リサルを見上げてくる。
「お姉ちゃんが魔王リサル?」
リサルは一瞬、言葉を失った。
だが、すぐに胸を張り、威厳を装って答える。
「そうよ、私がリサルよ。
私が怖くないの?」
子供たちは顔を見合わせて、くすくす笑った。
「こわくないよ! だって、サンドロスがいるから安心だよ!」
男の子が無邪気に手を振る。
「サンドロスが守ってくれるもん!」
リサルは言葉を失った。
「……サンドロスがいるから……」
少女の赤い瞳が、ゆっくりと高台へ向く。
村の中央、少し高い丘の上。
そこにサンドロスの姿があった。
黒いローブが風になびき、フードの下から鋭い視線が森の奥を睨んでいる。
まるで、村全体を覆う影のように、静かに立っている。
サンドロスは独り言のように呟いた。
「ざっと20か……」
霧の向こうから、低い唸り声が複数聞こえてくる。
魔物の群れが、ゆっくりと近づいている。
だが、村はまだ平然としている。
誰も逃げず、誰も怯えず、ただ――サンドロスを信じて待っている。
遠く……魔王城にて。
黒くそびえる玉座の間は、冷たい石の壁に囲まれ、わずかな蝋燭の炎だけが揺らめいている。
カンザー・ギバンは巨大な玉座に深く腰を沈め、肘置きに肘を置き、顎を支えていた。
黒いマントが肩から流れ、長い銀髪が背もたれに広がっている。
その瞳は、遠くの虚空を――まるで何かを「見つめている」ように――じっと固定されていた。
膝をついた手下の魔人が、額に汗を浮かべながら報告を続ける。
「カンザー様……南南西の街を傘下に収めるため、兵を動かしましたが……ん? 聞いておられますか?」
カンザーは答えない。
ただ、口の端がゆっくりと上がる。
ニヤッと、楽しげに、残酷に。
「相変わらず、とんでもない魔力量してるな……」
手下の頭に、巨大な疑問符が浮かぶ。
魔人は顔を上げ、恐る恐る尋ねる。
「……はい?」
カンザーは答えず、ただ遠くを見つめ続ける。
その瞳の奥で、何かが静かに燃えていた。
――一方、村の高台にて。
サンドロスは自分の右手をじっと見つめ、ゆっくりと握りしめた。
青白い血管が浮き上がり、指先から小さな電気がバチバチと飛び散る。
彼はバッと前方へ視線を移し、霧の向こうに迫る魔物の群れを凝視した。
周囲の空気が、一瞬で変わった。
サンドロスの周りに、青白い電気が渦を巻き始める。
髪が逆立ち、ローブが風もないのに激しくなびく。
空を見上げると、黒い雲が急速に集まり、巨大な雷雲が群れの頭上に生成された。
雷鳴が低く唸り、稲妻が雲の中で何度も閃く。
サンドロスは、静かに呟いた。
「すまんな……生きるためなんだ」
そして、手をゆっくりと下に振り下ろした。
――ドゴオオオオオオオオン!!
天から無数の落雷が降り注ぐ。
群れの中心に集中し、地面を焦がし、魔物たちの体を炭化させた。
半数以上が一瞬で黒焦げになり、倒れ伏す。
残りは悲鳴を上げ、怯えながら散り散りに逃げていく。
雷雲はすぐに薄れ、静けさが戻った。
サンドロスは息一つ乱さず、手を下ろした。
電気が消え、髪が元に戻る。
高台から村を見下ろす彼の瞳は、変わらず冷たく、深い。
下の村では、子供たちが手を叩いて喜んでいる。
「サンドロスすげー!」「また守ってくれた!」
リサルは高台を見上げ、拳を強く握った。
赤い瞳に、複雑な感情が渦巻く。
村は、再び日常に戻った。
鐘の音が止み、住民たちは平然と仕事や遊びを続ける。
サンドロスは高台に立ち、遠くの霧の彼方を――魔王城の方角を――じっと見つめていた。
その視線は、カンザーの視線と、霧の向こうで交錯しているかのようだった。
サンドロスがゆっくりと高台から降りてきた。
ローブの裾が風に揺れ、足音はほとんどしない。
リサルの前に立ち止まり、フードを少し下げて少女を見下ろした。
「リサル、腹減ってないか? 肉が手に入ったから、なんか作ってやる。好きな物言ってみろ」
リサルはぼんやりとサンドロスを見上げた。
赤い瞳が、わずかに揺れる。
霧の残る朝の空気が、少女の銀髪を優しく撫でる。
「……テリーヌ……」
サンドロスは一瞬、目を細めた。
「……別のはないか?」
視線を落とした。
声は小さく、掠れている。
「……リエット……」
サンドロスはため息をつき、肩を軽くすくめた。
「……ミートスパゲティでいいか?」
リサルは答えなかった。
ただ、ゆっくりと頷いた。
少女の指が、膝の上でぎゅっと握られる。
かつて魔王として、世界中の美食を味わい尽くした自分が、今、こんな惨めな姿で、
昔の敵に「好きな物」を尋ねられている。
屈辱か、それとも……ただの空腹か。
サンドロスは背を向け、小屋の方へ歩き始めた。
「待ってろ。すぐ作る」
リサルはサンドロスの背中を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……なんで……そんなことするの?私を……殺さないの?殺す理由なら数え切れないほどあるはず。」
サンドロスは足を止めず、振り返りもしなかった。
ただ、低く答える。
「腹が減ってると判断能力や思考能力が低下する...そんなこと考えてる暇あったら飯でも食って寝ろ」
ミートスパゲティの匂いを想像しながら、わずかにリサルの瞳が揺れた。
小屋の暖炉から、すでに肉を焼く香ばしい匂いが漂い始めた。
村長が遠くから静かに見守っていたが、ゆっくりと杖を突きながら近づいてきた。
霧の残る朝の空気が、杖の音で少しだけ揺れる。
村長はリサルの横に立つ。
片目の傷跡が、朝の光にくっきりと浮かぶ。
「ほれ、リサル……サンドロスは何も考えてないんじゃよ」
リサルは視線をサンドロスの背中から、村長へ移した。
「……何も?」
村長は小さく頷き、村を見渡した。
子供たちの笑い声が、遠くから聞こえてくる。
「あんたになにかしてもらおうともしてない。
罪を償えとも言っとらん……ただ、腹のすかした者を見たくないんじゃ、サンドロスは」
リサルは息を飲んだ。
「……そんな……単純な理由で……?
私を……ここに連れてきたのが……」
村長はくすりと笑った。
乾いた、優しい笑い。
「あやつは昔からそうじゃ。
人間の国を捨てて魔人側に回ったのも、
魔人や魔物を奴隷のように扱う人間を見たくなかったから。
今も同じじゃよ。
飢えた目をした者を、放っておけん。
それだけじゃ」
リサルは唇を噛んだ。
「ただ腹のすかした者を見たくない」という言葉に、静かに飲み込まれそうになる。
「……そんな男が……私を討った勇者だなんて……」
村長は杖を軽く叩く
「勇者じゃった頃から、そういう男じゃったんじゃよ。
だからこそ、あやつは生き延びて、この村を作った。
お主を連れてきたのも……きっと、同じ理由じゃ」
村長はサンドロスの小屋の方をちらりと見て、静かに続けた。
「腹が満たされれば、少しは考えが変わるかも知れん。
ミートスパゲティでも食べて、ゆっくり考えなさい」
村長はそれだけ言うと、杖を突きながらゆっくりと去っていった。
リサルは一人、空を見上げた。
赤い瞳に、朝の光が映る。
小屋から、すでにトマトソースの香ばしい匂いが漂ってくる。
リサルはゆっくり小屋の方へ歩き始めた。
小屋の中は、トマトソースの酸味と肉の香ばしい匂いが満ちていた。
暖炉の火がパチパチと音を立て、木のテーブルに二つの皿が置かれる。
ミートスパゲティは、素朴だが丁寧に作られていた。
挽肉と玉ねぎ、トマトが絡まったパスタに、チーズが溶けて糸を引いている。
サンドロスは自分の分を置いて、向かいの椅子に腰を下ろした。
フードを完全に脱ぎ、黒髪が肩に落ちる。
人間の顔立ちだが、瞳の奥に青白い魔力の光が揺れているのが、はっきり見えた。
「食え。冷めるぞ」
リサルはスプーンを手に取り、ゆっくりと一口運んだ。
温かいソースが舌に広がり、胃に落ちる。
森で腐った実をかじっていた日々とは、まるで別世界の味。
少女は無言で食べ続けた。
サンドロスも黙ってフォークを動かす。
部屋に、咀嚼の音と暖炉の火の音だけが響く。
リサルは半分食べたところで、スプーンを置いた。
赤い瞳をサンドロスに向ける。
「……なんで、私にこんなことするの?
村長は言ってたわ。
『ただ腹のすかした者を見たくない』って……本当なの?」
サンドロスはフォークを止め、ゆっくりと息を吐いた。
「……本当だ。
腹が減ってると、人はろくに考えられない。
怒りも、悲しみも、全部、空腹に塗り潰される。
俺は、そういう目を見たくないだけだ」
リサルは唇を噛んだ。
胸の奥で、何かがざわつく。
温かい食事は体を満たし、心の隙間を少しだけ埋めた。
だが、それでも――過去の自分がしたこと、村の人々が受けた傷が、頭から離れない。
「……あなたは、500年前に私を倒した。
なのに、今は私に食事を……変だね。」
サンドロスは視線を暖炉に移した。
「倒したのは、昔の俺だ。 今は……違う。
ただ、腹のすいた奴とか、全てを投げ出したくなってる目を見るのが嫌なんだ」
リサルは目を細めた。
「昔の俺」――その言葉に、わずかな違和感が胸を刺す。
だが、今はそれ以上追及する気力もない。
「…そろそろ話して…カンザーは?
あいつは、あなたの血を引く者なんでしょ?
なのに、なぜ魔王に……」
サンドロスは小さく笑った。
乾いた、疲れた笑い。
「血を引く……か。
まあ、そういうことにしておこう。」
リサルはスプーンを握りしめた。
過去の自分がしたこと、今の自分がここにいる意味が、頭の中でぐるぐる回る。
サンドロスは皿を片付け始め、静かに言った。
「食い終わったら、寝ろ。 明日は村の仕事がある。
お前も、少し手伝うか?」
リサルは答えなかった。
ただ、残りのスパゲティをゆっくりと食べ続けた。
温かい食事は、少女の体を満たし、心の隙間を少しだけ埋めた。
外では、村の灯りが穏やかに揺れている。
赤い月が、雲の切れ間から覗いていた。
小屋の中は、暖炉の残り火がわずかに赤く灯るだけだった。
外から鈴虫の音が、静かに、しかし絶え間なく響いてくる。
リサルはサンドロスのベッドに横たわっていた。
薄い毛布を胸まで引き上げ、銀髪を枕に広げ、赤い瞳を天井に向ける。
体は温かい食事で満たされ、疲れがようやく体を重くしていた。
サンドロスは部屋の隅の古いソファーに体を投げ出し、腕を頭の後ろに組んで寝転がっている。
黒髪が乱れ、瞳は暗闇の中で青白く光っている。
『貴殿は神を信じるか?』
しばらくの沈黙の後、サンドロスがぽつりと口を開いた。
声は低く、鈴虫の音に溶け込むように。
「カンザーは……この村人と同様、拾った子だった」
リサルは息を止めた。
赤い瞳が、暗闇の中でゆっくりとサンドロスの方を向く。
「いまここにいるやつらが来る前の話だ……
強くなると息巻いてるあいつに、俺は生きる術を叩き込んだ。
ただ、それだけだった」
サンドロスは天井を見つめたまま、言葉を続ける。
声に、わずかな疲れと、後悔のようなものが混じる。
「その力を、悪い方に使うなんて……思ってもなかったんだ」
鈴虫の音が、間を埋めるように鳴り響く。
リサルは毛布を握りしめた。
胸の奥で、何かが静かに動く。
カンザー・ギバン――現魔王として自分を追放した男が、かつて「拾われた子」だった。
サンドロスに生きる術を教わり、強さを与えられた存在だった。
「……拾ってもらった恩を仇で返し……あいつは魔王に……」
リサルは掠れた声で呟いた。
サンドロスは答えなかった。
ただ、腕を組んだまま、暗闇の中で息を吐く。
鈴虫の音が、部屋全体を包む。
外の夜は深く、村は静かに眠っている。
リサルは目を閉じた。
温かいベッドの感触、鈴虫の音、サンドロスの低い声。
すべてが、心にゆっくりと染み込んでいく。
過去の自分がしたこと、今の自分がここにいる意味。
そして、カンザーがどうしてそうなったのか。
鈴虫の音が、夜を優しく満たす。
サンドロスは目を閉じ、静かに息を整えた。
リサルもまた、眠りに落ちていく。
だが、二人の胸の奥では、
それぞれの「守れなかったもの」が、
静かに、しかし確実に、疼き続けていた。
朝の光が小屋の窓から差し込み、木の床を柔らかく照らしていた。
リサルはゆっくりと目を覚ました。
体は昨夜の温かい食事と深い眠りで、久しぶりに軽く感じる。
ベッドから起き上がり、銀髪を軽く払うと、テーブルの上に朝食が置かれていることに気づいた。
木の皿に盛られたパンと、煮込んだ野菜、チーズの欠片。
横に水の入ったコップ。
シンプルだが、手が込んでいて温かみが残っている。
サンドロスの仕業だとすぐにわかった。
リサルは無言で椅子を引き、ゆっくりと食べ始めた。
パンの香ばしさ、野菜の甘みが口に広がる。
森で飢えていた日々とは違う、穏やかな味。
食べ終えると、少女は静かに皿を片付け、外へ出た。
村は朝の静けさに包まれていた。
鳥のさえずりが遠くから聞こえ、住民たちが少しずつ動き始めている。
そして、村の端にある畑の方で、二つの人影を見つけた。
サンドロスと村長だった。
二人は鍬を手に、土を掘り返している。
サンドロスは黒髪を後ろで軽く束ね、袖をまくり上げて黙々と作業を続けている。
村長は片腕を失った体でバランスを取りながら、種を蒔いている。
二人は言葉を交わさず、ただ土と向き合っていた。
朝の陽光が、二人の背中を優しく照らす。
リサルは足を止め、じっとその光景を見つめた。
500年前に自分を倒した勇者が、今はただの畑仕事をしている。
サンドロスがふと顔を上げ、リサルに気づいた。
黒髪の下から、青白い光を宿した瞳が少女を捉える。
彼は鍬を地面に立て、軽く手を振った。
「起きたか。
畑の様子を見に来い。
今日はジャガイモの収穫だ」
村長も顔を上げ、片目でリサルを迎えるように微笑んだ。
リサルはゆっくりと近づき、声を掛けた。
「……やり方、教えて欲しい」
村長は片目で二人を見て、くすりと笑った。
サンドロスは村長の方をちらりと見て言った。
「ほら、言っただろ?」
村長は肩をすくめる
リサルは少し頰を赤らめ、視線を落とした。
サンドロスは鍬を手に取り、リサルの隣に立った。
「まずは土を掘る。
鍬をこう持って……腰を落として、力を入れる。
深く掘りすぎず、浅く広く。
ジャガイモの根は意外と浅い」
サンドロスは実演しながら、ゆっくりと説明する。
黒髪が額に落ち、土にまみれた手が鍬を握る。
リサルは真似して鍬を握り、土に刃を入れる。
最初はぎこちなく、土が崩れるだけだったが、サンドロスが隣で「ここに力を」と指で示すと、少しずつ形になってきた。
村長は少し離れたところで種を蒔きながら、満足げに頷く。
「嬢ちゃん、上手いじゃないか。
土の感触、悪くないじゃろ?」
リサルは土を掘り返しながら、小さく頷いた。
指先に伝わる土の冷たさと湿り気。
これまで触れたことのない感覚。
魔王として世界を支配していた頃は、こんな土を踏むことすらなかった。
今は、ただ土を掘り、ジャガイモの塊を見つける作業が、妙に心地いい。
サンドロスはリサルの手元を見ながら、静かに言った。
「根元を傷つけないように。
傷つくと、腐りやすい」
リサルは頷き、慎重に土を払う。
小さなジャガイモが、土の中から顔を出した。
少女はそれを手に取り、土を軽く落とした。
重みと温かさが、手のひらに残る。
「……ジャガイモだ……」
サンドロスは軽く頷き、次の場所へ移動する。
「そうだ。
これを掘り出して、貯蔵する。
村の食料になる」
三人は黙々と作業を続けた。
朝の陽光が徐々に強くなり、土の匂いが濃くなる。
リサルは鍬を振るうたび、胸の奥のざわつきが少しずつ落ち着いていくのを感じた。
過去の自分がしたこと、今の自分がここにいる意味。
すべてが、まだわからない。
だが、土を掘るこの瞬間だけは、ただの少女として、静かに存在していられた。
サンドロスは時折、リサルの手元を修正しながら、黒髪の下から穏やかな視線を向ける。
1時間後……畑の作業は順調に進み、ジャガイモの山が少しずつ大きくなっていた。
サンドロスが鍬を地面に立て、額の汗を袖で拭った。
「休憩しよう」
サンドロスは短く言い、鍬を置いた。
村長も片腕で腰を伸ばし、リサルも鍬をそっと置いて立ち上がった。
三人は畑の端にある大きな木の影へ移動し、土の上に腰を下ろした。
朝の陽光は少し強くなり、木の葉が風に揺れて影を踊らせている。
サンドロスは腰に下げていた水筒を取り出し、蓋を開けてリサルに手渡した。
冷たい水が少し残っていた。
リサルは両手で受け取り、小さく頷いて一口飲んだ。
冷たい水が喉を通り、体に染み渡る。
村長は木の幹に背を預け、空を見上げてゆっくり息を吐いた。
「今日は風が気持ちいいな」
リサルは水筒を握ったまま、木の葉の揺れを眺めながら小さく答えた。
「うん……」
風が三人の髪を軽く撫で、畑の土の匂いと草の香りが混じり合う。
サンドロスは膝を抱えて座り、黒髪を指で軽く払った。
村長は片目で空を見上げ、静かに言葉を続ける。
「この畑も、毎年同じように育つ。
種を蒔いて、土を掘って、水をやって……
同じことの繰り返しじゃが、それで村は回ってる」
リサルは水筒を膝の上に置き、土に指を軽く沈めた。
土の感触が、まだ手のひらに残っている。
「……同じことの繰り返し……」
少女はぽつりと呟いた。
サンドロスは視線を遠くの村の方へ移し、静かに言った。
「繰り返しでも、悪くない。
毎年、少しずつ違うものが生まれる」
リサルはサンドロスの横顔を見た。
黒髪の下から覗く瞳は、穏やかだった。
村長はくすりと笑った
サンドロスは水筒を受け取り、蓋を閉めた。
「もう少ししたら、収穫を終える。
午後は貯蔵庫へ運ぶぞ」
リサルは立ち上がり、鍬を手に取った。
村長もゆっくり立ち上がり、三人は再び畑へ戻った。
風が優しく吹き、ジャガイモの葉が揺れる。
日が暮れた。
畑の作業は夕方近くまで続き、リサルはサンドロスに教わったことを驚くほど早く吸収していた。
土の掘り方、根の扱い方、種の蒔き方――腐っても元魔王、センスは抜群だった。
最初はぎこちなかった手つきが、午後には自然になり、ジャガイモの収穫量も村長が「嬢ちゃん、なかなかやるな」と感心するほどだった。
リサル自身も、土に触れる感触がだんだん心地よくなっていた。
小屋に戻った頃には、空は橙色から深い藍色へ変わり、星がちらほらと顔を出し始めていた。
サンドロスは暖炉に薪をくべ、黒髪を軽く払って立ち上がった。
リサルはベッドの端に座り、土のついた手を拭いている。
サンドロスが台所の方を向いて、ぽつりと口を開いた。
「今日の飯、どうしようか」
リサルは少し考えて、静かに答えた。
「……アクアパッツァ……」
サンドロスは一瞬、手を止めて振り返った。
黒髪の下から、わずかに困ったような視線がリサルに向けられる。
「……リーズさんのところの牛小屋からミルク貰ってきたから、今日収穫したジャガイモ入れてクリームシチューでいいか?」
リサルは膝の上で手を組み、視線を落とした。
少しの沈黙の後、小さく頷く。
「……いいよ」
サンドロスは軽く息を吐き、暖炉の火を調整しながら鍋を取り出した。
ジャガイモの塊を洗い、ミルクと野菜を入れていく。
部屋に、牛乳の甘い香りと野菜の煮える音が広がり始めた。
リサルはベッドの端からその様子をじっと見つめていた。
魔王だった頃は、こんな日常の食事など眼中になかった。
今は、ただの少女として、温かいシチューの匂いに体が反応する。
サンドロスは鍋をかき混ぜながら、背中越しに言った。
「今日はよく働いたな。 明日は貯蔵庫の整理だ。
手伝うか?」
リサルは小さく頷いた。
言葉は少ないが、拒否する気はもうなかった。
シチューの煮える音と、薪の爆ぜる音が部屋
を満たす。
リサルが初めて畑仕事をした日の夜……
小屋の中は静かだった。
暖炉の火はすでに弱く、赤い残り火が時折パチッと音を立てるだけ。
リサルはベッドに横になり、銀髪を枕に広げて穏やかな寝息を立てている。
今日の土の感触と疲れが、体を深く眠りに誘っていた。
少女の頰は少し赤く、口元がわずかに緩んでいる。
サンドロスはソファーに座ったままで虚ろな目をしていた
瞳は暗闇の中で青白く光り、頭の中に回り続ける言葉があった。
早朝...リサルが寝てる間にご飯の支度をし畑仕事に出る...村長が先に着いており並んで作業をする...
村長がぽつりと口を開いた。
「……リサルは変われるのか?
お前が拾ってきたから疑いはせんし、いざとなればお前が倒してくれる信頼もしておるが……
この村には、よく思ってない奴らもいるみたいじゃし……」
サンドロスは鍬を振り下ろし、土を返す。
黒髪が額に落ち、汗が一筋流れる。
「心配するな。
リサルは意外と素直だ……村ともすぐ馴染む」
村長は鍬を止めて、サンドロスを片目で見つめた。
「……その言葉、信じるぞ?」
サンドロスは軽く頷き、再び鍬を振るった。
「ああ。 信じろ」
二人は黙々と土を耕し続けた。
小屋の中では、リサルがまだ穏やかな寝息を立てている。
サンドロスは土を掘り返しながら、胸の奥で静かに誓った。
この村を、この人たちを、二度と失わない。
翌日……リサルはサンドロスに付きっきりで仕事をこなした。
畑の収穫、貯蔵庫の整理、井戸の水汲み、子供たちの見守り。
サンドロスが隣で指示を出し、リサルはそれを一つずつ吸収していく。
合間合間に村人と顔を合わせる機会が増え、最初はぎこちなかった会話も、少しずつ自然になっていった。
「嬢ちゃん、土掘り上手くなったねぇ」
「ありがとう……サンドロスに教わったから」
「へえ、あやつがそんなに熱心に教えるなんて珍しいわ」
魔人のおばさんが笑い、人間の子供が駆け寄ってきて
「お姉ちゃん、明日も一緒に遊ぼうよ!」
と手を引く。
リサルは最初、戸惑ったが、
「……うん、いいよ」
と小さく答えるようになった。
そんな日々が続き、リサルは村に馴染み始めた。
土の匂い、風の音、住民たちの穏やかな声。
すべてが、少しずつ少女の心に染み込んでいく。
過去の自分がしたこと、今の自分がここにいる意味。
まだすべてがわかるわけではないが、
「ここにいてもいいのかもしれない」という思いが、静かに芽生え始めていた。
ある日、サンドロスが小屋でゆっくりと休んでいると、
ドアが静かに開いた。
リサルが入ってくる。
銀髪が少し乱れ、服に土がついているが、表情は穏やかだ。
リサルはサンドロスの前に立ち、静かに言った。
「サンドロス……ドイルさんのところ、家の瓦が落ちたみたい。
割れて使えないって」
サンドロスはソファーに座ったまま、リサルを見上げた。
瞳に、わずかな疲れと、いつもの落ち着きが混じる。
「……そうか。
そろそろ街に買い出しに行くか」
サンドロスは立ち上がり、窓の外を見た。
村の屋根が夕陽に染まり、遠くの森が静かに揺れている。
彼はリサルの方を振り返り、短く言った。
「明日の朝、出る。お前も来るか?」
リサルは一瞬、目を丸くした。
村の外へ出る――それは、久しぶりのことだった。
森の飢え、復活後の逃亡、すべてが遠い記憶のように感じる。
リサルは小さく頷いた。
「……うん、行く」
サンドロスは軽く頷き、棚から小さな袋を取り出した。
中には金貨や干し肉が入っている。
彼は袋を肩にかけ、静かに言った。
「街はここから半日かかる。
道中、魔物が出ることもあるが……心配するな。俺がいる」
リサルはサンドロスの背中を見つめ、胸の奥で何かが静かに動いた。
「俺がいる」――その言葉が、なぜか心に染みる。
外では、村の灯りが一つずつ点り始めていた。
明日の朝、二人は街へ向かう。
それは、リサルにとって、村の外の世界を再び見る初めての日になる。
朝の支度が始まった。
小屋の外では、村の朝霧が薄く残り、鳥のさえずりが響いている。
サンドロスは黒髪を後ろで軽く束ね、水筒を腰に下げていた。
その時、ドアが小さく叩かれた。
コンコン。
サンドロスがドアを開けると、そこに立っていたのはルーダという人間の男の子だった。
8歳くらい、茶色の髪を短く切り、目がくりくりとして元気いっぱい。
子供はドアの隙間から顔を覗かせ、息を弾ませて言った。
「サンドロス! お姉ちゃん! 街に行くんだって?
僕も連れてって!」
リサルは髪を梳く手を止め、ルーダを見た。
サンドロスはため息をつき、ドアを少し開けて子供を中に入れた。
「どこで知ったんだ、ルーダ」
ルーダは胸を張って答える。
「みんな言ってたよ! サンドロスとリサルお姉ちゃんが街に行くって!
僕も行きたい! 街にキャンディーあるんでしょ? 連れてって!」
サンドロスはしゃがんでルーダの目線に合わせ、静かに言った。
「ルーダ……大人になってから連れてってやるからな」
ルーダは頰を膨らませ、拳を握った。
「僕もう大人だもん!!」
子供の声が小屋に響く。
サンドロスはルーダの頭を軽く撫で、黒髪の下から穏やかな視線を向ける。
「大人になるまで、もう少しだ。
街は道中が危ない。
魔物が出ることもあるし、ルーダが怪我したら大変だろ」
ルーダは唇を尖らせ、地面を蹴った。
「……わかったよ……でも、キャンディー買ってきてね!」
サンドロスは小さく頷き、ルーダの頭をもう一度撫でた。
「ああ、買ってくる、約束だ。」
ルーダは少し元気を取り戻し、にこっと笑ってドアから飛び出していった。
「待ってるからね!」という声が、外に遠ざかっていく。
ドアを閉めたサンドロスは、軽く息を吐いた。
リサルは髪を梳き終え、静かに言った。
「……あの子、元気ね」
サンドロスは袋を肩にかけ、ドアの方を向いた。
「村の子供たちはみんなそうだ。
街に行ったことがないから、夢中になる」
リサルは立ち上がり、袋の端を軽く持った。
「……キャンディー、ちゃんと買ってきてあげないとね」
サンドロスは軽く笑い、ドアを開けた。
「ああ。
お前も、街で何か欲しいものあったら言えよ」
二人は小屋を出て、村の外へ向かう道を歩き始めた。
朝の陽光が、二人を優しく照らす。
ルーダの声が、遠くからまだ聞こえてくる。
村の日常は、今日も静かに続いていた
サンドロスが村の門をくぐり、道を進み始めた。
黒髪を朝風になびかせ、袋を肩にかけ、静かに歩みを進める。
リサルは少し遅れて後ろを歩き、門の外へ出る瞬間、村長が杖を突いて近づいてきた。
村長はリサルの横に並び、低い声で話しかけた。
「リサルや……サンドロスの動向を探ってもらいたいんじゃ」
リサルは足を止め、赤い瞳を村長に向けた。
「え?」
村長は片目でサンドロスの背中を追いながら、ゆっくりと続ける。
「あやつ、近くに街があるのにも関わらず、少し遠い街にわざわざ行って、帰ってくるや否や家に籠ってまだだ……ってボヤいているのじゃ。
少し心配でな」
リサルはサンドロスの背中を見つめた。
黒髪が風に揺れ、足取りはいつも通り落ち着いている。
だが、村長の言葉に、少女の胸に小さな波が立った。
「……遠い街に……わざわざ?」
村長は杖を軽く叩き、頷いた。
「ああ。
近くの街なら2時間ほどで済むのに、わざわざ半日もかけ別の街を選ぶ。
何かを探してるのか……それとも、何かを避けてるのか……
あやつは口が固いから、わしらには教えてくれん。
あやつはリサルになら話してくれるやもしれん、少し様子を見てやってくれんか?」
リサルはサンドロスの背中をじっと見つめた。
昨日までの畑仕事、土の感触、子供たちの声、温かい食事。
すべてが穏やかだったのに、この言葉で、少しの影が差した。
「……わかった。任せて、」
村長は小さく頷き、杖を突いて門の内側へ戻った。
「頼んだぞ、リサル」
リサルはサンドロスに追いつくように歩みを速めた。
二人は並んで道を進む。
朝の陽光が道を照らし、遠くの森が静かに揺れている。
サンドロスは前を向いたまま、何も言わない。
リサルは隣で、静かに彼の横顔を見つめた。
黒髪の下の瞳は、いつも通り穏やかだが……
どこか、遠くを見ているように感じた。
道は続き、二人は街へ向かう。
リサルの胸に、村長の言葉が静かに残っていた。
道中、森の奥から低く唸る声が聞こえてきた。
黒い影が木々の間を複数動き、牙を剥いて飛び出してきた。
魔物の群れ――狼型のものと、棘を生やした大型のもの、合わせて5体ほど。
サンドロスは足を止めず、右手を上げた。
青白い電気が指先でバチバチと弾け、群れの頭上に小さな雷雲が一瞬で形成される。
リサルは少し身を引いたが、サンドロスは顔色一つ変えない。
手を振り下ろす。
落雷が群れの中心に集中し、2体が黒焦げになって倒れた。
残りは怯えて散り散りに逃げていく。
サンドロスは鍬を肩に担ぎ直し、何事もなかったように歩きを再開した。
リサルは少し遅れて後を追い、息を吐いた。
「……顔色変えないのね」
サンドロスは前を向いたまま、肩をすくめた。
「慣れたんだよ」
道は続き、陽が中天に昇った頃、二人は木の影で休憩を取った。
大きな古木の下に腰を下ろし、サンドロスは水筒をリサルに渡す。
リサルは一口飲んで、膝を抱えて座った。
「……ねぇ、疲れた」
サンドロスは木の幹に背を預け、リサルを見た。
「大丈夫か? おぶってやろうか?」
リサルは一瞬、目を丸くした。
「……いや大丈夫……って、なによおぶってやろうって」
サンドロスは視線を逸らし、木の葉を見上げて小さく息を吐いた。
「忘れろ」
リサルは少し頰を膨らませ、水筒を返しながら続けた。
「とにかく……馬とかいないわけ?
魔獣馬とかさ……私が乗ってた子、どこに行ったのかしら……」
サンドロスは静かに目を細めた。
黒髪の下から、青白い光がわずかに揺れる。
「あいつの場所なら分かるが……まだ行けない」
リサルはサンドロスをじっと見た。
「……まだ?」
サンドロスはゆっくりと立ち上がり、道の先を見据えた。
「でも、必ず連れ戻すから」
その言葉に、リサルは胸の奥で何かが動くのを感じた。
サンドロスの声は静かだったが、確かな決意が込められていた。
少女は立ち上がり、水筒を腰に下げた。
「……連れ戻す……ってことは、生きてるの?」
サンドロスは軽く頷き、歩きを再開した。
「ああ。確実にな」
二人は再び道を進んだ。
陽光が木々の間を抜け、地面にまだら模様を描く。
リサルはサンドロスの背中を追いながら、静かに思った。
魔獣馬の記憶は、遠い過去のもの。
それなのに、サンドロスは「連れ戻す」と言い切った。
その理由は、まだわからない。
だが、少女の胸に、温かいものが少しずつ広がり始めていた。
道は続き、二人は街へ向かう。
日が傾き始めた頃、二人はようやく街の門をくぐった。
サンドロスは足を止め、周りを見回した。
「ついたぞ。ルミエル王国だ」
リサルは門の内側に広がる景色に目を奪われ、思わず呟いた。
「広いね……」
サンドロスは軽く頷き、街の喧騒を眺めながら説明した。
「エルドリア大陸屈指の街だからな。
交易の中心で、人も物も集まる」
街中は賑やかだった。
石畳の通りには露店が並び、商人たちの呼び声が飛び交う。
馬車が通り、人々が忙しなく行き交う。
人間ばかりの風景――だが、リサルはすぐに気づいた。
気配を隠した魔人が、ちらほらと混じっている。
角を帽子で覆った者、瞳の色を魔法で変えた者、
人間の群れに溶け込みながら、静かに生活している。
サンドロスはリサルの袖を軽く引き、低い声で言った。
「この街はまだ魔人を毛嫌いしてる。
物騒だから気をつけろよ、リサル……騒ぎは起こすな」
リサルは小さく頷いた。
「分かった……!?」
少女の視線が、突然止まった。
露店のひとつに、湯気が立ち上るふかし芋が並んでいる。
黄金色の皮が熱で割れ、甘い匂いが漂ってくる。
リサルは思わず声を上げた。
「サンドロス! ふかし芋!」
サンドロスはリサルの視線を追い、軽く笑った。
「食べたいのか?」
リサルは無言で頷く。
サンドロスは露店のおばさんに声をかけ、銅貨を数枚渡してふかし芋を二つ買った。
熱々の芋を一つリサルに手渡し、自分も一つ持って歩き出す。
二人は芋を頰張りながら、街をゆっくりと進んだ。
リサルはふかし芋の甘さと温かさに目を細め、
サンドロスは片手で芋を食べながら、周囲を警戒するように視線を巡らせている。
「熱い……でもおいしい」
リサルが小さく呟くと、サンドロスは軽く頷いた。
「街の名物だ。
甘くて腹持ちがいい」
リサルは芋を頰張りながら、街の風景を見回した。
人間の商人、子供たち、馬車の音。
魔人の気配は確かに隠れているが、街は表面上平和だ。
『貴殿は神を信じるか?』
サンドロスはふかし芋を食べ終え、皮をポケットにしまいながら言った。
「買い物はこれからだ。
瓦の代わりになる建材と、工具を探す。」
リサルは最後の芋を食べ終え、手を拭いた。
「……うん。
ありがとう」
サンドロスは軽く頷き、二人は街の中心へ向かって歩き続けた。
夕陽が石畳を橙色に染め、街の喧騒が少しずつ穏やかになっていく。
曲がり角を曲がる直前で、突然横から声が飛んできた。
「そこの可愛い嬢ちゃんと男前の兄ちゃん! 見てってくれよ!」
リサルとサンドロスは足を止め、振り返った。
露店の影から飛び出してきたのは、派手なベストを着た中年男。
帽子を被り、首から小さな袋をいくつもぶら下げ、両手に商品を山のように抱えている。
笑顔が歯切れよく、目がキラキラしている。
サンドロスは黒髪を軽く払い、静かに確認した。
「……俺たちか?」
「そうだよ! いろいろ揃ってるよ〜! コレ見てみろ!」
男は素早く袋を開け、中から小さな包みを取り出した。
茶色い塊がいくつか並び、甘い香りがふわっと広がる。
サンドロスはそれを見て、わずかに目を細めた。
「これは……チョコレートか」
男は大げさに手を叩き、声を弾ませた。
「おっと! お目が高いうちはチョコにこだわっててな!
これ、ルミエル王国の上級品だぜ! 苦味と甘みのバランスが絶妙で、口の中で溶けると幸せが広がるんだよ〜!
嬢ちゃんもどう? 兄ちゃんに奢ってもらったら?」
リサルはふかし芋の余韻がまだ口に残る中、チョコレートの匂いに鼻をくんくんさせた。
赤い瞳が少し輝き、思わずサンドロスの袖を軽く引いた。
「……サンドロス……」
サンドロスはリサルの視線を感じ、ため息混じりに男を見た。
「いくらだ?」
男は指を3本立て、にやりと笑う。
「3銀貨で2つ! 特別サービスだよ〜!」
サンドロスはポケットから銅貨と銀貨を数え、3銀貨を男に渡した。
男は大喜びで包みを二つ取り出し、リサルに一つ、サンドロスに一つを手渡す。
サンドロスはリサルの反応を見て、軽く頷いた。
黒髪の下から、穏やかな視線がリサルに向けられる。
「どうだ? 美味いか? リサル……」
リサルはチョコレートを一口かじり、目を細めて頷いた。
甘さと苦味が口の中で溶け、温かい余韻が広がる。
「うん……初めて食べた……美味しい」
サンドロスは小さく笑い、露店の男の方へ視線を移した。
「……お兄さん、ビターとホワイトもあるか?」
物売りの男は目を輝かせ、即座に袋を漁り始めた。
「勿論! ビターは大人の味で、ホワイトは甘党向けだぜ!
買ってくかい? 特別にセットで安くしとくよ〜!」
サンドロスはポケットから銀貨を取り出し、男に渡した。
「ビター二つ、ホワイト二つ。 」
男は大喜びで包みを二つ取り出し、リサルに一つ、サンドロスに三つを手渡した。
「ごちそうさま! また来てくれよな〜!」
リサルは新しい包みを手に取り、ホワイトチョコレートを指でつまんだ。
白いチョコレートを一口かじると、甘さが優しく広がり、少女の頰が少し緩む。
「……これも美味しい……」
物売りの男は、露店の陰からリサルを眺めながら、にこにこと笑った。
少女がチョコレートを頰張り、目を細めて幸せそうに味わう姿を見て、男はサンドロスに肘で軽く突ついた。
「嬢ちゃん、いい食いっぷりだね〜! 兄弟かい?」
サンドロスはビターのチョコレートを一口かじり、淡々と答えた。
「いや、違うぞ……兄さん」
男は目を丸くして、帽子をずらした。
「さっきから兄さんって俺に言ってくるが、俺の方が歳上に見えるが?
まぁ俺は気にしないけどな!」
サンドロスはチョコレートの包みをポケットにしまい、男を見た。
瞳の奥に、青白い魔力が一瞬だけ揺れる。
「俺は魔人だ。
500年生きてる」
男は一瞬固まり、帽子がずり落ちそうになった。
「はははは! そりゃすげぇ!
500年か、お客さん! じゃあ俺なんか赤ん坊だな!」
その後一息置いて男が言う
「でもな、お客さん...ここで魔人って言うのはやめといた方がいい、女房が魔人だから俺はいいが、よく思ってない連中も多いからな」
サンドロスが口を開く
「心配するな、俺は魔人がどうとか人間がどうとか深く考えないようにしてるんだ」
「魔人がなんだ?人間がなんだ?どっちも同じ血を通わした人だろ...そんなことで魔人かどうかを隠す生き方はしたくない」
男はサンドロスの言葉を聞いて、しばらく沈黙した。
露店の陰で、夕陽が男の顔を赤く染め、帽子をずらした目が少し潤んでいるように見えた。
「お客さん……かっっっけぇじゃねぇか!!
感激したぞ!」
男は勢いよく立ち上がり、サンドロスの胸に拳を軽く当てた。
拳は熱く、男の声は少し震えていた。
「気に入った! これも持ってけ!」
男は素早く袋を漁り、茶色の包みを一つ取り出した。
包みを開くと、中に透明なキャラメルが並んでいる。
黄金色の光が差し込み、甘い匂いがふわっと広がった。
サンドロスは包みを受け取り、軽く見つめた。
「これは……キャラメル?」
男は胸を張って頷いた。
「そうだ! 高級品なんだが、やるよ!
俺の気持ちだと思って食べてくれ!」
サンドロスは包みをポケットにしまい、静かに頭を下げた。
「ありがとう」
男は照れくさそうに帽子を深く被り直し、声を張り上げた。
「俺はいつもここで商売してる!
困ったらこい! 出来ることなら手伝うよ!
後、あんただけ特別価格で売ってやるからな!」
男は手を大きく振り、二人が去る背中を見送った。
リサルはキャラメルを一つ取り出し、リスのように小さな手で包みを剥いて口に放り込んだ。
甘さがゆっくり溶け、少女の頰が少し緩む。
サンドロスはリサルと並んで歩きながら、静かに言った。
「街の人は、みんなこんな感じだ。
口は悪いが、心は温かい」
リサルはキャラメルを頰張りながら、夕陽に染まる街を見上げた。
「……うん」
リサルの手の中には、キャラメルの包みが残っていた。
甘い味が、少女の胸に静かに広がっていた。




