全身強化
翌朝。
大河は探索へ向かう準備を終えると、玄関脇に置いていた配信用ドローンを手に取った。昨日初めて使ったばかりだというのに、もうこれを持ってダンジョンへ向かうことにそれほど違和感はない。
ただ、一つだけ昨日とは違うことがあった。
「……増えてるな」
スマートフォンに表示されている自分の配信ページには、昨日の夜より明らかに多い数字が並んでいる。
【フォロワー:1,184】
配信を終えた時点では三百人ほどだった。それが一晩で千人を超えている。
原因はすぐに分かった。昨日の配信から切り抜かれた動画がいくつも投稿され、その中でもオーク三体を相手に《身体強化》と《マジックソード》を使って戦った場面が大きく伸びていた。
「こんな増えるもんなのか……」
自分としては、池袋ダンジョンへ潜って普通に戦っていただけだ。だが、探索を始めて五日目という経歴も含めて、どうやら見ている側にはかなり珍しく映ったらしい。
コメント欄を開けば、次の配信時間を聞く書き込みまで増えている。
「待ってる人いるなら、やるか」
大河は特に気負うこともなくスマートフォンをしまい、部屋を出た。
*
池袋ダンジョンへ到着した大河は、昨日と同じ場所で配信用ドローンを起動した。
配信タイトルは少しだけ考えた末、簡単に決める。
【池袋ダンジョン 中間ボスへ】
「これでいいな」
配信を開始する。
【配信を開始しました】
昨日はここからしばらく視聴者数がゼロだった。大河はその時のことを思い出しながら画面を見る。
【視聴者数:37】
「……もういる」
さらに数秒。
【視聴者数:64】
【待ってた】
【来た】
【昨日の切り抜きから】
【今日は中間ボス?】
【初手から人いて困惑してそう】
「いや、実際ちょっと困惑してます」
昨日とは明らかに違う速さでコメントが流れていく。
「おはようございます。今日は昨日の続きですね。五階層の中間ボスまでは行こうと思ってます」
【やっぱやるのか】
【知ってた】
【昨日止まった意味とは】
「昨日は疲れてたんで。今日は元気です」
【そういう問題か?】
【戦闘狂の理屈】
「戦闘狂じゃないですって」
言い返しながらも、大河の表情は楽しそうだった。
配信二日目。探索者になって六日目。
昨日までは知らなかった相手が、自分の探索を待っている。その感覚にも少しずつ慣れ始めていた。
「じゃあ、行きますか」
大河は《ゲート》へ向かって歩き出した。
*
《ゲート》を抜けた大河は、昨日と同じ池袋ダンジョンの空気を感じながら、迷うことなく奥へ向かった。
昨日すでに四階層までの道順は把握している。途中で現れる魔物も、今となっては一体一体立ち止まって警戒するほどではなかった。《身体強化》を使う時間も短くなり、《マジックソード》へ魔力を流す動作も昨日より明らかに滑らかになっている。
【昨日より動き速くない?】
【身体強化もうだいぶ慣れてるな】
【これ覚えたばっかだよな?】
「昨日よりは、だいぶ使いやすくなりましたね」
そう答えながら、大河は三層で遭遇した二体のオークを続けて斬り伏せた。戦闘が終わると同時に身体の奥へ熱が流れ込み、レベルが一つ上がった感覚が伝わってくる。
【天草 大河】
【レベル:27】
「よし」
昨日までなら、レベルが上がるたびに身体の変化を確かめていた。しかし今は、そのまま足を止めずに先へ進む。
四層へ入る頃には視聴者数も昨日の最大人数を超え、コメントの流れはさらに速くなっていた。それでも大河は戦闘へ入れば配信のことをほとんど忘れ、魔物の動きと自分の身体だけに集中する。
複数の魔物がまとまって現れることも増えた。時にはレベル25を超える魔物が混ざる集団とも遭遇したが、昨日ほど苦戦することはなかった。
敵の配置を見て崩し、速い相手から仕留め、数を減らしてから残りを倒す。渋谷ダンジョンのボス戦で痛い目を見た経験も、昨日の複数戦も、すでに大河の戦い方へ混ざり始めている。
四層の中盤でレベル28。そして五層へ降りる直前には、レベル29へ到達した。
【もう29?】
【昨日26だったよな】
【レベル隠してる意味なくなってない?】
「全部言ってるわけじゃないからいいんですよ」
【いやほぼバレてる】
【もう諦めろ】
大河は苦笑しながらスマートフォンをしまい、五層へ足を踏み入れた。
*
昨日も感じた通り、五層は一階層から四階層までとは少し雰囲気が違う。魔物の数は少ないが、その分だけ一体一体が強い。
遭遇する魔物の多くが大河と同等か、それ以上のレベルを持っており、複数で現れれば油断できる相手ではなかった。
それでも、大河にとっては都合がいい。
中間ボスと戦う前に、もう少しだけレベルを上げておきたかった。
「あと一つ」
【レベル30狙ってる?】
「せっかくなら」
【ボス前に上げときたいよな】
【節目だしスキル出るかも】
そのコメントを見て、大河も小さく頷いた。
レベル10では《アイテムボックス》と《鑑定》。レベル20では《魔力操作》。
節目となるレベルでスキルが発現することはすでに経験している。もちろん、レベル30で必ず何かが得られると決まっているわけではないが、期待はしていた。
しばらく進んだ先で遭遇したのは四体の魔物だった。オークが二体に、大型のゴブリンが一体。その奥には全身を硬い甲殻で覆われた四足の魔物が控えている。
大河は《鑑定》でそれぞれのレベルを確認すると、《マジックソード》を抜いた。
「ちょうどいいな」
【何がちょうどいいんだよ】
【四体いるぞ】
【また始まった】
大河はコメントへ返事をすることなく、両脚へ魔力を流した。
昨日までは意識を一か所ずつ切り替えながら使っていた《身体強化》も、今では戦闘中に自然と維持できる時間が長くなっている。まだ全身を常に強化するほどではないが、必要な瞬間に必要な場所へ魔力を流す感覚は確実に身についてきていた。
戦闘は数分ほど続いた。最初に速度のある大型ゴブリンを仕留め、続いて二体のオークを分断する。
最後に残った甲殻の魔物には普通の斬撃が通りにくかったが、《マジックソード》の魔力刃を一点へ集中させることで硬い外殻ごと切り裂いた。
四体目が地面へ倒れた瞬間、これまでよりも強い熱が大河の身体を一気に駆け抜けた。
「……来た」
身体の内側から力が増していく。そして同時に、頭の中へ新しい情報が流れ込んできた。
大河はすぐに《鑑定》を使う。
【天草 大河】
【レベル:30】
【常在スキル:《レベルアップ補正》】
「常在スキル……?」
初めて見る、自分の常在スキル。
意識を向けると、その効果が自然と理解できた。
【《レベルアップ補正》】
【レベルアップ時に得られる基礎ステータスの上昇量が増加する】
一瞬、大河は無言になった。
【どうした?】
【何かスキル出た?】
【30だろ?】
【鑑定してるってことは出たんだろ】
流れるコメントを横目に、大河はもう一度表示を見直した。
「……これ、結構すごくないか?」
【何取った?】
【新スキル?】
【常在? 発動?】
「常在スキルでした」
【おお】
【初常在か?】
【効果は?】
大河は少し迷ったあと、スマートフォンへ視線を向ける。
「効果は秘密で」
【そこは隠すのかよ】
【鑑定もアイテムボックスも普通に見せてるくせに】
「そっちはもうバレてるからいいんですよ」
【それ自分から公開したわけじゃないだろ】
【魔石消しまくってたらアイテムボックスなの分かるわ】
【敵のレベル即答してる時点で鑑定もな】
「まあ……それはそうですね」
大河は苦笑しながら表示を閉じた。
今この瞬間に身体能力が劇的に跳ね上がったわけではない。だが、これから先レベルを上げるほど、通常より大きくステータスが伸びていく。
強くなりたい大河にとって、その意味は十分すぎるほど理解できた。
「……いいな、これ」
自然と口元が緩む。
そしてその先。
昨日、大河が引き返した巨大な扉が見えてきた。
池袋ダンジョン五階層。中間ボス部屋。
大河は扉の前まで歩み寄ると、《マジックソード》の柄へ手を置いた。
「じゃあ――行きますか」
大河は巨大な扉の前で一度だけ深く息を吐いた。昨日はここまで来て引き返したが、今日は違う。
レベルは30まで上がり、《身体強化》も《マジックソード》も昨日より扱いやすくなっている。そのうえ、新しく《レベルアップ補正》まで手に入れた。
【ついに行くのか】
【中間ボス初見だよな?】
【一応言っとくけど油断すんなよ】
【昨日より視聴者増えすぎてて草】
大河はちらりと画面を確認する。
【視聴者数:1,426】
「……千人超えてる」
【今気づいたのか】
【切り抜きから結構来てる】
【ボス戦待ち】
「じゃあ、せっかく見に来てくれてるし、負けないようにします」
【そこは絶対勝つって言え】
【慎重なのか戦闘狂なのか分からん】
コメントに小さく笑いながらスマートフォンをしまうと、大河は両手を扉へかけた。
重い音を響かせながら、巨大な扉がゆっくりと開いていく。
*
扉の先には、渋谷ダンジョンのボス部屋より一回り広い円形の空間が広がっていた。天井は高く、壁際に埋め込まれた青白い鉱石が薄暗い部屋全体を照らしている。
そして、その中央に一体の魔物が立っていた。
身長は三メートル近い。赤黒い皮膚に、岩のように隆起した筋肉。右手には大河の身体ほどもある巨大な棍棒を握り、額からは二本の角が伸びている。
「……オーガ」
探索配信では何度か見たことがある。オークよりさらに上位に位置する、純粋な身体能力に優れた亜人型の魔物。
だが、実物を目の前にすると、その印象は映像で見るものとはまるで違った。立っているだけで空気が重く感じるほどの圧があり、渋谷ダンジョンのホブゴブリンとは明らかに格が違う。
大河はすぐに《鑑定》を発動した。
【オーガ】
【レベル:34】
【体力:49】
【筋力:53】
【耐久:47】
【敏捷:31】
【魔力:18】
【精神:24】
「レベル34か」
自分より四つ上。それ以上に目につくのは筋力53という数値だった。大河の現在の筋力は41で、真正面から力比べをすればまず勝てない。
しかも敏捷も31あり、オークのように単純に遅さを突けばいい相手でもなかった。
【34!?】
【普通に格上じゃん】
【中間ボスだからな】
【帰るなら今だぞ】
【TAIGAならやるだろ】
大河はコメントを見ることなく、《マジックソード》を抜いた。
「……いいな」
数字を見ただけでも、強いことが分かる。
だからこそ、大河の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
その時、オーガの赤い目が大河を捉える。
「グオオオオオオッ!!」
空気そのものを震わせるような咆哮が、ボス部屋全体へ響き渡った。
大河は両脚へ魔力を流しながら、《マジックソード》をゆっくりと構える。
「さて――どこまで強いかな」
先に動いたのはオーガだった。
三メートル近い巨体が前へ傾いたかと思った次の瞬間、地面を蹴る音とともに一気に距離を詰めてくる。敏捷31という数字は伊達ではなく、これまで戦ってきたオークとは明らかに踏み込みの質が違った。
「速っ……!」
大河は反射的に右へ跳ぶ。
直後、巨大な棍棒がさっきまで立っていた場所へ叩きつけられた。岩の床が砕け、拳ほどの石片が周囲へ飛び散る。
まともに受ければ、防御したところで無事では済まないことは一目で分かった。
【やば】
【床割れたぞ】
【これ受けたら終わるだろ】
【避けるしかないな】
大河も同じ結論に達していた。
正面から競り合う相手ではない。だからこそ、自分が勝っている部分を使う。
大河は両脚へ流す魔力を強めると、棍棒を引き抜こうとしているオーガの側面へ一気に回り込んだ。そのまま《マジックソード》へ魔力を送り、黒い刀身の外側へ半透明の刃を形成する。
「まずは一発」
脇腹を狙い、全力で振り抜いた。
魔力の刃が赤黒い皮膚へ食い込む。
だが――。
「硬っ……!」
確かに切れた。それでも、オークを斬った時ほど深くは入っていない。分厚い皮膚の下にある筋肉そのものが、刃を押し返してくるような感触だった。
「グオッ!」
オーガが身体ごと振り返り、その勢いのまま左腕を振るう。
大河は咄嗟に後ろへ跳んだが、完全には逃げ切れなかった。
「っ!」
拳の先端が胸元を掠める。
まともに当たってはいない。それでも衝撃だけで身体が後方へ弾かれ、大河は数メートル離れた場所へ着地した。
「……掠っただけでこれか」
胸の奥に鈍い痛みが残っている。
大河は一度呼吸を整えながら、目の前のオーガを見つめ直した。速度も防御力も高く、何より一撃が重い。渋谷ダンジョンのホブゴブリンとは比較にならない。
ただ、それを確認した大河の表情に恐怖はなかった。
「やっぱりボスはこれくらいじゃないとな」
【楽しそうにすんな】
【こいつ笑ってるぞ】
【格上相手になるとテンション上がるの草】
【戦闘狂じゃないって言ってたよな?】
配信の向こうで好き勝手に言われていることなど、大河の意識には入っていない。
オーガが再び棍棒を構える。
大河も《マジックソード》を握り直した。
一撃目で分かったことは多い。普通に斬っても浅く、身体強化だけでは相手の反応速度を完全には置き去りにできない。それなら、もっと使い方を変える必要がある。
「……次は、脚だけじゃなくて」
大河は胸の奥にある魔力へ意識を向ける。
両脚へ流していた魔力の一部を、今度は腰から背中、右肩、右腕へと広げていく。
全身を均等に強化するには、まだ技術が足りない。それでも、剣を振るう一連の動作に関わる場所だけならどうか。
昨日から何度も繰り返してきた魔力操作を思い出しながら、大河はゆっくりと流れを整えていく。
オーガが地面を蹴った。
「来い」
大河も前へ出た。
今度は両脚だけではなく、腰から背中、肩、右腕へと魔力を流しながら踏み込む。剣を振るう動作全体を強化するつもりだったが、複数の場所へ同時に意識を向けた瞬間、身体の中を通っていた魔力の流れが大きく乱れた。
「っ……!」
右脚に集めていた魔力が薄れ、踏み込みが一瞬遅れる。そのわずかなズレを逃さず、オーガの棍棒が横薙ぎに迫った。
大河は咄嗟に《マジックソード》を構えた。
次の瞬間、凄まじい衝撃が腕を突き抜ける。
「ぐっ……!」
身体ごと横へ吹き飛ばされ、地面を二度転がった。剣を手放さなかっただけでも幸運だったと言えるほどの一撃で、両腕には痺れが残り、呼吸も一瞬止まる。
【今の受けたのやばい】
【魔力の流れ乱れた?】
【無理に全身やろうとしてないか】
【まだ早いって】
大河は片膝をついたまま、すぐに立ち上がろうとした。しかし、オーガは待ってくれない。
「グオオオッ!」
巨大な影が視界を覆う。
頭上から振り下ろされる棍棒を横へ転がるようにかわし、辛うじて直撃を避けた。床へ叩きつけられた衝撃で身体が浮き、飛び散った石片が頬を切る。
「くそっ……」
大河は距離を取りながら、もう一度魔力を全身へ流そうと試みる。
一つずつならできる。二つ、三つ程度なら、戦いながらでも維持できるようになってきた。
だが、両脚から腰、背中、肩、腕までを一つに繋げようとすると、途端にどこかが薄くなり、別の場所へ魔力が偏ってしまう。身体の中にある魔力を全身へ巡らせるという考え方は分かっていても、それを実際に形にする技術が追いついていなかった。
「グオッ!」
オーガが再び迫る。
大河は右脚だけを強化して横へ逃れ、返す動きで《マジックソード》を振るった。魔力刃が肩口へ食い込むものの浅い。
すぐに伸びてきた左腕をかわしきれず、今度は脇腹へ拳が掠めた。
「がっ……!」
息が漏れ、身体が大きくよろめく。
攻撃を受けるたびに、少しずつ余裕が削られていく。
これまでなら速さで相手を翻弄できた。しかし、オーガは大河の動きについてくるだけの敏捷を持っている。身体強化を部分的に使っているだけでは、決定的な差を作れない。
【押されてる】
【これ普通に危ないぞ】
【一回下がれ】
【部分強化じゃ足りないな】
「分かってる……!」
大河は呼吸を乱しながら、それでも笑みを浮かべていた。
怖くないわけではない。一撃でもまともに受ければ終わるかもしれない。実際、さっきから何度も紙一重でかわしている。
それでも、頭の中から離れない考えがあった。
全身に魔力を巡らせられれば。
部分的に強化するのではなく、身体そのものを一つの流れとして強化できれば、もっと速く、もっと強く動けるはずだ。
大河はもう一度、胸の奥にある魔力へ意識を向ける。
だが、オーガの棍棒がそれを許さない。横薙ぎから振り下ろし、さらに踏み込みからの拳。
避けるたびに魔力への集中が途切れ、作りかけた流れが崩されていく。
「っ……まだ、無理か」
肩で息をしながら距離を取った大河の額から、汗が流れ落ちる。
右腕には痺れが残り、脇腹にも鈍い痛みがある。脚も少しずつ重くなり始めていた。
一方のオーガにも傷は増えているものの、まだ致命傷には遠い。
「グオオオオッ!」
咆哮とともに、オーガがこれまで以上の勢いで突進してくる。
大河は右脚へ魔力を集中させ、かわそうとした。
その瞬間、脚に思うような力が入らなかった。
「っ!」
連続した身体強化と魔力操作による疲労で、一瞬だけ踏み込みが遅れる。
巨大な棍棒が迫る。
かわしきれない。
大河は反射的に《マジックソード》を両手で構えた。
「――ぐっ!」
轟音とともに腕が悲鳴を上げ、身体が大きく弾かれる。
背中から地面へ叩きつけられ、視界が一瞬暗くなった。
【TAIGA!】
【やばい】
【立てるか?】
【これ撤退した方がいい】
遠くでコメントが流れている。だが、大河にはもう画面を見る余裕などなかった。
「……痛ぇ」
息を吐きながら、ゆっくりと身体を起こす。
オーガはすでにこちらへ向かって歩いてきていた。
逃げるなら今かもしれない。
そう考えた瞬間、大河は自分でも驚くほど素直に答えを出していた。
「……まだだ」
ここで逃げれば、生きて帰れる。それは分かっている。
それでも、あと少しで何かを掴めそうな感覚があった。
今まで一か所ずつ動かそうとしていたから駄目だったのではないか。右脚や左脚、腰、背中、腕と、それぞれを別々に意識するから流れが途中で切れてしまう。
身体は最初から一つなのだから、魔力も一つの流れとして全身を巡らせればいい。
「……全部、繋げる」
大河はゆっくりと立ち上がった。
胸の奥にある魔力へ意識を向ける。今度は場所を一つずつ指定するのではなく、胸から肩、腕へと流し、そのまま腹から腰、両脚へ巡らせ、再び身体の中心へ戻していく。
一度で終わらせない。
途切れさせず、そのまま何度も循環させる。
最初は細く不安定だった流れが、繰り返すたびに少しずつ一つへ繋がっていった。
オーガが走り出す。
大河の目の前へ巨体が迫ってくる。それでも、今度は意識を切らなかった。
「流れろ……!」
全身を巡っていた魔力が、完全に一つの循環として繋がった。
その瞬間、大河の身体から淡い光が滲み出す。
「……え?」
薄い白色の魔力が、腕や脚だけではなく全身を包むように揺らめいていた。これまで身体の内側だけを流れていた魔力が、溢れるように皮膚の外へ姿を現している。
【は?】
【オーラ出たぞ】
【全身強化成功した!?】
【いや早すぎるだろ】
【《魔力操作》まだ取ったばっかりだよな!?】
大河自身にも、今までとは違う感覚がはっきりと分かった。
身体の一部だけが軽いのではない。全身が一つに繋がり、力を入れようと思うより先に身体が反応する。呼吸一つ、指一本にまで魔力が通っているようだった。
目の前では、オーガの棍棒が振り下ろされようとしていた。
さっきまでなら、ぎりぎりまで集中しなければ見切れなかった一撃。
だが今は――。
「遅い」
大河の姿が、その場から消えた。
棍棒が地面を砕いた時には、すでにオーガの側面へ回り込んでいる。
「グオッ!?」
オーガが驚いたように振り向く。
大河は自分の身体を見下ろす暇もなく、全身を巡る魔力を保ったまま《マジックソード》へ魔力を流した。
淡いオーラに包まれた腕からさらに剣へ魔力が通り、黒い刀身の外側へ形成された魔力刃も、先ほどまでより僅かに大きく安定している。
【マジで全身強化だ】
【普通は部分強化からかなりかかるぞ】
【いや、才能あるわ】
【でもまだオーラ薄いな】
【上位勢の身体強化見たらビビるぞ】
【AとかSは全身から魔力噴き出してるみたいになる】
【それでも六日目でこれは十分おかしい】
【そのまま極めろTAIGA】
大河はコメントを見ることなく、目の前のオーガへ意識を集中させていた。
淡い魔力の光が全身から静かに揺らめいているが、まだ完成には程遠い。魔力の循環も、意識を少し乱せば崩れそうなほど不安定だった。
「……これが、身体強化か」
今まで使っていたものは、身体強化の一部に過ぎなかった。
全身へ魔力を循環させ、身体そのものを一つのまとまりとして底上げする。そして技術を極めるほど、身体から溢れ出す魔力――オーラも強くなる。
今の大河にあるのは、ようやく目に見える程度の淡い光だけ。
その先に、まだいくらでも上がある。
「いいな」
大河は笑った。
また一つ、強くなるための道が見えた。
「もっと極めればいいんだろ」
淡いオーラを揺らしながら、《マジックソード》を構え直す。
目の前ではオーガが怒りに満ちた咆哮を上げていた。
戦いは、まだ終わっていない。
オーガが再び地面を蹴った。先ほどまでと同じ、巨体に似合わない鋭い踏み込みだったはずなのに、今の大河にはその動きがはっきりと見える。
全身を巡る魔力が、足を動かすためだけではなく、視線を送り、身体を捻り、剣を構えるといった一つ一つの動作まで底上げしていた。
部分的に強化していた時とは違い、身体全体が同じ速度で反応するため、動きの途中で生まれていた僅かな遅れがなくなっている。
「グオオオッ!」
巨大な棍棒が横薙ぎに振るわれる。
大河は避けるために距離を取るのではなく、逆に一歩踏み込んでオーガの懐へ潜り込んだ。
棍棒の軌道が頭上を通り過ぎると同時に、全身の捻りをそのまま剣へ乗せ、《マジックソード》を脇腹へ振り抜く。
「――っ!」
手応えが、さっきまでとは明らかに違った。
魔力刃だけでは浅くしか入らなかったオーガの皮膚を、今度は深く切り裂いている。全身を強化したことで剣を振る速度も、踏み込む力も、身体を支える力もまとめて上がっていた。
「グアアアアッ!」
怒りと痛みに満ちた咆哮を上げながら、オーガが左腕を振り回す。
大河はその拳を紙一重でかわし、一度距離を取った。
【さっきまでと別人じゃん】
【全身強化でここまで変わるのか】
【いや、身体強化自体はそういう技術だけど習得速度がおかしい】
【《魔力操作》まだ取ったばっかりだよな!?】
【オーラ薄いのにこの差か】
【上位勢になるともっとえぐいぞ】
大河にはまだコメントを見る余裕はなかったが、視聴者たちの反応は一気に加速していた。
全身強化は珍しい技術ではない。長く探索者を続けている者なら、習得している者も少なくない。
問題なのは、大河がその入口へ辿り着くまでの速さだった。
部分強化を覚えたばかりの新人が、格上のボスとの戦闘中に全身への魔力循環を成立させる。経験のある探索者ほど、それが簡単ではないことを知っている。
一方の大河は、そんな評価など知らない。
頭にあるのは、今の感覚を逃さないことだけだった。
「……切るなよ」
胸から全身へ巡る魔力の流れを意識し続ける。
一度繋がったからといって、もう自由に扱えるわけではない。少しでも集中が乱れれば、どこかで流れが細くなり、身体を包んでいる淡いオーラも揺らいだ。
オーガもそれを待つつもりはない。
「グオオオオッ!」
両手で棍棒を握り直し、今度は真正面から振り下ろしてくる。
大河はその軌道を見切り、直前で左へ踏み込んだ。棍棒が地面を砕く音が背後で響く。
そのまま肩口へ一閃を入れ、返す刃で太腿を切り裂いた。
「グアッ!」
オーガの巨体が揺れ、動きが目に見えて鈍る。
先ほどまで一方的に押し込まれていた状況が、完全に逆転し始めていた。
「これなら……いける」
大河は笑った。
だが、次の瞬間、全身を巡らせていた魔力が一瞬だけ乱れた。
「っ……!」
右脚から魔力が抜け、淡いオーラが大きく揺らぐ。
身体の反応が僅かに遅れたその隙を、オーガは逃さなかった。
大河の脇腹へ、巨大な腕が迫る。
避けるには遅い。
大河は咄嗟に左腕を上げ、その一撃を受けた。鈍い衝撃が身体の奥まで突き抜け、そのまま数メートル先へ弾き飛ばされる。
今度は倒れこそしなかったものの、着地した足が大きく滑り、左腕には強い痺れが残った。
「……まだ安定しないか」
全身強化を成功させたからといって、急に完成したわけではない。むしろ一度その感覚を知ったことで、今まで以上に難しさが分かる。
魔力を全身へ流すだけならできる。問題は、それを戦いながら途切れさせず循環させ続けることだった。
オーガが追ってくる。
大河は乱れた魔力を無理に戻そうとはせず、まず両脚だけへ集めて攻撃をかわした。棍棒が横を通り抜けた瞬間に距離を取り、そこで改めて胸の奥から魔力を流し始める。
一度目よりも速い。
胸から肩、腕、腹、腰、両脚へ巡らせ、その流れを再び身体の中心へ戻していく。
「……そうだ」
一度繋げた流れを、今度は思い出すようになぞっていく。
淡い光が再び大河の全身を包んだ。
【戻した】
【一回切れてもすぐ繋ぎ直せるのか】
【もう感覚掴み始めてるじゃん】
【成長速度おかしいって】
大河は地面を蹴った。
今度は先ほどよりも無駄がない。
オーガの振り下ろしを斜め前へ抜け、そのまま懐へ入る。脇腹へ一撃を入れ、さらに後ろへ回り込んで膝裏を深く切り裂いた。
「グオッ……!」
巨体が初めて片膝をつく。
大河は追撃しようとしたが、オーガは棍棒を地面ごと薙ぎ払うように振り回した。無理に踏み込まず後方へ跳び、距離を取る。
焦らない。
今までなら、隙を見つければすぐに攻め込んでいた。だが、渋谷で死にかけた経験がある。
相手が弱っている時ほど、無理に決めにいけば思わぬ反撃を受ける。
大河は呼吸を整えながら、オーガの動きを見た。脇腹や肩、太腿、膝裏には積み重ねた傷が残り、そこから流れる血とともに明らかに動きも鈍っている。
それでも、オーガはまだ立ち上がった。
「グオオオオオッ!」
最後の力を振り絞るような咆哮とともに、オーガが棍棒を両手で握る。
大河は《マジックソード》を構えた。
全身を巡る魔力を保ったまま、さらに剣へ魔力を流す。身体を包む淡いオーラと、刀身を覆う半透明の魔力刃。
その二つを同時に維持するだけで頭の奥がじわじわと重くなるが、それでも大河は流れを切らさなかった。
「来い」
オーガが突っ込んでくる。
巨大な棍棒が振り上げられる。
大河は真正面から走った。
【正面!?】
【避けろ!】
【何してんだ】
棍棒が振り下ろされる直前。
大河は左へ大きく踏み込んだ。
全身強化によって底上げされた脚力が、一瞬で身体を攻撃範囲の外へ運ぶ。棍棒が空を切り、そのまま床へ叩きつけられた。
オーガの身体が前へ流れる。
完全な隙。
大河は右脚で強く地面を蹴り、腰から背中、肩、腕へと連なる身体の動きを一つに繋げる。
全身を巡っていた魔力も、その動きへ重なるように流れ込んだ。
「――これで!」
《マジックソード》が横一閃に振り抜かれた。
魔力刃がオーガの首へ深く食い込み、そのまま止まることなく通り抜ける。
一拍遅れて、巨大な身体が崩れ落ちた。
地面を揺らす重い音が、静まり返ったボス部屋へ響く。
大河は剣を振り抜いた姿勢のまま、しばらく動かなかった。
やがて、オーガが起き上がらないことを確認する。
「……勝った」
その瞬間、全身へ熱が広がった。
【天草 大河】
【レベル:31】
同時に、《鑑定》へ表示された自分のステータスを見て、大河は目を瞬かせた。
【体力:42】
【筋力:43】
【耐久:41】
【敏捷:44】
【魔力:40】
【精神:45】
「……二つずつ上がってる」
これまでなら、レベルが一つ上がった時の上昇値はすべて一だった。
だが今回は違う。
《レベルアップ補正》。
その効果が、初めて数字として現れていた。
「これ……やっぱりかなり強いな」
思わず漏れた言葉に、コメントが一気に流れる。
【何が?】
【新スキルの効果か?】
【今ステータス見てるだろ】
【言え】
【隠すって決めたばっかだろw】
「これは秘密です」
大河は笑いながら表示を閉じた。
そしてようやく、《マジックソード》を下ろす。
身体を包んでいた淡いオーラも、役目を終えたように少しずつ薄れていった。
【身体強化もおめ】
【そっちは隠せないな】
【オーラ出ちゃったからな】
【まだ薄いけど十分すごい】
【上位勢みたいになるまで頑張れ】
そのコメントだけは大河の目に留まった。
「上位勢みたいに、か」
もっと強くなれば、この淡い光も変わる。
身体強化には、まだ先がある。
その事実が何より嬉しかった。
「じゃあ、そこまでやりますよ」
迷いなくそう答えた大河の前で、ボス部屋の奥にあった壁がゆっくりと開き始めた。
開いた壁の向こうを確認する前に、大河はその場へ腰を下ろす。
「……さすがに、ちょっと休むか」
【ちょっとどころじゃない】
【ボコボコにされてただろ】
【ポーション飲め】
【今のでそのまま六層行ったら怒るぞ】
「分かってますって」
苦笑しながら《アイテムボックス》へ手を伸ばし、昨日の反省から用意していたポーションを取り出す。
栓を開け、一気に飲み干した。
脇腹や左腕に残っていた痛みがゆっくりと薄れていく。完全に疲労まで消えるわけではないが、戦闘で受けた傷はかなり楽になった。
「やっぱ持っとくべきだな、これ」
【今さら】
【渋谷で死にかけて学んだ男】
【ちゃんと成長してて偉い】
大河は最後のコメントに少しだけ眉を寄せた。
「なんか上からだな……」
そんなやり取りをしながら、大河は倒れたオーガへ近づいた。
三メートル近い巨体は地面に横たわったまま動かない。大河は傷だらけになった身体を一度見下ろしてから、慣れた手つきで魔石を回収し、《アイテムボックス》へ収納した。
そして視線を上げる。
ボスを倒したことで、部屋の奥には先ほどまでなかった宝箱が出現していた。
「これが中間ボス報酬か」
大河が蓋を開けると、中には数本のポーションと、黒みがかった金属の塊が入っていた。
「素材か?」
《鑑定》を使う。
【魔鉄】
【魔力を含有する金属素材。武器・防具の製作に使用される】
「へえ」
【魔鉄じゃん】
【普通に当たり】
【Fランク中間ボスなら悪くない】
【装備作るなら取っとけ】
「装備作る予定はまだないけど……まあ、持って帰るか」
大河は魔鉄とポーションを《アイテムボックス》へ収めた。
立ち上がった頃には、呼吸もかなり落ち着いていた。
大河は改めて、先ほど開いた通路へ目を向ける。五階層までとは違い、その先から流れてくる空気は僅かに冷たい。
通路の奥には、さらに下へ続く階段が見えていた。
【六層行く?】
【今日はもう十分だろ】
【いやこいつなら行く】
【絶対行く顔してる】
「なんで分かるんですか」
【顔】
【声】
【ここまでの行動】
大河は否定しようとして、やめた。
確かに、その通りだった。
オーガとの戦闘でかなり消耗したとはいえ、ポーションで傷は回復している。時間にもまだ余裕があり、何より全身への《身体強化》という新しい感覚を掴んだばかりだ。
このまま帰る気には、どうしてもなれなかった。
「まあ、無理はしませんよ」
【その言葉信用できない】
【昨日はちゃんと帰ったから一応信用しろ】
【危なくなったら戻れよ】
「分かってます」
大河は《マジックソード》を握り直し、開いた通路へ足を踏み入れる。
階段を下りるにつれて、周囲の景色が少しずつ変わっていった。
そして、その先。
六階層へ続く空間を見た大河は、静かに口元を緩めた。
「……まだ行けるな」
探索者になって六日目。
池袋ダンジョンの攻略は、ようやく後半へ入った。




