1話:魔王と勇者
エルドリア大陸の街、ルミエル王国。
石畳の広場に夕暮れの橙色の光が差し込み、魔法の灯りがぽつぽつと浮かび上がる頃。
いつものように、ぼろ布をまとった老人が、木箱の上に腰を下ろしていた。
周りには、子供たちが輪になって座り、目を輝かせている。
「じいちゃん、今日も魔王の話!」
「リサル様の怖い話!」
子供たちの声が重なる。
老人は杖を軽く地面に叩き、くすくすと笑った。
皺だらけの顔に、どこか遠い記憶が浮かぶ。
「ふむ……じゃあ、今日は特別に教えてやろうか。
この世界には、こんな御伽噺があるんだ……」
老人の声は低く、ゆっくりと響いた。
広場の喧騒が、少しずつ静かになっていく。
「2000年以上前……この世に、突如として生まれた魔王がいた。
その名を、リサル・ドローリウス。
彼女は...黒い翼を広げ、赤い瞳で全てを見下ろし、魔王の座に座ってすぐに人間どもを奴隷のように扱い始めた。
鎖で繋がれ、鞭で打たれ、飢えさせられ、泣き叫ぶ声が夜毎に大陸を覆ったそうだ。
街は焼き払われ、村は踏み潰され、女も子も、男も皆、魔王の玩具と化した……」
一人の少女が小さく肩を震わせた。
老人は構わず続ける。
「それから500年。
魔王リサルは、人間に飽きてしまった。
『人間など、もう面白くない』と。
そこで彼は、手下である魔人や魔物たちにまで目を向けた。
忠実な部下だったはずの者たちを、下僕のようにこき使い、使い捨ての道具のように扱い始めた。
魔物は互いに喰らい合い、魔人は主に逆らい、血と絶叫が絶えなかったそうだ。
暴虐無尽……世界そのものが腐り落ちていくような、恐ろしい時代だった」
老人の声が、少しだけ柔らかくなる。
救いの言葉を語るように。
「そんな時、一人の勇者が現れた。
その名を、サンドロス・ギバン。
魔王の城へ単身乗り込み、幾多の魔物を倒し、ついにリサル・ドローリウスと対峙した。
壮絶な戦いの末、勇者は魔王の胸を貫き、黒い血を噴き出させて倒した……と、語られているんだ」
子供たちは息を飲む。
誰かがぽつりと呟く。
「それで……本当に終わったの?」
老人はゆっくりと首を振った。
魔法の灯りが彼の瞳に映り、赤く揺れる。
「さあね……御伽噺はそこで終わるんだ。
勇者が勝って、魔王は死んで、世界は平和になった……と。
みんながそう信じて、今日も笑って暮らしている。
でもな……」
老人は杖を握りしめ、立ち上がった。
子供たちを見下ろす瞳は、どこか冷たく、深い。
「時々、森の奥から、飢えた咆哮が聞こえることがある。 消えない飢えの声がな。
もしかしたら……あの魔王は、まだどこかで、息を潜めて待ってるのかもしれんよ」
子供たちはぞっとした。
誰かが「怖いよ……」と呟き、誰かが老人の袖を掴んだ。
老人はにやりと笑い、一人ひとりの頭を撫でた。
「まあ、ただの昔話さ。
さあ、帰りな。夜が来るぞ」
子供たちが散り散りに去ろうとする中、 老人が子供に問う
「今の魔王はわかるな?」
老人が静かに、ゆっくりと聞いた。
声は優しいのに、どこか試すような響きがあった。
子供たちは一瞬きょとんとしたが、すぐに揃って声を張り上げた。
「カンザー・ギバン!」
「カンザー・ギバンだよ!」
無邪気な、元気いっぱいの声が広場に響く。
少女が手を振って続ける。
「カンザー様は強いんだから! リサルなんかよりずっと怖いって聞いたよ!」
少年が胸を張る。
「僕、大きくなったらカンザー様の軍に入るんだ!」
老人は黙って聞き、ただ小さく頷いた。
子供たちの笑い声が遠ざかっていく。
広場に一人残り、彼は空を見上げた。
雲の切れ間に、血のように赤い月が浮かんでいる。
「……カンザー」
老人の唇が、微かに動いた。
誰にも聞こえない、独り言のように。
「サンドロスの血が、今度は魔王の座に就いたというのか……
面白い時代になったものだ」
風が吹き、老人のマントが翻った。
その背中は、まるで2000年前の影を、そして今の闇を、両方背負っているようだった。
老人はゆっくりと杖を地面に突き、独り呟き始めた。
声は低く、まるで自分自身に語りかけるように。
「御伽噺の続きを……
誰も知らない、誰も語らない続き……」
老人の瞳が、遠くの闇を見つめる。
「リサル・ドローリウスは、500年の封印を破って復活した。
再び魔王の座につこうと、世界にその名を轟かせようとしたその時……
突如として現れたカンザー・ギバンが、すべてを奪った。
勇者の血を引く男は、魔王の力を吸い取り、座を簒奪したのだ。
リサルは敗れ、黒い血を流しながら逃げ出した……
今も、どこかをさまよっている。
飢えに苛まれ、力を失い、ただの亡霊のように……」
老人は小さく笑った。
乾いた、乾いた笑い。
「カンザーよ……
お前は本当に魔王になれたのか?
それとも、ただの新しい玩具に過ぎないのか……」
赤い月が、老人の顔を照らす。
その瞳の奥で、何かが静かに燃えていた。
薄暗い森は、息苦しいほどの静けさに包まれていた。
木々の間から漏れる光は毒々しく緑に濁り、地面は腐った葉と血の臭いが混じった泥でぬかるんでいる。
そんな場所を、1人の少女がよろよろと歩いていた。
長い銀髪は泥と血で固まり、かつての輝きは失われている。
白い肌は青ざめ、頰はこけ、赤い瞳は虚ろに揺れている。
ぼろぼろのドレスは、ところどころ裂け、胸元や太ももが露わになっていたが、少女はそんなことなど気にも留めない。
ただ、足を進めるだけ。
リサル・ドローリウス。
かつて世界を統べた魔王は、今やこの姿に成り果てていた。
1封印を破って復活した代償か、それともカイザー・ギバンに力の大半を奪われたせいか。
魔力は涸れ、飢えだけが残った。
地面に落ちた腐った実を拾い上げる。
虫が這い回るそれを、少女は無表情で口に運んだ。
噛み砕く音が、森に小さく響く。
味などない。ただ、腹の空虚を一瞬埋めるだけの、汚物。
「……まだ、生きてるのか私は」
掠れた声で呟く。
あの男に座を奪われ、黒い血を流しながら逃げ出したあの日から、どれだけ経っただろう。
復讐の炎は、飢えに飲み込まれ、灰のように冷え切っていた。
「もう……いいのかもしれないな」
少女は膝をつき、木の根元に寄りかかった。
死を受け入れる。
それが、今の自分に残された唯一の自由のように思えた。
その時――
地面が、わずかに震えた。
ズズッ……という湿った音。
土が割れ、無数の触手が少女の足元から飛び出した。
太くぬめぬめした蔓は、先端が花のように開き、鋭い牙を並べている。
「くっ! 食性植物か!」
リサルは咄嗟に身を引いたが、力のない体は遅い。
触手が足首を絡め取り、太ももを這い上がり、腰を締めつける。
牙が肌に食い込み、毒が流れ込む。
痛みと、甘い痺れが同時に襲ってきた。
「は……ははっ……ここまでか」
リサルは抵抗をやめた。
触手が胸を押し潰し、首に巻きつき、口元まで迫る。
もう、終わりだ。
このまま喰われ、消える。
それでいい。
だが――
森の闇が、動いた。
音もなく、影が歩いてくる。
黒い外套を纏った男。
フードの下から覗く瞳は、冷たく、深い。
右腕を軽く上げただけで、空気が震えた。
シュッ。
一瞬の閃光。
触手が、塵となって散った。
少女の体を縛っていた蔓は、灰色の粒子に変わり、風に溶ける。
残ったのは、静寂と、リサルの荒い息遣いだけ。
リサルはゆっくりと顔を上げた。
視線の先に、男が立っている。
「……お前は」
少女の声が震える。
男は答えない。ただ、静かに見下ろしていた。
「リサル・ドローリウス...だな?」
低く、抑揚のない声。
少女の赤い瞳が、大きく見開かれた。
体は、まだ震えていた。
触手の残骸が灰となって散った地面に、膝をついたまま。
毒の痺れがゆっくり引いていく中、リサルはゆっくりと顔を上げた。
男はただ、リサルの前を、ゆっくりと通り過ぎていくだけだった。
黒い外套が風に揺れ、足音すら立てず、まるで影が滑るように。
リサルは息を飲んだ。
男の体から溢れ出る魔力は、底知れぬ深さを持っていた。
かつて自分が持っていたものに似て、しかし違う。
より純粋で、より残酷で、より……圧倒的。
(この魔力……魔物か?
いや、見た目が人間だ。
完全に人間の形をしている……)
少女の赤い瞳が、男の背中を追う。
掠れた声が、思わず漏れた。
「……魔人か?」
男は足を止めなかった。
振り返りもしない。
ただ、低く、抑揚のない声で、背中越しに返した。
「だったらなんだ?」
その一言で、空気が凍りついた。
リサルは言葉を失った。
だが、同時に、何かが違和感として胸に刺さった。
この男は、ただの冷たい闇。
自分自身に興味すら持っていないような、無関心の深淵。
男は再び歩き出す。
森の闇に溶け込むように、ゆっくりと遠ざかっていく。
リサルは地面に両手をつき、額を泥に押しつけた。
銀髪が乱れ、涙のように落ちる。
「……誰だ、お前は」
リサルの唇が、震えながら呟く。
声は小さく、しかし確信に満ちていた。
「あの男……私を元魔王と知っておきながらなぜ……助けた?」
背中が、完全に闇に飲み込まれる。
森は再び静かになった。
残されたのは、飢えた少女と、消えない空腹と、
そして、新たな謎の男が残した、冷たい余韻だけ。
リサルは地面に額を押しつけたまま、動けなかった。
毒の痺れが体を蝕み、飢えが内側から臓器を削る。
男の背中が闇に消えてから、数分か、それ以上か。
時間など、もうどうでもよかった。
……が。
足音が、戻ってきた。
ゆっくり、確実に。
『あなたは神を信じますか?』
先ほどと同じ、音を立てない歩み。
少女の視界に、再び黒い外套が現れる。
今度は、少女の真正面に立っていた。
男はフードの下から、リサルをじっと見下ろした。
冷たい瞳に、わずかな苛立ちが混じっているように見えた。
「何してんだ」
低く、ぶっきらぼうな声。
「ついてこいよ」
リサルは、ぽかんとした。
赤い瞳が、大きく見開かれる。
口が、半開きのまま固まった。
(……は?)
かつて世界を統べた魔王が、今、こんな惨めな姿で、通りすがりの男に「ついてこい」と言われている。
助けられたのも、通り過ぎられたのも、すべて予想外だったのに……
今度は、戻ってきて、ついてこいと?
呆気にとられたまま、リサルは地面に這いつくばった姿勢で男を見上げた。
銀髪が泥にまみれ、ぼろぼろのドレスが胸元まで裂け、青白い肌が露わになっている。
そんな姿で、ただぼうっと見つめるだけ。
男はため息をついた。
苛立ったような、面倒くさそうな息。
「近くに村がある」
男は短く続ける。
視線を逸らさず、少女の目を見据えて。
「そこに連れてってやるから。
動けねえなら、担ぐぞ」
その言葉に、リサルの体がわずかに震えた。
飢えと毒と屈辱で麻痺していた心が、初めて、何かを感じた。
――これは、慈悲か?
――それとも、何かの罠か?
少女はゆっくりと、這うように手を伸ばした。
泥まみれの指先が、男の外套の裾に触れそうになる。
だが、まだ立ち上がれない。
体が、重い。
空腹が、骨まで溶かしている。
「……なぜ」
掠れた声で、少女は呟いた。
男は答えなかった。
ただ、腕を差し出しただけだった。
黒い手袋をはめた手。
掌は大きく、力強い。
リサルは、それを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
(……生き延びるか。
それとも、ここで終わるか)
リサルは、震える指で、その手に掴まった。
森の奥へ、2人は黙って歩いていた。
リサルは男の腕に掴まったまま、よろよろと足を進める。
毒の後遺症で体が熱く、足元がふらつくが、男は一切手を緩めない。
ただ、ゆっくり歩くだけ。
少女の銀髪が揺れ、泥まみれのドレスが木の枝に引っかかってさらに裂ける。
胸元が大きく開き、青白い肌が夜の冷たい空気に晒されるが、誰も気にしない。
沈黙が重くのしかかる中、男がぽつりと口を開いた。
「リサルの御伽噺は知ってるか?」
リサルは足を止めた。
赤い瞳が、男を睨む。
「知ってるも何も……私の事だからそりゃ、」
言葉を続ける前に、男は淡々と続けた。
「その御伽噺に、俺しか知らない続きがあるんだ」
リサルは一瞬、呆けた。
少女の口が半開きになり、毒の熱で火照った頰がわずかに赤らむ。
「……何それ。てか、あんた誰なの?」
男は視線を前に向けたまま、肩をすくめた。
「いまそこ必要か?」
リサルは息を吸い込んだ。
体に残る飢えと毒と屈辱が、一気に爆発するように、言葉が噴き出した。
「私は魔王なのよ! 知ってるでしょ?このままあんたを利用して上に上がってやるあの忌まわしきカンザーを、私の手で壊してやるのよ!
だからあんたは下僕なの! 膝まづいて許しを乞う立場なのよ! だから――」
最後まで言葉は紡がれなかった。
男の足が、ぴたりと止まった。
リサルの体が、凍りついた。
「……立場をわきまえろよ、三下」
低く、静かな声。
だが、その一言が発せられた瞬間――
この世のものとは思えない圧が、リサルを襲った。
空気が、重くなった。
いや、空気そのものが、固形の鉄の塊に変わったかのようだった。
少女の膝が、ガクンと折れる。
地面に両手をつき、額が泥に沈む。
息が、できない。
肺が潰され、心臓が握りつぶされるような感覚。
視界が揺れ、赤い瞳に涙が滲む。
「ぐ……あ……っ」
喉から、情けない音が漏れる。
体が勝手に震え、熱くなった肌が冷や汗でびっしょりになる。
ドレスがさらに裂け、胸が地面に押しつけられる。
リサルは、ただ這いつくばるしかできなかった。
「魔王?下僕?笑わせんなよ」
圧は、さらに強くなった。
リサルの体が、地面にめり込む。
骨が軋み、皮膚が裂けそうな痛み。
かつて世界を統べた魔王が、今、通りすがりの男に、ただの「三下」扱いされて、地面に這わされている。
男はゆっくりと歩き始めた。
リサルの手は、まだ男の外套の裾を掴んだまま。
離せない。
離せば、もっと酷いことが起きる気がした。
圧は少しだけ緩んだ。
リサルは、這うようにして男の後を追うしかなかった。
森の闇が、2人を飲み込んでいく。
少女の息は、荒く、震えていた。
だが、今は――ただ、生き延びることだけが、すべてだった。
リサルは地面に額を押しつけ、息も絶え絶えに震えていた。
男の放った圧は、まだ体に残っていて、骨が軋むような痛みが引かない。
銀髪が泥にまみれ、裂けたドレスから胸が半分以上露出したまま。
熱くなった肌が冷たい土に触れて、ぞわぞわと震える。
男は歩みを止め、ゆっくりと振り返った。
フードの下の瞳が、森の奥を睨む。
「……はぁ、すまん」
低く、ため息混じりの声。
リサルは顔を上げられず、ただ掠れた息で聞き取るだけ。
「俺はどうも煽り耐性低くてな。今出した圧で……魔物寄ってきたみたいだ」
男の言葉に、リサルはようやく体を起こしかけた。
赤い瞳が、森の闇を捉える。
確かに……木々の間から、低い唸り声が複数聞こえてくる。
地響きのような足音。
腐った肉の臭いが、風に乗って強くなる。
「ぐ……っ」
少女は這うように後ずさる。
毒と圧のダブルパンチで、体が思うように動かない。
男はリサルを一瞥し、ため息をもう一つ。
「立てるか?」
リサルは歯を食いしばり、地面を掴んで立ち上がろうとする。
膝がガクガク震え、胸が激しく上下する。
「……あんたのせい……で……」
掠れた声で睨む。
男は肩をすくめた。
「そうだな。俺のミスだ。
だから、俺がよ片付ける」
男は右腕を軽く上げた。
先ほど食性植物を塵にした時と同じ、素手のまま。
だが、今度は空気が違う。
森全体が、息を潜めたように静かになる。
闇の中から、姿を現したのは――
巨大な狼型の魔物が3匹。
体は黒く腐敗し、目が赤く光り、牙から毒液が滴っている。
リサルがかつて生み出した失敗作の末裔たちだ。
飢えに狂った目で、2人を睨む。
男は一歩踏み出した。
「来いよ」
その言葉で、狼たちが一斉に跳んだ。
シュッ――
一瞬の風切り音。
男の腕が、弧を描く。
次の瞬間、狼たちの体が、空中で灰色の粒子に変わった。
血も肉も残さず、塵となって散る。
3匹とも、一撃で。
リサルは呆然と見つめた。
少女の唇が、震える。
「……ほんと、あんた何者……?」
男は振り返り、リサルに手を差し出す。
「まだ、村まで遠いぞ。
立て。
次は俺の圧で寄ってこないよう、抑えてやるから」
リサルは、震える手でその手を掴んだ。
体が熱く、毒と恐怖と屈辱でぐちゃぐちゃなのに……
なぜか、わずかに安心した自分が、嫌だった。
魔物の塵が風に散った直後、地面が低く唸るように震え始めた。
木々がざわめき、葉が一斉に落ちる。
リサルは男の背中越しに、闇の奥から何かが近づいてくるのを悟った。
「……ちっ...ボスのお出ましだぞ」
男がぽつりと呟いた。
声に、苛立ちと、わずかな興奮が混じっている。
闇から、ゆっくりと姿を現したのは――
巨大な影。
体長は10メートルを超え、黒い鱗に覆われた四足の獣。
頭部は角が無数に生え、口からは青白い炎が漏れている。
目だけが、燃えるように赤い。
リサルが全盛期に生み出した最高位魔物――「影焔の獣王」の末裔だ。
普通の魔物とは桁違い。
かつてのリサルですら、苦戦を強いられる相手。
リサルは息を飲んだ。
「こいつ……最高位魔物じゃない……
全盛期の私でも苦戦する相手……
流石にあんたでも……」
言葉が震える。
男はゆっくりと腰を落とした。
膝を曲げ、両手を地面に近づける。
次の瞬間――
筋肉が、爆発的に隆起した。
腕、肩、背中、脚……すべてが異様に膨張し、血管がはち切れそうなほど浮き出る。
黒い外套が裂けそうな音を立て、フードの下から、男の瞳が光った。
「手短に終わらす」
低く、静かな宣言。
男は地面を蹴った。
ドンッ!
衝撃波が森を揺らし、木々が根元から折れる。
男の体は一瞬で宙に浮き、獣王の頭頂部へ一直線に飛んだ。
獣王が咆哮を上げ、青白い炎を吐き出す。
だが、男はそれを無視した。
右腕を大きく振りかぶり――
一撃。
拳が、獣王の頭蓋に直撃した。
ゴオオオオオオオオオッ!!
森全体が震動し、地面が割れ、木々が倒れ、土煙が巻き上がる。
獣王の巨体が、膝から崩れ落ち、地面に叩きつけられた。
頭部は粉砕され、鱗が飛び散り、青白い血が噴き出す。
一撃で、終わった。
男は音もなく地面に降り立った。
先ほど隆起していた筋肉は、まるで嘘のように元に戻っている。
外套の裂け目は修復されたかのように消え、呼吸一つ乱れていない。
リサルは、呆然と立ち尽くした。
赤い瞳が、信じられないものを見るように男を捉える。
「……うそ……でしょ……」
声は、掠れてほとんど聞こえない。
かつて自分が頂点に立っていた世界で、こんな男がいたのか。
男は振り返り、リサルを一瞥した。
フードの下の瞳は、変わらず冷たい。
「立て」
リサルは、震える足で一歩踏み出した。
這うように、男の後を追う。
木々の隙間から星はほとんど見えず、ただ赤い月の光が薄く差し込むだけ。
魔物の残骸は風に消え、静けさが戻ってきたが、リサルの体はまだ震えが止まらない。
毒の後遺症と、男の圧と、一撃で最高位魔物を粉砕した光景が、頭の中でぐるぐる回っている。
男は足を止め、ゆっくりと周りを見回した。
「もう夜も遅い。ここで夜を明かす」
そう言いながら、男は右手を軽く振った。
空間が、わずかに歪む。
次の瞬間、空気の中に四角い裂け目が生まれ、そこから折り畳まれたテントがぽんと落ちてきた。
布は丈夫で黒く、地面に触れると自動的に広がり、支柱が勝手に立ち上がる。
あっという間に、簡素だが頑丈なテントが完成した。
リサルは目を丸くした。
少女の赤い瞳が、信じられないものを見るように男とテントを交互に見つめる。
(……これは……)
男はリサルの視線に気づき、淡々と続けた。
「お前がいた時にはなかったろ? 空間魔法だ。
使えると便利だぞ」
リサルは喉を鳴らした。
かつて自分が魔王として君臨していた時代には、こんな魔法は存在しなかった。
空間を折り畳んで物を収納・取出するなんて、聞いたこともない。
自分がいなかった間に世界はどれだけ変わったのか……。
「……どおりで、手ぶらでいると思った……」
少女は小さく呟いた。
声はまだ掠れているが、驚きが混じっている。
男は無言でテントの入り口を開け、中にあった薪を外に投げる。
指を軽く鳴らすと、薪に火が灯る。
焚き火の橙色の炎が、2人の顔を照らした。
森の冷たい空気が、わずかに和らぐ。
男はテントの隅から毛布を一枚取り出し、リサルに放った。
「ほら、毛布だ。冷えるだろ?」
リサルは反射的に受け止めた。
厚手の毛布は温かく、わずかに埃っぽい匂いがする。
少女はそれを体に巻きつけ、焚き火の前に座った。
膝を抱え、炎を見つめる。
「……本当に、何者なの?」
リサルはようやく口を開いた。
声は小さく、しかし確かな疑問を込めて。
男は焚き火の反対側に腰を下ろし、薪をくべながら答えた。
「さっきも言ったろ。いま、そこ必要か?」
リサルは唇を噛んだ。
焚き火がパチパチと音を立てる。
森の奥から、遠くの魔物の唸りが聞こえるが、男の周りだけは不思議な静けさがある。
リサルは毛布を強く握りしめた。
「……村に着いたら、どうする気?」
男は薪を追加しながら、静かに答えた。
「着いてから考える」
焚き火の炎がパチパチと音を立て、2人の影を長く伸ばしていた。
リサルは毛布を肩にかけ、膝を抱えて座ったまま、男の言葉を待っていた。
男は薪をもう一本くべ、火の勢いを調整しながら、ぽつりと口を開いた。
「今から行く村は、色んな奴がいる……」
男の声は低く、淡々としていた。
まるで、ただの事実を述べるように。
「魔人と人間が共存しているんだ。
生まれつき体が不自由なやつ……
傷を負って不自由になったやつ……
奴隷の身だったやつ……
自暴自棄になって死を選ぼうとしたやつ……
それと――」
男はそこで一瞬、言葉を止めた。
焚き火の炎が男の瞳に映り、赤く揺れる。
「リサル...お前にこき使われたやつもいる」
リサルは体を硬直させた。
赤い瞳が、炎越しに男を捉える。
少女の指が、毛布を強く握りしめた。
心臓が、どくんと鳴る。
「……何?」
声は掠れていた。
怒りか、恐怖か、それとも……罪悪感か。
男は視線を焚き火に戻した。
薪が燃え尽きる音だけが、しばらく響く。
「あの村は、そういう連中が集まる場所だ。
魔王が倒された後、世界は変わった。
カンザー・ギバンが魔王の座に就いてから、もっと変わった。
でも、変わらないものもある。
傷ついたままの奴ら……
お前が作った傷が、まだ癒えてない奴ら……」
かつて自分が人間を奴隷のように扱い、魔人や魔物をこき使い、暴虐を極めた時代。
世界を腐らせた自分が、今、こんな惨めな姿で、焚き火の前に座っている。
そして、その傷跡が、まだ生きている。
「……あんたは、どうしてそんな村に私を連れてくの?」
リサルはゆっくりと聞いた。
声に、わずかな震えが混じる。
男は肩をすくめた。
「さっきも言ったろ、着いてから考える」
男は立ち上がり、夜空を見上げた。
赤い月が、雲の間から覗いている。
「もう寝ろ。 明日の朝、村へ向かう。
そこで……お前がどうするかは、お前次第だ」
リサルは毛布を強く引き寄せ、炎を見つめた。
リサルの心の奥で何かがざわついていた。
(村に……私にこき使われた奴らがいる……)
朝明けの光が、森の霧を白く染めていた。
濃い霧が木々の間を這い、足元が見えにくいほど。
リサルは毛布を肩にかけ、男の後ろを黙って歩いていた。
毒の後遺症はまだ体に残り、足取りは重いが、昨夜の焚き火の温もりが少しだけ体を支えている。
男は変わらず無言。
ただ、時折振り返ってリサルが遅れていないかを確認するだけだった。
霧の向こうに、ぼんやりとした輪郭が現れた。
木で組まれた簡素な門。
その前に、2人の男が立っている。
一人は槍を手に、もう一人は斧を肩に担いでいる。
門番だ。
男が足を止め、リサルに短く言った。
「ついたぞ」
霧が少し薄れ、村の輪郭がはっきりする。
小さな村。
木造の家々が密集し、煙突から細い煙が上がっている。
人間と魔人が混じって暮らしている気配が、遠くからでも伝わってきた。
門番の一人が、男を見て手を振った。
声は明るいが、疲れがにじんでいる。
「遅かったですね!」
男は軽く手を上げて応える。
「あぁ、思ったより魔物が多くてな。
ドイル...休んでるか?」
槍を持った門番...ドイルが、にやりと笑って答えた。
「休んでますよ〜!
昨夜の巡回でクタクタですけど元気は有り余ってます!」
男は小さく頷いた。
「それなら良かったよ。
イガルクも無理するなよ」
イガルクと呼ばれた門番が、斧を肩に担ぎ直しながら笑う。
「お互い様っす!
あなたこそ、森で何してたんですか?
……ってか、その後ろの娘は?」
イガルクとドイルの視線が、リサルに向いた。
銀髪と赤い瞳、ぼろぼろの服、泥まみれの姿。
門番の目が、少し鋭くなる。
リサルは体を硬くした。
霧の中で、男の背中に隠れるように立つ。
心臓が、早鐘のように鳴る。
男は振り返らず、淡々と答えた。
「拾った。 村で休ませる」
イガルクは眉を上げたが、それ以上追及しなかった。
「相変わらず拾ってくるんですね〜ま、好きにしてください。 村長に報告しときますよ」
ドイルが、門を開けながら言った。
「とりあえず入ってください。 霧が濃いんで、気をつけてくださいね」
男は軽く頭を下げ、リサルを促す。
一瞬躊躇したが、ゆっくりと門をくぐった。
村の中は、静かだった。
朝霧に包まれ、人影はまばら。
魔人の角が生えた男が薪を運び、人間の老婆が井戸で水を汲んでいる。
不自由な体で杖をつく者、傷跡だらけの腕を見せる者……
男の言葉通り、色んな「傷」が、この村に集まっていた。
リサルは足を止め、息を飲んだ。
赤い瞳が、ゆっくりと周りを見回す。
(……ここが、あの村……)
男はリサルの肩を軽く叩いた。
「まず休む前に村長の家に連れてくぞ」
リサルは頷くしかなかった。
霧が、2人の姿を優しく包み込む。
村の中心部、霧が少し薄れた広場に面した古い木造の家。
男はリサルを連れて玄関の前に立ち、軽くドアを叩く。
コンコンッ。
中から足音が近づき、扉が開いた。
出てきたのは、中年の男。
灰色の髪を後ろで束ね、片目が傷跡で塞がれたような村長。
体はがっしりしているが、左腕が不自然に短く、袖が空っぽに揺れている。
「はいはい、おっと! 帰ってきてたんですか!」
村長は男を見て、意外そうに目を丸くした。
男は軽く手を上げて応える。
「今帰ってきたとこだ、こいつを拾ってな」
そう言いながら、親指で後ろのリサルを指す。
リサルは霧の中で小さく縮こまり、赤い瞳を伏せていた。
村長の視線が、リサルに移る。
一瞬、静寂が落ちた。
「……魔王リサルか」
村長の声は、静かだった。
だが、その一言に、重いものが詰まっていた。
リサルは体を硬直させた。
赤い瞳が大きく見開かれ、少女の息が止まる。
霧の中で、銀髪がわずかに震えた。
(……知られている……?)
村長はリサルをじっと見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「あんたに言いたいことは山々だが……今は休むといい。
話はそれからじゃ」
声に怒りも憎しみも、表向きは抑えられていた。
だが、片目の奥で、何かが静かに燃えているのが、リサルにはわかった。
男はリサルの肩を軽く押した。
「俺の家に連れて行く……少し休んでからまた来るよ」
村長は頷き、短く言った。
「わかった。
無理はさせるなよ」
男はリサルを促し、村長の家を離れる。
村長の家の扉が静かに閉まる音が響いた。
リサルは歩きながら、掠れた声で呟いた。
「……どうして……知ってるの?」
男は前を向いたまま、淡々と答えた。
「この村の連中は、忘れねえよ。
お前が作った傷は、そう簡単には消えねえってことだ」
霧の中を進む足音だけが、2人の間に響く。
男の家は、村の端の方にあった。
小さな小屋で、屋根は苔むし、壁に蔦が絡まっている。
中に入ると、簡素な家具と、暖炉に残り火がくすぶっていた。
男はドアを閉め、リサルに言った。
「そこに座れ、何か食うか?」
リサルは壁際に座り込み、膝を抱えた。
赤い瞳が、床を見つめる。
「……どうして……私をここに連れてきたの?」
男は暖炉に薪をくべながら、背中越しに答えた。
「理由なんかないさ」
少女は小さく息を吐いた。
体はまだ重く、心はさらに重い。
村長の目、門番の視線、村全体の空気……すべてが、リサルの過去を突き刺す。
男の小屋の中は、暖炉の火がパチパチと音を立て、部屋全体を柔らかく照らしていた。
男は暖炉のそばで鍋をかき回し、湯気が立つポトフを木の皿に盛りつけた。
野菜と肉の塊がごろごろ入った、素朴だが香ばしい匂いが部屋に広がる。
「ほら、食べろ」
男は無造作に皿を差し出した。
リサルは膝を抱えたまま、ぼんやりとそれを見つめた。
少女の指が、震えながら皿を受け取る。
「……ありがと……」
小さな声で呟き、少女はスプーンを手に取った。
一口、口に運ぶ。
温かいスープが喉を通り、胃に落ちる。
野菜の甘み、肉の旨味、塩の味……すべてが、久しぶりの「食事」だった。
森で腐った実や虫を拾ってかじっていた日々とは、まるで違う。
リサルは無言で食べ続けた。
スプーンが皿に当たる音だけが響く。
そして、ぽろりと、涙が落ちた。
頰を伝い、皿の縁に落ちる。
少女は気づかないふりをして、食べ続けた。
かつて世界を統べた魔王は、今、ただの女の子として、暖かいご飯に涙を流していた。
威厳など、もうどこにもない。
男はテーブルの反対側に肘をつき、頰杖をついてリサルを眺めていた。
表情は変わらず無感情だが、瞳の奥で何かを考えているようだった。
静かな部屋に、少女の小さなすすり泣きと、スプーンの音だけが混じる。
その時――
コンコン。
扉を叩く音。
外から、元気な子供の声が響いた。
「あそぼー!」
男はため息をつき、立ち上がった。
「ゆっくりしとけ」
リサルに短く言い、ドアを開けて外に出た。
外で子供たちの笑い声と、男の低い声が聞こえる。
「またお前らか」「今日は何して遊ぶんだ?」
子供たちは魔人の角が生えた子も、人間の子も混じって、無邪気に騒いでいる。
リサルはポトフを食べ終え、皿を置いた。
体は温まり、毒の重さも少し引いていた。
だが、じっとしていることができなかった。
少女は立ち上がり、そっとドアを開けて外に出た。
霧はまだ残っているが、朝の光が村を優しく包んでいる。
リサルはゆっくりと村を歩き始めた。
少し離れたところで、魔人が大きな岩を拳で砕いていた。
岩が粉々になり、道が開ける。
近くにいた人間の男が、頭を下げて言った。
「ありがとう! これで畑が広くなるよ!」
魔人は照れくさそうに頭を掻き、笑った。
「気にすんな」
別の場所では、人間の女性が魔人に料理の入った包みを渡していた。
「これ、昨日作ったパンとスープ。いつも助かってるから」
魔人は受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとな……本当に」
リサルは立ち止まり、息を飲んだ。
魔王だった頃には、考えられなかった光景。
人間と魔人が、互いに感謝し、助け合い、笑い合っている。
さらに進むと、広場で子供たちが遊んでいた。
魔人の子供の角が揺れ、人間の子供が追いかけっこをしている。
壁も、差別も、何もない。
ただ、笑い声が響くだけ。
リサルは木の陰に隠れ、じっとそれを見つめた。
赤い瞳に、涙が再び滲む。
かつて自分が踏み潰し、奴隷のように扱い、こき使った者たち。
今、ここで、普通に生きている。
少女は唇を噛み、拳を握った。
(……こんな世界が……あったのか)
カンザーへの復讐の炎は、まだ消えていない。
だが、それと同じくらい、何かが胸の奥で、静かに揺れ始めていた。
リサルは広場の端で立ち尽くし、子供たちの笑い声と、人間と魔人の穏やかなやり取りをぼんやりと眺めていた。
霧が少しずつ晴れ、朝の光が村を優しく照らし始めている。
胸は、まだざわついていた。
かつて自分が踏み潰した世界が、こんな風に息づいているなんて……。
その時――
「リサル」
後ろから、低く落ち着いた声がした。
リサルはびくりと肩を震わせ、振り返った。
そこに立っていたのは、村長。
朝の光に照らされ、傷跡がより深く刻まれているように見えた。
少女は一瞬、逃げ腰になったが、すぐに息を整えた。
赤い瞳を伏せ、静かに村長を見つめ返す。
村長はゆっくりと近づき、杖を地面に突きながら言った。
「もう休んだのか?」
リサルは小さく頷いた。
声はまだ掠れている。
「腹ごしらえはした……」
村長は軽く笑い、広場を見渡した。
子供たちの笑い声が、遠くから響く。
「そうか……どうだ? いい村じゃろ!」
村長の声に、どこか誇らしげな響きがあった。
「あやつが作った村なのじゃよ」
リサルは眉を寄せた。
「あやつ?」
村長は杖を軽く叩き、ゆっくりと頷いた。
「あぁ。ワシは肩書きで村長と言われとるが、本当はあやつの村なのじゃ。
ここの人間や魔人は、みな、あやつに命を救われた者たちなのじゃ」
リサルは息を飲んだ。
赤い瞳が、村長をまっすぐ見つめる。
「……あやつって……誰のこと?」
『あなたは神を信じますか?』
村長は霧の向こう、男の小屋の方をちらりと見た。
朝の光が、村全体を優しく包んでいる。
「サンドロスじゃ……あやつはこの村を、ただの隠れ家として作ったわけじゃ。
戦いや飢えで死にかけとった者たちを拾い、傷を癒し、生きる場所を与えた。
人間も魔人も関係なく。
お前がいた頃の世の中じゃ、考えられんことじゃろ?」
リサルは唇を噛んだ。
胸の奥で、何かがざわつく。
復讐の炎はまだ消えていないのに……この村の空気、この穏やかさ、この「救い」が、すべてを揺さぶる。
村長は杖を地面に突き、ゆっくりと続けた。
「リサル……お前がどうしてここにいるのかは、まだわからん。
だがな、あやつが連れてきたってことは、何か意味があるはずじゃ。
休め。
そして……自分の目で、この村を見てみろ」
子供たちの笑い声が、再び耳に届く。
人間と魔人が、互いに肩を並べて歩く姿。
かつて自分が壊したはずの世界が、ここで、静かに再生している。
リサルの拳が、ゆっくりと握られた。
(……あやつ……あの男が……この村を……?)
リサルは木の幹に背を預け、赤い瞳を伏せたままだった。
村長はゆっくりと息を吐き、言葉を続けた。
「あやつ、自分のことは話してないみたいじゃな」
リサルは小さく頷いた。
声は掠れ、ほとんど囁きに近い。
「話されてない……話してくれなかった」
村長はくすりと笑い、片目で少女をじっと見つめた。
「そうじゃろな。
よし、わしから話してやる。
リサルの御伽噺の続き……」
リサルは体を硬くした。
昨晩、森の中で男がぽつりと漏らした言葉を思い出す。
「俺しか知らない続きがあるんだ」
村長の声が、低く、ゆっくりと響き始めた。
「リサルを討った後の勇者……サンドロス・ギバンは……人間の元へ帰り、静かに過ごしていたんじゃが……
魔王を失った魔人や魔物を、人間は顎で使い始めた。
リサルがやったように、じゃ。
奴隷のようにこき使い、鞭を振るい、飢えさせ、踏みつけ……
勇者はそれを見て、疑問を抱いた。
『なぜだ。俺が倒した魔王の代わりに、今度は人間が同じことをするのか』と」
村長の声に、静かな怒りが混じる。
杖を握る手が、わずかに震えていた。
「勇者は反逆を起こした。
魔人や魔物を庇い、人間の国から姿を消した。
それが……500年前の話じゃ」
リサルは息を止めた。
赤い瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「……500年前……」
村長は頷いた。
「ああ。
サンドロス・ギバンは、勇者として祭り上げられた英雄だったはずじゃ。
だが、英雄は人間の国を捨て、魔人や魔物と共に去った。
それ以来、人間と魔人の間に深い溝ができ、戦争が繰り返された。
カンザー・ギバンが現れるまで……」
リサルの指が、木の幹を強く掻いた。
爪が食い込み、木屑が落ちる。
「……あの男は……サンドロスの……?」
村長は静かに首を振った。
「わからん。
血縁か、転生か、ただの同姓か……
あやつは、自分のことをほとんど話さん。
ただ、この村を作り、傷ついた者たちを拾い続けた。
人間も魔人も、関係なく」
胸の奥で、復讐の炎が揺らぐ。
カンザー・ギバンへの憎しみは、まだ消えていない。
だが、今、目の前に広がるこの村の光景と、村長の言葉が、すべてを複雑に絡め取る。
村長は杖を地面に深く突き、霧の残る広場でリサルを見据えた。
少女の赤い瞳が、警戒と混乱で揺れている。
「そして、リサルよ。お主はあやつと昔会ったことがあるはずじゃ」
リサルは即座に首を振った。
銀髪が霧の中で揺れ、声に苛立ちが混じる。
「そんなはずはない。覚えてないわけがない。
記憶力はあるほうよ……」
村長は小さく息を吐き、片目で少女をじっと見つめた。
「そうか。なら教えてやろう。あやつは――」
その瞬間、地面が低く震えた。
重い足音。
木々が揺れ、霧が渦を巻くように分かれる。
巨大な影が、ゆっくりと広場に現れた。
体長は優に5メートルを超える巨体。
岩のような灰色の皮膚、太い角、背中に生えた無数の棘。
両腕に抱えたのは、切り倒されたばかりの巨大な丸太。
村の住民たちが、驚きもせず、穏やかに見守っている。
ドロール――村の「力持ち」として知られる最高位級の魔物。
ドロールはゆっくりと膝を折り、丸太を地面に置いた。
声は低く、響くように重い。
「木……切ってきた……あげる……」
男――あの黒い外套の男が、近づいた。
子供たちはドロールを見て、笑顔で手を振っている。
「あぁ、いつもありがとうな。
そこ置いといてくれ」
ドロールは丸太を丁寧に地面に横たえ、ゆっくりと頭を下げた。
「困ったら……いつでも言ってくれ……サンドロス……」
リサルの目が見開かれた。
赤い瞳が、信じられないものを見るように男を捉える。
少女の息が止まり、体が硬直する。
「……サンドロス……?」
村長は静かに頷いた。
杖を地面に叩き、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あやつは……サンドロス・ギバンじゃ。
500年前、魔王リサルを討った勇者……
そして、人間の国を捨て、魔人や魔物を守るために姿を消した男……
今も、この村を守り続けている」
リサルは後ずさり、木の幹に背中を預けた。
心臓が激しく鳴り、喉が乾く。
(……あの男が……サンドロス……?
私を討った……勇者……?)
ドロールは満足げに低く唸り、ゆっくりと霧の奥へ去っていった。
丸太が置かれた地面に、土煙が少し舞う。
男――サンドロスは、リサルの方をちらりと見た。
フードの下の瞳は、変わらず冷たく、深い。
だが、そこに、500年前の記憶が、静かに宿っているように見えた。
リサルは拳を握り、震える声で呟いた。
「……どうして……生きてるの……?
お前は……人間、寿命が……」
サンドロスは答えなかった。
ただ、子供たちに「もう帰れ」と言い、広場を片付け始めた。
村長はリサルの肩に軽く手を置き、静かに言った。
「リサル……お主がここに連れてこられた意味は、もうわかったじゃろ?
あやつは……お主を、許したわけでも、殺す気でもない。
ただ……お主に、この村を見せたかったんじゃ」
サンドロスがゆっくりと近づいてきた。
足音はほとんど聞こえない。
子供たちはもう去り、ドロールの巨体も霧の奥に消えていた。
村長は杖を突いたまま、少し離れたところで静かに見守っている。
リサルは木の幹に背を預けたまま、動けなかった。
赤い瞳が、サンドロスのフードの下の顔を捉える。
500年前、自分を討った勇者。
今も変わらず人間の姿を保っている男が、目の前にいる。
サンドロスはリサルの前に立ち止まり、静かに口を開いた。
「人間である俺が何故生きているか、不思議に思ってるんだろ?
教えてやる。魔人になる魔法をかけたからだ」
リサルは息を飲んだ。
少女の指が、木の幹に食い込む。
「……魔人になる魔法……?」
確かに、その魔法は存在する。
リサル自身が全盛期に研究し、極秘で開発した禁忌の術。
人間の寿命を捨て、魔人の強靭な肉体と長い命を得る代わりに、魂の一部を魔力に変換するもの。
だが、それは最高位の魔法。
必要な魔力の量、術式の複雑さ、成功率の低さから、世界で使える人間は限られている。
リサルが魔王として君臨していた時代ですら、実際に成功した例は片手で数えられるほどしかなかった。
「……そんな魔法を……お前が?」
リサルは掠れた声で呟いた。
サンドロスはフードを少し下げ、顔をはっきり見せた。
人間の顔立ちだが、瞳の奥に青白い魔力の光が揺れている。
皮膚の下で、血管が時折青く脈打つ。
完全に人間でも、完全に魔人でもない――中間のような存在。
「ああ。
お前を倒した後、人間の国で見た光景が……耐えられなかった。
魔人や魔物を奴隷のように扱い、俺が倒したはずの悪を、人間が繰り返してる。
それなら……俺が魔人側に回って、守るしかないと思った」
サンドロスは淡々と続ける。
声に、感情の起伏はほとんどない。
「魔人になる魔法は、俺が自力で完成させた。
お前が残した断片的な術式を基にな、人間の寿命を捨て、魔人の体を得た。
だから今も生きてる。 この村を守るために」
「……お前が……私の術式を……」
サンドロスは小さく肩をすくめた。
「そうだ。
お前が残した闇の欠片を、俺は光に変えた。
それが、この村だ」
少女の赤い瞳に、涙が滲む。
500年前...自信を討った勇者が、今も生きて、自分の過去を「利用」して村を作り上げている。
憎しみと、理解できない複雑な感情が、混じり合う。
そしていま気になることがひとつ...
「……カンザーは……?
お前の血を引くはずの奴が……なぜ魔王に……」
サンドロスは視線を霧の奥へ向けた。
声が、低く落ちる。
「それは……また別の話だ」




