六階層
階段を下り切った瞬間、大河は五階層までとは違う空気を肌で感じた。
六階層は、それまでの岩肌が剥き出しになった洞窟とは少し様子が違う。壁や床には人工物を思わせる石材が混ざり、ところどころ崩れてはいるものの、まるで古い遺跡の中を歩いているような通路が奥へ続いていた。空気も僅かに冷たく、静けさの中に自分の足音だけが響いている。
【雰囲気変わったな】
【ここから後半】
【六層から敵も一段強くなるぞ】
【全身強化の練習にはちょうどいいんじゃね】
「それは俺も思ってます」
大河は歩きながら、自分の身体へ意識を向けた。
先ほどのオーガ戦で一度は成功した全身への魔力循環。しかし、今こうして落ち着いた状態で再現しようとしてみると、やはり簡単ではない。
胸の奥から魔力を流し、肩や腕、腹、腰、両脚へ巡らせていく。途中まではいい。だが、一周させようとしたところで流れが乱れ、身体を包みかけていた淡い光が消えた。
「……切れた」
【さっきの火事場のやつだったか】
【戦闘中の方が上手かったな】
【そう簡単に完成はしないか】
「そりゃそうですよね」
むしろ、大河自身もその方が納得できた。一度できたからといって、完全に身についたわけではない。オーガに追い詰められた極限状態で掴んだ感覚を、今度は自分の意思で再現できるようにしなければならない。
何度か魔力を巡らせながら進んでいると、通路の奥から硬いものが床を擦る音が聞こえてきた。
大河は足を止め、《マジックソード》へ手をかける。
曲がり角の先から現れたのは、二体の人型の魔物だった。緑がかった鱗に覆われた身体。人間より一回り大きく、片方は幅広の剣を、もう片方は長い槍を持っている。
「リザードマンか」
すぐに《鑑定》を使う。
【リザードマン】
【レベル:32】
【リザードマン】
【レベル:33】
どちらも自分より上。
しかも、オークのように力任せに襲ってくる魔物ではない。武器を構える姿勢を見ただけでも、ある程度の技術を持っていることが分かる。
【いきなり二体か】
【リザードマンは武器使うぞ】
【オークと同じ感覚で行くなよ】
【今31だよな?】
「ちょうどいいじゃないですか」
【出た】
【何でも練習台にするな】
大河は笑いながら《マジックソード》を抜いた。
そのまま胸の奥へ意識を向ける。先ほど一度だけ成功した流れを思い出しながら、魔力を全身へ巡らせていく。
まだ滑らかではない。それでも、途切れないよう慎重に繋げていくと、身体の表面にほんの僅かに淡い光が浮かんだ。
【出た】
【さっきより薄いな】
【でも自力で再現できてる】
「……よし」
完全ではない。それでも、できた。
大河が顔を上げる。二体のリザードマンも、すでに武器を構えていた。
「今度は、戦いながら切らさない」
大河は淡いオーラを纏ったまま、地面を蹴った。
二体のリザードマンが同時に動く。
剣を持つ方が正面から距離を詰め、槍を持つ方は半歩遅れてその後ろへ回る。互いの動きを邪魔しないように位置をずらしながら迫ってくる様子を見るだけでも、これまでのオークとは明らかに違った。
「ちゃんと連携するのか」
【そこがリザードマンの面倒なところ】
【武器も普通に使うぞ】
【二体だと結構厄介】
剣持ちが先に踏み込み、斜め上から刃を振り下ろす。
大河は身体を横へずらしてかわし、その直後に伸びてきた槍を《マジックソード》で弾いた。甲高い音が通路へ響き、衝撃が右腕へ伝わる。
その瞬間だった。
全身を巡っていた魔力が僅かに乱れ、淡く身体を包んでいた光が揺らいだあと、そのまま消えた。
「っ……」
意識が目の前の攻撃へ向いたことで、魔力の循環まで途切れてしまった。
【消えた】
【やっぱ戦闘しながら維持は難しいか】
【オーガ戦の時は必死だったからな】
大河は槍の追撃をかわしながら、一度距離を取った。
「……循環を切らしたら駄目なんだな」
全身へ魔力を流すこと自体はできる。問題は、戦闘中でもその流れを途切れさせずに維持できるかどうかだった。攻撃をかわすことに集中しても、剣を振ることに集中しても、身体の中を巡る魔力だけは止めない。
大河は再び胸の奥へ意識を向ける。
魔力が全身へ広がり、身体の中を巡って戻ってくる。その流れを途切れさせないように意識すると、再び淡い光が全身を包み始めた。
「今度は切らさない」
二体のリザードマンが再び迫る。
剣をかわし、槍を弾く。
その間も、大河は魔力の流れだけは手放さなかった。全身を巡った魔力を、そのまま止めることなく循環させ続ける。
槍の穂先が胸元を狙って突き出された。
大河は半歩だけ身体をずらしてかわし、そのまま一気に間合いを詰める。《マジックソード》を振り抜くと、魔力刃がリザードマンの脇腹を深く切り裂いた。
「ギャッ!」
血を流しながらよろめく。
すぐに剣持ちが横から斬りかかってきたが、大河はその動きを見切って後ろへ退った。
まだ、身体を包む淡い光は消えていない。
【維持してる】
【今度は切れてないな】
【さっきより安定してる】
「……よし」
感覚が少しずつ掴めてきた。
何か特別なことをする必要はない。ただ、流し続ける。全身を巡る魔力を、一瞬たりとも途切れさせない。
大河は再び二体へ踏み込んだ。
全身が強化された状態では、さっきより明らかに身体が軽い。剣持ちの斬撃をかわして脇を抜け、そのまま背後へ回ると、《マジックソード》を横薙ぎに振るった。
首元へ深く刃が入り、一体目が崩れ落ちる。
残った槍持ちが距離を取ろうとするが、大河は逃がさない。踏み込み、一気に懐へ入る。
「終わり」
突き出された槍を外側へ弾き、そのまま胸元へ《マジックソード》を突き込んだ。
二体目のリザードマンも、数歩よろめいたあと地面へ倒れる。
静かになった通路の中で、大河はすぐには剣を下ろさなかった。
自分の身体へ意識を向ける。
魔力は、まだ全身を巡っている。淡い光も消えていない。
「……できたな」
【戦闘終わっても残ってる】
【もう維持できるようになってきてるじゃん】
【早すぎるって】
大河は自分の腕を見ながら、小さく笑った。
今はまだ、全身を巡っている魔力の量そのものは多くない。だから身体を包むオーラも淡く、強化される幅もそれほど大きくはない。
だが、仕組みは分かった。
魔力を途切れさせず全身へ循環させる。そして今後、もっと多くの魔力を一度に巡らせられるようになれば、その分だけ身体強化も強くなる。
「なるほどな」
【何か分かった?】
「今はまだ流してる魔力が少ないんですよ。もっと増やせるようになれば、たぶん身体強化ももっと上がる」
【その認識で合ってる】
【上位勢のオーラが濃いのもそれ】
【大量の魔力をずっと循環させてる】
【まずは今の状態を安定させろ】
「ですね」
大河は倒した二体から魔石を回収し、《アイテムボックス》へ収納した。そして再び六階層の奥へ歩き出す。
その間も、身体の中を巡る魔力は止めない。
今はまだ意識しなければ簡単に途切れる。それでも、一度目より二度目、二度目より三度目と、少しずつ維持できる時間は伸びている。
淡いオーラを纏ったまま、大河は通路の先を見据えた。
「まずは、これを普通にできるようにするか」
そこからの探索は、それまでより明らかに速くなった。
六階層で遭遇する魔物はどれも五階層までより強く、リザードマンのように武器を扱うものや、硬い外皮を持つ四足の魔物も混ざっている。
それでも大河は、戦闘のたびに全身への魔力循環を維持し続けた。
最初は攻撃を受けたり、複数の魔物へ意識を向けたりするたびに乱れていた流れも、数を重ねるにつれて少しずつ安定していく。
六階層を抜ける頃には、戦闘中に循環が途切れることもほとんどなくなっていた。
【もう普通に維持してるじゃん】
【数時間前まで全身強化できてなかったよな?】
【覚えるの早すぎだろ】
「まだ意識してないと無理ですよ」
そう答えながらも、大河自身、成長している実感はあった。
身体を包むオーラは、オーガ戦で初めて発現した時と変わらず淡い。今の大河が安定して循環させられる魔力量では、まだこの程度だった。
それでも、まずは途切れさせないことが重要だ。
六階層の終盤でレベル32。
七階層へ入り、しばらく進んだところでレベル33へ上がった。
《レベルアップ補正》を得てからは、一度レベルが上がるだけでも身体の変化が以前より大きい。これまでなら一つずつだった基礎ステータスの上昇が二つずつになり、その差はレベルを重ねるほど少しずつ積み上がっていく。
もちろん、そのことを配信で話すつもりはない。
【またレベル上がった?】
「上がりました」
【今いくつ?】
「それは秘密で」
【もうだいたい分かるわ】
【さっき29って言ってただろ】
「じゃあ聞かなくていいじゃないですか」
【草】
【秘密にするの下手すぎる】
大河は苦笑しながら、そのまま七階層の奥へ進んでいった。
ここまで来ると、三体、四体とまとまって現れることも珍しくない。
正面から迫る人型の魔物を《マジックソード》で斬り伏せ、その横から飛びかかってきた獣型を身体強化された脚力でかわす。振り返ればすでに次の一体が迫っていたが、それでも身体の中を巡る魔力は途切れない。
淡いオーラを纏ったまま、次々と敵を倒していく。
レベル34。
そして七階層を抜ける頃には、レベル35へ到達した。
【今日だけで上がりすぎだろ】
【昨日26じゃなかった?】
【もう数字隠しても無駄じゃね】
【しかもさっきから動きどんどん良くなってる】
「ちゃんと強くなってますからね」
【めっちゃ嬉しそう】
「そりゃ嬉しいですよ」
大河は隠すつもりもなく笑った。
八階層へ入ると、敵の強さはさらに一段上がった。単純な力なら五階層のオーガには及ばない。それでも、出現する魔物の平均レベルは大河と大きく変わらなくなり、複数を同時に相手にすれば簡単には終わらない。
何度か攻撃を受ける場面もあった。それでも、そのたびに立て直す。
傷を負えばポーションを使い、魔石を回収すればすぐに次へ進む。そして戦闘を重ねるほど、全身への魔力循環も滑らかになっていった。
まだ完全に無意識でできるわけではない。それでも、戦いながら循環を維持すること自体にはほとんど迷わなくなっている。
「……もう少し増やせるか?」
大河は歩きながら、全身を巡らせている魔力の量を僅かに増やしてみた。
身体を包む淡いオーラが、一瞬だけ濃くなる。
だが、すぐに流れが乱れた。
「おっと」
慌てて元の量へ戻すと、循環が安定する。
【今ちょっと濃くなった?】
【魔力量増やそうとしたな】
【欲張るなw】
「ちょっと試しただけです」
【絶対またやる】
「やりますけど」
【知ってた】
大河は笑った。
今はまだ、安定して巡らせられる量に限界がある。なら、その限界を少しずつ上げていけばいい。
循環させられる魔力量が増えれば、その分だけ身体強化も強くなる。
やることは単純だった。
八階層の終盤でレベル36。
九階層へ入る頃には、レベル37へ到達していた。
*
九階層。
そこからは、一戦一戦にかかる時間も長くなった。
敵のレベルは三十台後半が中心となり、一体なら問題なく倒せても、複数を同時に相手にすれば油断はできない。
それでも朝から何度も戦い続けたことで、大河の動きには確実に無駄が減っていた。《マジックソード》へ魔力を流しながら、全身の循環も維持する。その二つを同時に行うことにも、少しずつ慣れ始めている。
何度目かの戦闘を終えたところでレベル38。
さらに奥へ進み、五体の魔物が入り混じった集団を倒した時にはレベル39へ上がった。
「……39か」
【もう隠してないじゃん】
【自分で言ってて草】
「今のは独り言です」
【配信中です】
【全部聞こえてます】
「……そうだった」
コメント欄が一気に笑いで埋まる。
大河も笑いながら《マジックソード》についた血を払った。
身体には、さすがに疲労が溜まっている。何度かポーションも使ったが、それで消えるのは傷だけだ。
朝から探索を続け、五階層ではオーガとも戦った。全身への魔力循環を長時間維持し続けていることもあって、身体だけでなく集中力も少しずつ削られていた。
それでも、大河の足は止まらない。
九階層の最奥。
長い通路を抜けた先で、ようやく次の階層へ続く階段が見えた。
【来た】
【十層】
【最終階層だ】
【このまま行く?】
大河は階段の前で足を止めた。
少しだけ、その先へ視線を向ける。
ここを下りれば最後の階層だ。そして、その最奥には池袋ダンジョンのボスが待っている。
「……今日はやめとくか」
【えらい】
【成長した】
【絶対行くと思ってた】
「いや、さすがに疲れてますよ」
大河は苦笑しながら自分の身体へ目を向けた。
ポーションで傷は治せても、朝から積み重なった疲労までは消えない。五階層ではオーガと戦い、その後も六階層から九階層まで進み続けてきた。
全身への魔力循環も、かなり長い時間維持している。
今から最終ボスへ挑むには、明らかに状態が悪かった。
「明日、万全で来ます」
【それがいい】
【ボス戦楽しみ】
【明日も配信ある?】
「やるつもりです」
【待ってる】
【絶対見る】
大河は最後にもう一度、十階層へ続く階段を見た。
「……明日だな」
そう呟いて踵を返した。
*
帰りは、行きほど時間はかからなかった。
すでに道順は分かっているうえ、必要のない戦闘は避けながら進む。途中で遭遇した魔物だけを倒し、数時間かけてようやく池袋ダンジョンの入口まで戻ってきた頃には、外はすっかり夕方になっていた。
「今日はここまでにします」
【おつ】
【長時間おつかれ】
【全身強化やばかった】
【明日のボス戦待ってる】
【ちゃんと休めよ】
「それはちゃんと休みますよ」
大河は笑いながら配信を終了する。
【配信を終了しました】
画面からコメントが消えた。
「……ふう」
一人になった途端、どっと疲れが押し寄せてくる。
今日は朝からほとんど一日中ダンジョンの中にいた。身体の傷こそポーションで治しているが、脚の重さも、頭に残る疲労も誤魔化せない。
それでも、気分は悪くなかった。
レベルは39。
新しい常在スキル《レベルアップ補正》を得て、全身への《身体強化》も形になり始めた。
昨日より確実に強くなっている。
大河は満足そうに息を吐くと、そのままダンジョンを出た。
*
探索者協会の買取窓口で、《アイテムボックス》から魔石を取り出していく。
六階層以降で倒した魔物の魔石に加え、五階層のオーガから回収した大きな魔石もある。カウンターの上へ次々と並べていくと、担当者の表情が次第に変わっていった。
「……これ、今日一日分ですか?」
「はい」
「池袋ダンジョンですよね?」
「そうです」
担当者は一度、大河の探索者証を確認した。
「Fランク……」
「昨日なったばっかです」
「昨日……?」
小さく呟いたあと、担当者はそれ以上聞くのをやめ、査定へ戻った。
しばらくして提示された金額を確認すると、大河は僅かに目を見開く。
「結構いったな」
渋谷ダンジョンの時とは、魔石一つあたりの価値が違う。さらに今日は倒した数も多かった。
大河はそのまま売却を済ませると、入金された金額を確認しながら協会を出た。
そして自宅へ帰る――ことはなかった。
「……装備、見に行くか」
明日は池袋ダンジョンの最終ボス戦。
いつまでも探索を始めた時に買った最低限の防具で戦い続ける理由もない。
《マジックソード》はそのままでいい。
だが、防具は別だった。
*
探索者向けの装備を扱う専門店へ入ると、壁一面に防具や武器が並んでいた。金属製の重装備から、魔物素材を使った軽装、防刃性能を持つインナーやブーツまで種類は多い。
「重いのは嫌だな……」
大河の戦い方は、速度を活かして相手の攻撃をかわすものだ。防御力だけを優先して動きを鈍らせれば意味がない。
店員へ相談しながら選んだのは、軽量な探索者用の防具一式だった。黒を基調としたジャケット型の上半身装備に、動きを邪魔しないパンツ、前腕を守るガード、そして滑りにくく耐久性の高いブーツ。
重装備ほどの防御力はない。それでも、今まで使っていた初心者用の装備とは明らかに違う。
「これなら動けそうだな」
試着したまま何度か身体を動かし、大河は頷いた。
値段を見れば少し迷う金額だったが、今日の魔石売却分を考えれば払えないほどではない。
「これにします」
支払いを済ませ、装備一式を《アイテムボックス》へ収納する。
店を出た頃には、外はすっかり暗くなっていた。
明日は十階層。
池袋ダンジョンの最終ボス。
大河は歩きながら、自分のステータスを確認する。
【天草 大河】
【レベル:39】
【体力:58】
【筋力:59】
【耐久:57】
【敏捷:60】
【魔力:56】
【精神:61】
【常在スキル:《レベルアップ補正》】
【発動スキル:《詠唱》《アイテムボックス》《鑑定》《魔力操作》】
【探索者ランク:F】
探索者になって、まだ六日。
それでも、大河はもう最初の日とは比べものにならないほど強くなっていた。
そして明日。
池袋ダンジョン攻略の最後の一日が始まる。




